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トニオの香り

翌日。

 アンジーは今日も彼がエプロンを汚してくることを楽しみにして、一日の仕事に励んだ。

 お客様の持ってくる汚れ物の種類は大抵変わらないが、その過程はさまざまである。

「こんにちは、アンジー。聞いて頂戴な。今朝ね、うちのネコちゃんがご飯を食べようとしたら、勢い余って器に顔を突っ込んで、その拍子にカーペットがつっぱってテーブルが揺れて、朝食がひっくり返って、渾身の出来のスクランブルエッグが皿から滑り落ちてしまったの」

 ふくよかな奥様は「だめな猫ちゃんっだめな猫ちゃんっ」と言いながら豊満な胸に元凶を押しつけている。

 元凶は悪びれもせず、にゃーと鳴いた。

 アンジーは黒渕猫の頭を撫でて、頷いた。

「では、こちらのランチョンマットとテーブルクロスをお預かりします」

「おねがいねぇ」

 お昼過ぎには三つ子の姉妹とお母さんが連れだってやってきた。

 お母さんに促されて、三つ子ちゃんはおさげを揺らして、三人でよいしょと汚れ物をカウンターに置いた。

 フリルが沢山あしらわれた黄色と緑のギンガムチェックのワンピースは全体的に埃にまみれ、蜘蛛の巣のコーティグまでされている。

「おかあさんのだいじなお洋服をよごしちゃったの」

「こっそり着て、かくれんぼしていたらほこりまみれになっちゃったの」

「楽しかったの。でもみつかっておこられちゃった」

 後ろの母親の反応をちらちらと気にしながら、三つ子はそろってアンジーにお願いをした。

「きれいにしたくださいな」

「任せて頂戴。お母さんのお洋服は新品のように綺麗になるから」

 アンジーは後ろで仁王立つ母親に頷いて見せた。

 フリルたっぷりのワンピースを身に着けた母親は静かに頷くと、逞しく鍛えられた腕で三つ子をいとも簡単に抱き上げた。

「帰るぞ」

 大きくないが、太くかすれた声は、狭いクリーニング屋によく響いた。

 抱えられた三つ子は実に楽しそうに笑い声をあげながら、店を出て行った。

 アンジーが預かり物を畳もうと広げると、スカートの裾から、大きな蜘蛛が一匹はい出してきた。

「あら、はやくしないと、置いてかれちゃうわよ」

 アンジーの言葉に、蜘蛛は沢山の目をそわそわとさまよわせると、慌ててカウンターをとびおりて、扉の下のわずかな隙間から這い出していった。

 その後も盛況とは言えないまでも、ぽつぽつと訪れるお客様の対応をしていると、気が付けば窓から入る光は茜色を帯び、直ぐに夜の色へと変わっていった。

 もう何回目か分からないが、鳩が扉に頭をぶつけた。アンジーは、今日初めて髪を整えなおした。

 彼女は作業をしながらも、そわそわと扉を気にしていると、18時丁度にそれは開いた。

 遠慮がちに入ってくる彼に、アンジーは喜びに胸を高鳴らせたが、動悸は別の意味で激しく変わった。

「こんばんは。トニオっまあぁ! 大変ッ」

 現れたトニオの痩せ過ぎて浮き出た頬骨は青黒く腫れあがり、唇の端は切れ血が滲んでいる。

「こ、こんにひは……アンヒー」

 口の中も切れているのだろう、上手く話せていない。

 アンジーはトニオに駆け寄り、濡れたタオルを彼の頬に当てた。トニオは染みるのか顔をしかめびくりと肩を揺らした。

「ああ、トニオ! 痛いでしょうに。可哀想に。何があったかなんて聞かなくてもわかるわ。あの野蛮な親方にやられたのね。あの人は乱暴者で有名だもの。うちの店に来てもすぐに物を壊しちゃうのよ」

 それで壊されたのがあれよ、とアンジーは店の脇に置かれた一本だけ足の違う丸椅子を指さした。

「ほ、ほれは、うひの親方が……わ、悪ひことほ……」

「貴方が謝る事なんてこれっぽっちもないわよ」

 憤るアンジーに、トニオはわずかに苦笑を返した。そして、身に着けていたエプロンを外して彼女の手にそっと乗せた。

「ひ、ひょうも、お、お願いひていいかい?」

「それはもちろん。だけど、あなたは大丈夫? お医者様に診てもらった方がよくない?」

「み、見習ひは、やひゅんで居られないんだ……」

 預けたエプロンをくれるかい? というトニオの願いに否と言えるわけがない。

(もし私が彼の恋人だったら、彼を引き留めることができるのかしら)

 アンジーは完璧に洗濯されたエプロンをトニオに渡しながら、吐き出したいため息を飲み込んでいつもの様に彼を見送った。

 扉が閉まる瞬間に、トニオが思い出したと、振り返った。

「ほ、ほうだっは。ほ、ほく、あふは来れないんだ。だから、また、あはって」

 さよなら、アンジー(正確には『さ、さよなら……あんひー』だったけれど)それだけ言って、トニオは扉を閉めた。

「トニオ……明日は来ないのね」

 アンジーは汚れたエプロンに頬を寄せた。

 いつもの砂糖と果物の匂いと違う、錆臭い鉄の匂いが鼻を突いた。

「いい香り。これはトニオの香りだわ」

 アンジーは恍惚の表情で、彼の香りを深く吸い込んだ。


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