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真夜中のジャム屋

日に日に綺麗になっていったトニオのエプロンは、何故かこの一周間で出会った頃と同じくらい、いやそれ以上の汚れ方でアンジーの元にやってきた。

 エプロンの汚れと比例してトニオの元気がなくなっていく。

 アンジーは会うたびに憔悴していく彼の姿に胸が痛くてたまらない。と、同時に彼が訪れてくれる暗い喜びが胸に広がっていくのを止められなかった。

 今日のトニオは頬がはれ上がり、唇の端が少し切れていた。また、殴られたのだろう。

「ああ、なんて可哀想なトニオ。またあの男にやられたのね。あいつってばすぐに殴るんだから、ほんとに野蛮なやつ」

 肉の薄い肩を落としたトニオを椅子に座らせて、アンジーは彼の足元に跪いて、トニオの腫れた頬に氷嚢を当てた。

「あ、ありがとう。あ、アンジー」

 トニオは少し照れたようにはにかんだが、口を動かしたせいで痛みがはしり小さく呻いた。

「大丈夫? 痛いわよね。トニオは一生懸命に頑張っているのに。本当にアイツは酷いやつだわっ」

 鼻息荒く憤るアンジーに、トニオは困ったように眉をゆがませた。

「で、でも。僕も悪いんだよ……。せ、せっかく上手になってきたジャムづくりが……またへ、下手くそに戻った……から……」

「どういうこと?」

 アンジーは氷嚢の位置を変えながら聞いた。

「うん……。ぼ、ぼくが仕込んだジャムはその日はとっても美味しいんだよ。で、でもね。ひ、一晩寝かせるとね、と、とたんに変な味に変わるんだ」

「変な味?」

「そ、そう。あ、甘いものは苦く。あ、赤い色は青黒く。そ、それに変なにおいもする。さ、錆びた鉄の様な……血液の様な……生臭い匂いが」

「そんなことがあるのかしら」

 アンジーは心底不思議そうに答えた。しかし、彼女の膝裏は急激に汗をかき、スカートの中を嫌な汗が伝う。ぬぐいたくてもぬぐえない気持ち悪さを、トニオが気が付いた様子はない。

「ぼ、ぼくも不思議でね。さ、最初それが起きたときは砂糖や塩の配分や煮詰める時間を間違えたからだろう、と思ったんだ」

「そ、そうね。考えられるわ」

「で、でもね。ほ、他の人と同じやり方でやってるのに、ぼ、ぼくのジャムだけ変わってしまう」

「それは……おかしいわね」

 アンジーの答えに、トニオは頷いた。

「お、親方にはね、お、お前にはジャムを腐らせる才能があるんじゃないか、な、何て言われたけど……」

「それは違うわ!! だって、あなたは見違えるほどジャム作りが上手になっていたじゃない!!」

 アンジーは氷嚢を投げ捨てて、トニオの手を握りしめた。

 トニオは落ちくぼんだ瞳を緩めると、ありがとうと彼女の手を握り返した。

「だ、だからね。ぼ、ぼくは他に問題があるんじゃないかと思って」

「え」

「ぼ、ぼくのジャムは夜にどういう変化を起こしているんだろうと思って、み、見張ってみたんだ」

 アンジーはとっさに身を引いたが、トニオに手を強く握られため離れることが出来なかった。

「に、逃げないで。あ、アンジー」

「逃げるわけないじゃないっ。なんで私が逃げると思うの」

「お、思わないよ」

「そうでしょう! さあトニオ、話を続けて頂戴」

 アンジーの手は汗が吹き出し、異様なほど熱を持ち始めた。アンジーは恥ずかしくて、恐ろしくて、トニオの手を振りほどきたかったが、華奢すぎる体と裏腹に、毎日のジャムづくりで鍛えられた彼の手は大きく、掌は固く、腕の力はアンジーがとてもかなうものではなかった。

「そ、その夜にね。ぼ、ぼくは厨房の隅に隠れていたんだ」

 トニオは月が猫の爪のように細く、闇夜を切り裂いていた晩を思い出していた。

 連日のジャムづくり失敗の罰として、トニオは厨房の片付けと店の戸締り、掃除をすべてやらされていた。

 大きな鍋を洗い終え、翌日分の材料の下ごしらえを終えた頃には時計の針はとうに0時を超えていた。蝋燭の節約のため明かりを消した店内は暗い。しかし、ほぼ毎日この暗い中で作業しているトニオには問題ない。

僅かに漏れ入る外からの明かりが真っ白なエプロンに反射する。アンジーの店に行くことだけは忘れなかったので、エプロンは毎日清潔だ。けれど、明日が来れば確実にぐちゃぐちゃになる自分のソレが不憫で、トニオは優しく布を撫でた。そして戸棚に並べられたジャムに目をやり、大きくため息を吐いた。

 戸棚の三分の二は親方の作ったものだ。親方は毛むくじゃらで、ガタイが良くて、声も大きくてがさつな男だが、彼の作るジャムはとびきり繊細で美味しい。

 だから、どんなに怒られても殴られてもトニオは彼の弟子をやめない。

 残りの棚のジャムはトニオを含める弟子たちの作品だ。与えられた棚にそれぞれの名前が書いてある。トニオは自分の作ったイチゴジャムを手に取ると瓶のふたを開けた。

 暗闇でもきらきらと光る赤いジャムを指ですくって、口に入れた。

苺の味を上手に引き出した上品な味がする。自分で言うのもなんだが大分上達したと思う。

「……い、今は美味しいのに、ど、どうしてお前は味が変わるんだよ」

 自分の作るジャムの味が変化するようになって今日で7日目だった。

 どうせ明日も怒られるのならば、寝不足になってもいいから一晩中ジャムの変化を見てみようと、店で夜を明かす気でいたのだ。

「お、お前が、どんな変化をするのか、き、今日は確かめてやるんだ」

 こつんと瓶をつつくと、カタンと何かが外れる音がした。

「だ、誰?」

 トニオの言葉に返事はない。

 しかし、カサカサカサっと何かが動いている音がする。

 トニオはジャムの瓶をとっさに棚に戻すと、作業台の下に隠れた。

 カサカカサカサという音は自分の隠れている作業台を通過していく。ほんの少しだけ顔をのぞかせると、厨房の扉の下のわずかな隙間から掌ほどの大きな蜘蛛が出ていくのがみえた。

 しばらくすると店の表の扉が開く音がした。賢い蜘蛛だ。扉の鍵を開けて仲間を迎え入れたらしい。何やら声がするがここからでは聞き取ることができない。

 泥棒だろうか。もしかすると蜘蛛の親分みたいな化け物だったらどうしようか。

 どんな奴だとしても、貧相な自分ではまるで勝てる気がしないが、とりあえず武器になる物をと思い、作業台の引き出しから一番大きな包丁を手にとった。こつこつと、こちらに向かってくる足音が聞こえ、慌てて作業台の下に戻った。

「いたっ」

慌てすぎて、思わず刃が腕に当たり、ボツリと血が床に落ちてしまった。

 ふき取りたかったが、厨房の扉が開く気配がしたので、落ちた血に気づかれませんようにと願いながら、体を縮こまらせた。

 足音の人物は慣れた様子で戸棚を開けると、ジャムの入った瓶を作業台に置いていく。(見えないが扉を開く音と、瓶を置く振動はする)きゅぽんと真空された蓋があいた音がした。

「さあ、私の賢い友達。魔法をかけてちょうだい」

 この場所には不釣り合いなほど楽しげな女の子の声がして、ぼくは思わず包丁を取り落としそうになってしまった。

 友達と言われた蜘蛛はきゅいきゅいとないた。

 何をしているのかは分からないが、おそらくジャムの味を変える薬か、もしかしたら蜘蛛の糸とか、とにかくジャムを台無しにする最悪な物をいれているのだろう。

 トニオは湧いてきた怒りが恐怖を上回り、包丁を握る手に力が入った。

 女の子なら、自分でも勝てるかもしれない。

 作業台から出てやろうと腰を上げた瞬間、ふわりと嗅ぎなれた香りがして、体が固まった。

 毎日何かしら理由をつけて会いに行く、大好きな女の子まとう清潔な洗剤とアイロンの香り。

 ここで、するはずのない香り。

 用が済んだ彼女は手早くジャム瓶を棚に戻していく。

 彼女はトニオが作業台の下にいるなど思いもしていない。一滴の血にも気がつかず、靴の底でそれを踏み、点々と後を残しながら軽快な足取りで店の外に出ていった。

 呆然とした気持ちで作業台を出たトニオは、カサカサという音に吐き出した息を飲み込まれた。

 賢い蜘蛛は、友達が外に出た後に鍵をかけ、自分は再び厨房の換気口から脱出する手はずらしい。

「か、賢すぎるよ。き、君は」

 蜘蛛の数多の目が自分をみつめたが、彼はきゅいと一声鳴くとぴょいと換気口から外に出た。 

 いろいろと考えることはあるが、とりあえず床についた血の跡を消さなければと、片付けたモップを再び手に取った。


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