カフェイン併せ呑む
おれは世界の真理に目覚めた。コーヒーやお紅茶を飲むと胸がバクバクして身体に悪い。
これは使命だ。パソコンでポスターを作成して印刷して階段ヨコの掲示板に張り出したら担任に呼び出された。人がいなくなった放課後の教室で、おれはあさっての方向を見る。
「みんなのためを思ってやったんです」
「こっちを向いて話せ」
いやいやながら、担任の涼しい頭を睨む。
「薬物乱用防止のポスターのとなりに並べても遜色がない内容でしたよ」
「カフェイン飲料は禁止薬物じゃなあい」
「生徒や他人が不健康だからって自分の退職金には何の影響もないと考えていませんか」
「逆に何の影響があるんだ」
「自分以外の人間の安眠が阻害され不健康になりストレスをためると巡り巡って己に不幸が降りかかります。みんなのためを思うことが自分自身を思うことなんですよ」
担任は曲げた中指を親指の腹にぐっと押してつくった武器をおれの額近くまで持ってきたが、逡巡のあとで矛を収めた。と見せかけた容赦のないデコピンで、おれは後退した。
だが、おれのカフェイン撲滅運動の前進は止まらない。おカフェテリアのお自動販売機でおペットボトルのお紅茶お飲料を購入しようとしていた友人浜南の指を遮って、勝手にカフェインレス飲料のボタンを押す。
ガコンッ。ガシッ。ボカッ。
「何しやがる」
「おまえの身を案じたまでよ」
浜南は「金を返せ」とおれの肩をゆさぶったが、自動販売機に並ぶ列を見て、肩をゆさぶりながら壁際まで退避した。
「金を返せ」
「それしか言えないのか。カフェインが極まった証拠だ」
「てめえのせいで極められなかったんだ」
カフェインは一日にしてならず。誘惑に一瞬だけ打ち克ったとしても、第二第三の敵、つまり離脱症状に襲われる。カフェインを含んだ飲み物で日常的に喉を潤している人間は、じわじわと体内の水分がカフェイン水に置き換わって、最終的にカフェイン脳になる。
この状態をカフェインが極まったと言う。
「おまえがイライラしている理由を教えてやろうか。カフェインの離脱症状だ」
「違う」
おれはぎゃあぎゃあとうるさい浜南を空いた席に座らせて、その対面に腰を下ろした。
「もしもおれが大金持ちになったらカフェインを撲滅するための財団を設立するんだ」
「カフェインに関連する企業の従業員や役員の生計はどうなる。彼らにも家族がいる」
「わかっている。人を不健康にして儲けた金で肥えたやつらにも最低限の文化的な生活を送る権利がある。だから市場で売れなくなったコーヒーやお紅茶を持ち帰って固めてゼリーにして暮らしていけばいいだろう」
「ゼリーのカフェインはいいのか」
雷に打たれ、おれはカフェテリア特有のデザイン性を重視した丸みを帯びた椅子に座りながらつるんと腰を滑らせた。
「確かに、脱法ゼリーが流行してしまう」
「コーヒーも紅茶飲料も合法だ」
法が追いついていないだけで、カフェインは違法である。「本当に危険ならこんなに普及しているはずがない」人間の良さは環境に適応することであり、良くなさは環境に適応してしまうことにある。
カフェインの危険性を認知させたい。放課後、おれは文芸部の部室に潜入した。長机の最奥、パイプ椅子にふんぞりかえっている部長宮本と視線が垂直に交わるように座る。
「なあ文芸部、カフェインを撲滅するエッセイを寄稿したいんだが」
「ダメダメ。うちはオール小説だよ」
「文芸部のくせに詩もエッセイも書かないのか。どうせお色気小説しか書いてないんだろ。お色気小説部に変更しろよ、お色気小説部」
おれは横目で部長を見た。腕を組み、眉間にしわを寄せている彼の姿は、カフェインの離脱症状で頭痛に苦しむ人間のようだった。
「カフェインを撲滅する小説を書く」
「プロパガンダはうちの顧問が許さんよ」
「その顧問と同じ年代のおっさんが若い女に惚れられて褒めそやされるカフェイン撲滅小説を書く」
宮本はかぶりを振った。
「顧問の内藤はコークハイが好きよ」
「カフェインにアルコールだと」
「しかも喫煙者」
内藤先生の内臓はもはや手遅れだ。彼はもう助かるまい。苦しんで死ぬだろう。しかし、おれたち若人はまだ取り返しがつく。
というわけで、カフェイン撲滅運動の協力者を募るが、吹奏楽部も美術部も耳を貸さない。SF研究会に「宇宙人が地球人を滅ぼすためにカフェインを広めたんだ」と伝えても「宇宙人はいないよ」と一蹴される始末。
宇宙人はいなくても、カフェインには害がある。おれは大大的な広報を諦め、地道にカフェインの危険性を訴える活動を始めた。
カフェテリアはいつも賑わっており、自動販売機の利用者も多い。そこで、おれは自動販売機と自動販売機のあいだに挟まった。
「ストップ地球温暖化、とカフェイン摂取」
題して、カフェイン撲滅あいさつ運動だ。
さっそくおれの声かけに興味を示したらしい男子生徒が缶コーヒーのボタンに指を置いたまま静止した。制服の袖からコーヒー臭が漂う。
「その二つに何の相関があるんです」
「カフェインを摂取すると寿命が縮まる。おまえが早死にすることで多くの人間が悲しむ。その悲しみを忘れるために電気代のかかることに没頭する。やがて地球は温暖化する」
ガコン――男子生徒は取り出した缶コーヒーを床に置いた。
「それなら僕は関係ないです」
自分とそう歳の変わらない前途洋洋な若者が、カフェインに蝕まれて寝つきが悪くなり、うつろな目で自動販売機のボタンを押すところを見て、おれは心臓への負担を感じた。
「だいたい地球とか他人の健康とかどうでもよくないですか。むしろみんな困っちゃえばいいんだ。当然の報いってやつです」
一年かと探りを入れてみると「同学年です」と二本目の缶コーヒーが床に置かれる。
「当たり前のように自分を大事にしなかったやつが、当たり前のように壊れるだけです」
「だからこそ、啓蒙する必要がある」
三本目。
「健康に良いと思って飲んでいる人はいないと思いますよ。おいしくて、習慣になっているから続けるだけで、今より良い明日なんてそこまで望んでいないってことです」
四本目。彼は床に積んでいた缶コーヒーを抱きかかえた。危険人物だ。
「習慣を変えるのって、これまでの人生の否定みたいで嫌じゃないですか」
「そんなに飲んだらクールでも火傷するぜ」
男子生徒は「ただの罰ゲームです」と答えて走り去っていった。
翌日、自動販売機のあいだに挟まっているとふたたび男子生徒が現れた。
「四本、おまえにカフェインは渡さん」
「皆鷹です」
勝手に名乗りだした皆鷹は慣れた手つきで四本のコーヒー缶を抱えて去っていった。
翌翌翌日、おれは缶コーヒーのボタンに触れた皆鷹の指に横からチョップをいれた。
「折れたらどうするんですか」
「折れているのはおまえの心だ」
皆鷹は「わかってますよ」と大げさにうなずいた。だが、その間も虎視眈々と缶コーヒーを狙っている。
「カフェインの過剰摂取が良くないことは」
「そうだけどそうじゃない」
「頭がものすごく痛くなりますし、これもう死んじゃうんじゃないかってぐらい鼓動が早くなりますし、お腹痛いですし、眠れないですし、ゲエゲエ吐いちゃいますし」
制服の袖から――よく見るとシミだらけの黒い制服から徒ならぬコーヒー臭を放つこの男は缶コーヒーのダミーを愛おしそうに、あるいは忌まわしげに見つめた。
「でも、いじめられている毎日よりいじめられていない明日を想像するほうが怖いです」
やつが俯きはじめた隙に、おれは横からボタンを押した。取り出したミネラルウォーターを飲み、残りを渡してやる。
「僕のお金……」
「お紅茶やコーヒーなんて飲むな。毎日きれいな水だけで過不足なく自分を満たせ」
すでに半分もない水を皆鷹は四本の缶コーヒーを抱えていたときよりも丁重に、両手で包んだ。
「だけど、僕は今の状況にどうしようもなく依存しています」
そう、何事も一日にしてならず。一瞬だけ打ち克ったとしても、離脱症状に襲われる。
「ひとりで耐えられると思えないです」
「ひとりじゃないさ」
ぱっと皆鷹が顔をあげた。
「おまえには水がある」
隣の自動販売機でお紅茶飲料を買おうとしているコワッパを威嚇しつつも、呆気にとられている皆鷹に声をかける。
「カフェインは毒だが、一滴だけなら許してやる。でも最終的に水に帰ってこい。水で満たされている自分が本当の自分だ」
水、水と連呼していると喉が渇いてきた。おれは自動販売機で玄米茶を買って飲む。すぐさま体内の水分が玄米茶に置き換わって健やかな気持ちになる。
ちらりと缶コーヒーの擬人化に目をやると、皆鷹は腹を押さえていた。当然の報いだ。カフェインはいつでも人間を苦しめるが、特に空腹時に摂取すると胃を破壊する。そっと覗きこむと、やつは涙が出るほど笑っていた。
「あなたに許されても困りますよ」
そう、許しを与えられるのはおれじゃない。
清濁併せ呑み、過去の自分を受容しろ。おれたちの人生は長くて広くて大きいから、コーヒーをぶちまけても生きていけるさ。