ピナフォアの下の秘密
「おや、アンジー。今日はいつもにましてご機嫌だね」
「こんばんは。アンクルタートル」
つぎはぎだらけのハンティング帽をかぶったお爺さんが、直角になりつつある背から亀のように顔をのばした。
「御機嫌にみえる? いつもどおりだと思うけど」
アンジーは素知らぬ顔でクリーニング済みの洋服をずた袋に入れて、アンクルタートルの背中にかけた。腰は曲がっていても健脚なお爺さんと入れ替わりで、新たなお客様が来店された。V字に開いた胸元から盛り上がった胸筋が主張している。大胆に入ったタイトスカートのスリットからは見事な足が惜しげもなく覗いている。
「あらぁ、アンジー。お肌の調子がいいじゃなぁい。何よ、男でもできたのっ?……ってもういたわね。ジャム屋のシャイボーイが」
「誰の事を言っているのかさっぱりだわ。そんなことよりほら、マイナバード。さっさと汚れ物渡して頂戴」
「んまぁ。つれないったら! つれないったらっ!」
長身を高いヒールでさらに高くした彼女から、アンジーは装飾の多いドレスを受け取った。
ダンサーの彼女が預ける服はいつも煌びやかだが布の表面積が少ない。あまりに少ないので、一度「これは端切れ?」と質問してしまい、九官鳥のように怒られたことがあった。
マイナバードは凶器寸前まで延ばされた象牙の様な爪でクジャクの羽のように広がったまつ毛を撫でた。
「まあ、そんな甘ったるい匂いさせてるんじゃまだまだお子様よねぇ」
「あら、あなたの香水の匂いにはまけるわよっ」
「あら怒った。こわいこわい」
「マイナバード!」
「あらぁ! もうこんな時間! あたしを待ってる男たちがいるから行かなきゃ」
マイナバードは鳩時計をみて大げさに手を広げたが、小さな違和感にこてんと首を傾げた。
「アンジー、この時計あってる?」
「時刻はあってるわよ。でも、夜の6時に一度だけ狂ったみたいに鳴くの。それも5分だけ早くね」
「……ふーん」
「なによ」
「別に。お邪魔さま」
手をひらひらと踊らせて、店を後にする彼女は嗅ぎなれない香りに尖った鼻を器用にゆがませた。
「……ん? なんか錆くさい……豆がつぶれたかしら」
掌の匂いを嗅ぎながら落とされたその言葉に、アンジーは思わず胸元を握りしめた。
扉が完全に閉まったところで、思わず止めた息を吐いた。
「相変わらず、鋭い女ね」
それからも、訪れる客すべてに「調子がいいね」「機嫌がいいのね」「いいことあった?」などと言葉をかけられるたびに、アンジーはそっけなく返しながらも、心臓は激しく脈を打っていた。
客足が途切れた頃、アンジーは店外に人の気配がないことを確認して、ピナフォアのリボンをほどいた。するりと落ちたピナフォア下にはトニオの血とジャムで汚れたエプロンが彼女の体を包んでいた。
一日たち、固まったジャムと血液の塊は、白いカンバスに描かれた油絵の様で、アンジーはうっとりとトニオの作品を撫で上げた。そして撫でればなでるだけ、彼女はトニオのエプロンが愛しくなり、そして手放すのが惜しいと感じるようになってしまった。
「明日になったら、返さなければいけないんだわ」
手放さなければいけないと考えただけで、アンジーの心がひきつりを起こした。
どうせ今日が終わったら洗濯をしなければいけないのなら、少しでも長く身に着けていたい。
トニオはどんな思いでこのエプロンをつけていたのだろう。
アンジーはエプロンの裾に頬を寄せた。白いエプロンをこんなに素敵に汚すトニオはどんな気持ちでいただろう。美味しいジャムを作りたいという純粋な向上心だろうか。いつまでたってもできない自分への憤りだろうか。扱きが厳しい親方への不満だろうか。殴られた悲しみ、もしくは怒りだろうか。この汚れの中に、少しは自分への気持ちはないだろうか。
ああ、このエプロンを汚したのが、いっそ私であればよかったのに。
「こんにちはー。クリーニングいいかしらー?」
考えに夢中で人の気配にまったく気が付かなかった。
「い、いらっしゃいませ」
アンジーは慌ててエプロンドレスを身に着けて、カウンターに立った。