アンジーの不安
頭をぶつけ過ぎた鳩が、勢い余って4度『くるっぽー』と鳴いた5時55分に、トニオは言葉通りにアンジーの店を訪れた。
「こ、こんばんは……アンジー……」
「こんばんは、トニオ。一日ぶりね。怪我は……大丈夫そうで安心したわ」
目の周りには殴られた痣が残っているが、それ以外は相変わらずの姿だった。痩せすぎて頬骨が浮いた頬に、隈で真っ黒な瞳、乾燥してパサついた短髪。
どれも、アンジーが好きなところだ。
しかし、どこか違和感があった。その違和感を探すように、アンジーはトニオをまじまじと観察する。
「そ、そんなに見られると……恥ずかしいよ……」
トニオは節くれ立った長い指でエプロンの裾をきゅっと握った。
アンジーはようやく違和感に気が付いた。いつもなら裾までジャムで汚れ、握ろうものなら乾ききっていない果実と砂糖で手がべとべとになるはずだった。
しかし、今日のトニオのエプロンは、袖口、中央以外は比較手的白さを保っているのだ。
「トニオ……今日はあまり……汚れていないのね」
アンジーの言葉にトニオはくぼんだ瞳をぐっと前に押し出した。
「そ、そうなんだよ! き、気づいてくれたんだねっ」
常ならば消え入りそうな言葉尻も少し大きい。
「も、もう、親方に殴られたくないし……は、早く一人前にな、なりたいし……。き、君に格好の悪いところを見せたくないし……」
トニオの声がだんだん小さくなっていくので、最後の方は聞こえなかったが、とにかく彼は頑張ったということはよくわかった。
わかったが、そんなことよりもアンジーは頭を鈍器で殴られたようなショックを受けていた。
彼女の恐れたいたことが現実になりつつあるからだ。
トニオのジャム作りの腕が上がるということは、エプロンの汚れが減るということだ。
エプロンの汚れが減るということは、彼がアンジーのクリーニング屋に来ることがなくなるということだ。
どうしよう、このままだとトニオに会えなくなっちゃう。
アンジーの目の前の景色がぐわんぐわんと歪んでいった。
猫ちゃんのひっかいた椅子の傷も、三つ子のお母さんから頂いた鉢植えの花も、3か月かけて縫い上げた藍色のカーテンも、何より大好きなトニオの顔がはっきりとわからない。
「き、今日はね……初めてリンゴの煮詰め具合をほ、誉められたんだよ……。も、もっとうまくできたら、き、君に食べてほしい……」
「そうね。楽しみにしているわ」
アンジーの言葉を受けて、トニオの不健康な肌に血色が戻っていく。
トニオは汚れがわずかに減ったエプロンをカウンターに置くと、ぎこちない笑顔を残していつもの様に俯きながら店を後にした。
かつてない程己の成長に興奮していたトニオは、アンジーの瞳が潤んでいることも、彼女の笑顔が悲しみに歪んでいたことも気が付かなかった。
残されたアンジーは、そっと置かれたエプロンの汚れを手でなぞった。
乾燥しきれていない砂糖の粘着きが指に引っかかった。
「……まだ、大丈夫よ」
アンジーの呟きは、白生地に広がるジャムの染みに消えた。
頭をぶつけ過ぎた鳩が、勢い余って4度『くるっぽー』と鳴いた5時55分に、トニオは言葉通りにアンジーの店を訪れた。
「こ、こんばんは……アンジー……」
「こんばんは、トニオ。一日ぶりね。怪我は……大丈夫そうで安心したわ」
目の周りには殴られた痣が残っているが、それ以外は相変わらずの姿だった。痩せすぎて頬骨が浮いた頬に、隈で真っ黒な瞳、乾燥してパサついた短髪。
どれも、アンジーが好きなところだ。
しかし、どこか違和感があった。その違和感を探すように、アンジーはトニオをまじまじと観察する。
「そ、そんなに見られると……恥ずかしいよ……」
トニオは節くれ立った長い指でエプロンの裾をきゅっと握った。
アンジーはようやく違和感に気が付いた。いつもなら裾までジャムで汚れ、握ろうものなら乾ききっていない果実と砂糖で手がべとべとになるはずだった。
しかし、今日のトニオのエプロンは、袖口、中央以外は比較手的白さを保っているのだ。
「トニオ……今日はあまり……汚れていないのね」
アンジーの言葉にトニオはくぼんだ瞳をぐっと前に押し出した。
「そ、そうなんだよ! き、気づいてくれたんだねっ」
常ならば消え入りそうな言葉尻も少し大きい。
「も、もう、親方に殴られたくないし……は、早く一人前にな、なりたいし……。き、君に格好の悪いところを見せたくないし……」
トニオの声がだんだん小さくなっていくので、最後の方は聞こえなかったが、とにかく彼は頑張ったということはよくわかった。
わかったが、そんなことよりもアンジーは頭を鈍器で殴られたようなショックを受けていた。
彼女の恐れたいたことが現実になりつつあるからだ。
トニオのジャム作りの腕が上がるということは、エプロンの汚れが減るということだ。
エプロンの汚れが減るということは、彼がアンジーのクリーニング屋に来ることがなくなるということだ。
どうしよう、このままだとトニオに会えなくなっちゃう。
アンジーの目の前の景色がぐわんぐわんと歪んでいった。
猫ちゃんのひっかいた椅子の傷も、三つ子のお母さんから頂いた鉢植えの花も、3か月かけて縫い上げた藍色のカーテンも、何より大好きなトニオの顔がはっきりとわからない。
「き、今日はね……初めてリンゴの煮詰め具合をほ、誉められたんだよ……。も、もっとうまくできたら、き、君に食べてほしい……」
「そうね。楽しみにしているわ」
アンジーの言葉を受けて、トニオの不健康な肌に血色が戻っていく。
トニオは汚れがわずかに減ったエプロンをカウンターに置くと、ぎこちない笑顔を残していつもの様に俯きながら店を後にした。
かつてない程己の成長に興奮していたトニオは、アンジーの瞳が潤んでいることも、彼女の笑顔が悲しみに歪んでいたことも気が付かなかった。
残されたアンジーは、そっと置かれたエプロンの汚れを手でなぞった。
乾燥しきれていない砂糖の粘着きが指に引っかかった。
「……まだ、大丈夫よ」
アンジーの呟きは、白生地に広がるジャムの染みに消えた。