逃げられたら、追うだけです。
「ちょっと待ってください。どこにこれだけの案件溜め込んでたんですか?」
ユリウスは嘆息した。
「これは過去のものでもないし、この前の水害で橋が崩れただろう?それを予防するために川の上流に水量を調節する施設が必要なんじゃないかと専門家と話し合い始めたところだよ。」
なるほど橋の修繕だけでなく、水害予防対策としての治水事業である。この前ユリウスが思いつきでぶつぶつ呟いていた独り言を形にしようと目論んだらしい。
まだ橋の修繕も終わっていないのに。
「段階を踏むべきですね。まずは橋の修繕でこれまでと違う組み方を検討するべきですし。」
ユリウスがそう言うと、これまでと違う橋の組み方かぁ…と目を閉じ悩み始めるのは国の政務を6割行なっている時期国王、アラム・ドレスデン・ユピロカフス殿下。
ユピロカフス王国第一王子にして、王太子である。
建設関連に関しては殿下が直接関わるべき案件でもないのに、今回関わるようになっているのは国の公共事業を扱う工部省からの提案があまりにもこれまでと同じ、旧態依然としたものだったがゆえである。工部省からの提案は突っぱねて、殿下自らが専門家を集めて指揮を取っている。
ユリウス・ビリセントは、宰相補佐官である。王宮には宰相の下に宰相補佐官が20名おり、各機関の取りまとめや、ありとあらゆる案件のために動いている。
宰相補佐官といえば聞こえはいいが、割りとなんでもするなんでも屋。殿下と共に学生生活を過ごし、殿下を支える身となってからは、次期宰相を目指して、現在は宰相補佐官の任についている。
「とにかくいい加減に休まないと、体壊しますよ。」
そんなことを言う現在の時刻は日付が変わる5分前である。
「橋の修繕については新しい組み方を考えましたので、また目を通してください。」
「ありがと、ユリウス…。それで、お前明日から二日休み?」
「そうですよ、二週間前からお伝えしていた通りです。」
多忙を極める王宮勤めで、久しぶりの休みである。それでいて休むわけではない家の仕事にあたるだけである。そして気の乗らない社交パーティーに出なければならない。
明らかに気乗りしない様子のユリウスをニヤリと見ながら
「まあ、なんでもほどほどに楽しめばいいんじゃない?」
殿下は相変わらず勝手だなとひと睨みしてから、目の前の机を整える。
もう少し別の仕事してから帰るから、もう帰っていーよ。と殿下はありえないほど気さくに振る舞われる。
友人という立場でもあるため、それには慣れているのだが。
先に出るのは、となりつつも、現在為すべき仕事は片付いているし、残る必要はない。
「殿下。それではお先に失礼します。」
一言告げて、政務室を後にした。
一日中文字と向き合っていたら肩が凝るし、目が霞む。疲労感に溢れながら、ユリウスは歩き出した。
家に帰り、湯浴みして寝るに限る。
宰相補佐官の仕事には満足していた。国の中枢に関わるのは楽しいものであるし、家でも領地管理の仕事をしながら、補佐官の仕事のために一日中机に向かっている。
完全な仕事中毒である。
ユリウスはビンセント公爵家の若き当主であり、歳は24歳。
父親はユリウスが学生の時に事故死、元々父との関係が冷え切っていた母親はこれ幸いとばかりに領地に戻りのんびりと暮らしている。
その母が最近煩くなったのが、ユリウスの結婚である。
父親の事故が余りにも凄惨であったために、同じようなことが息子にも起こると思ったらしい母親は、家の断絶はあってはならないと遠方から口酸っぱく婚姻をするように、とばかり言ってくる。
父との関係は冷えていても、貴族夫人としての意識はある。両親はよくいる貴族の夫婦であった。そのくせ家の采配などは面倒くさがるため、早々に領地に戻り、優秀な執事にその管理を一任して一人過ごすという無責任さも併せ持っている。
婚姻についてのらりくらりと逃げてきたユリウスは気が乗らない。金髪に肌の色が白く、目が切れ長で目の下には黒子がある。目の色は淡い海のような青色。手足も長く、長身であるし、美形。
殿下と近しく、若き公爵家の当主。現在宰相補佐官であり、次期宰相と目されて、令嬢から大変人気がある。
ユリウスは、こちらの都合など考えもせずにアプローチをかけてくる令嬢など鬱陶しいことこの上なかった。女性が苦手だとさえ思うのである。
面倒ごとは避けたいため、当たり障りなく笑顔で穏やかに接しているが面倒くさいの一言である。
王宮から馬車で公爵邸に着く。湯あみしながら、明日のことを考えるとまたため息が出るのを抑えられなかった。
もうじき王宮に勤めていない貴族が領地に帰る季節であるし、そろそろ社交の季節は終わりだ。
これを逃すとまた来年まで、母親の嫌味が続くのは御免である。
それほど時間をかけずに身を清めた後、ベッドに入る。
驚くほど早い眠りがユリウスを襲った。
国が恋愛結婚を推奨しているため、家同士のつながりを深める政略結婚はほとんどない。
故に令嬢たちは必死に結婚相手を探している。王宮勤めで身を立てるものはいるが、まだまだ女性の社会進出は進みづらいものがある。色めき立つ令嬢の雰囲気にユリウスはそっと嘆息する。
ただ冷静に判断するとこちらへの好意がある方が良い。女性の心を射止めるために逢瀬を重ねる時間も手間もかけたくない。合理的だか冷淡だと自分でも思う。
ただ姦しく話す女性は苦手であるし、自分に自信がありすぎる女性に構う時間がなくてあとから詰られるのも避けたい。
話しかけてくる目の前の令嬢を避けながら、ふとふと甘やかな視線を感じた。
その方向を見れば、濃いブラウンの髪に茶色のアーモンドの瞳の令嬢と視線が交わり、赤面している。
目があったことが恥ずかしいのか、ばっちり合っていた視線をわざとらしく逸らし、ふと隣にいた令嬢に話しかける。
彼女をエスコートしているのは、セレンス伯爵である。
セレンス伯爵家令嬢といえば、…ティオナ嬢だったか。セレンス伯爵は王宮書記官として勤めており、真面目さ、その領地経営の堅実さが名高い。
明らかな好意、年頃の令嬢、堅実さが名高い伯爵とはしがらみも生まれないに違いない。
視線を感じるは感じるのだが、積極的にこちらにアプローチしてくるわけでもなく、控えめである。
理想的だ、とユリウスはピンときた。言い換えれば都合が良い。条件が良い。合理的で最低だとは分かっているが、そもそも恋だの愛だのはよくわからない。気づけば身体が動いていた。
「セレンス伯爵、お久しぶりです。以前の王国報告会以来でしょうか?」
「ビリセント公爵。ええ、あの時以来でしょうかね。」
幾つか言葉を交わした後に、ティオナ嬢を見つめれば。
「…娘とは初めてですかな?娘のティオナです。」
「ティオナ・セレンスです。」
淑女の礼もきちんとしている。
「ユリウス・ビリセントです。セレンス伯爵令嬢。」
一言二言の挨拶で、顔を赤らめ目を逸らすのは素直すぎる。
ダンスを申し込み、フロアに出る。
「それほど緊張しますか?」
恥ずかしそうに赤面しているのに先程握った手は冷たかった。
「ええ、その…。」
と何か言いかけてから口をつぐむ。
「次の曲はもう少しこう…。」
ティオナ嬢の細腰をより抱き寄せる。ますます慌てた様子を見せて彼女は、俯いた。
打算で近づいたのが始まり。しかし、ユリウスは明らかにこれまでと違う反応を見せる彼女に興味がわき、ふと食べたいなと思った。
ずいぶん直情的である。
一曲踊り、少し涼みたいと化粧を直したり、休憩したりするための個室に向かう彼女を大人しく解放する。
他の令嬢とまた言葉を交わし、それではそろそろと会場を出て。出口に向かうフリをして、すぐさま踵を返す。
気が急いているのが自分でも分かる。彼女がいるはずの部屋の前でノックをする。
「…はい?」
部屋付きのメイドが来たと思ったのだろう、何の疑いもなく扉を開けた彼女が心底心配になる。
驚き固まるティオナをそのまま、自身の体を滑り込ませ、後ろ手に内鍵を締める。
「あの!ビリセント公爵?」
「メイドに用事を言いつけたのは分かりますが、ドアを開ける前にノックしたのが誰か確かめた方が良いですよ、ティオナ嬢。」
よくもまあここまで無事だったな、と感心する。
「世の中信用のおける男ばかりではありませんからね。」
何より一番信用できない男が目の前にいるのである。
「私、メイドに用事を言いつけましたの。もうじき…」
「まあしばらくは来ないでしょうが。」
部屋付きのメイドに声をかけ、目的を話して。あと三十分間は誰もこの部屋には来ない。
じりじりと距離を詰めるユリウスに身の危険を感じたようで。くるりと踵を返し、どこかに隠れようとしたのだろうか。
逃げられると追いたくなる。その欲のままに、ティオナのあとを追う。
ティオナの逃げた先には休憩のための、小さめのベッドがある。自分がまた袋小路にはまったことを悟った彼女は、びくりとその身を強張らせた。
その一瞬。ふと腕の中に抱き込む。後ろから抱き竦められ、更に彼女の身体が震える。
捕まえた。
イヤリングで彩られた耳朶をかぷりと噛む。
「ひゃ」
令嬢らしからぬ驚きの声に気を良くしながら、イヤリングをそっと外し、自分のポケットに忍びこませる。
邪魔なものは何もない。
「嫌ですか?」
耳を弄びながら、ユリウスはそっと囁く。
「でも…あの…」
「逃げないでください。」
「でも、こんな…!」
彼女が解こうとする手を掴み、こちらを向かせる。そのまま手に吸いつく。
視線はそのままティオナの目を見て、手のひらに口付けた。
わざと音を立てながら、吸いつき。彼女の視線に晒されながら、彼女を味わう。
今日ここで奪う気は元よりない。ただ彼女の中に自分を刻み付けたいだけで。彼女の思考を独占するために何をすべきか。
熱くなりながらも、冷静に。
手のひらだけでなく、あちこちにキスしながら。
女性のドレスは肩を露出させているのに、ドレスが足首まであるのは、足を見せないことが慎ましいとされているからで。
足に既に力が入らないティオナの身体をそっとベッドに座らせた。ドレスの裾をめくり上げて、彼女の膝をするりと撫でる。
「やだ!」
涙目になりながらドレスの裾を直そうとしている彼女が履いていた靴を脱がせて。絹の靴下も割りとすぐにするりと奪えた。足の甲に口付けたユリウスを信じられないようなものを見る顔をして、視線が絡まり合う。
足の指先から足首、ふくらはぎにキスをして。内腿に辿り着く。
ここに所有印を残せば彼女はユリウスを思い出し、その記憶に囚われて、恥ずかしがるのだろう。
日焼けなどするはずもない白い肌に吸いつけば、すぐ赤くなる。
「時間切れですね。」
はくはくと呼吸するのも精一杯のようなティオナを見ながら、そっとドレスの裾を直す。
メイドが控えめにドアを叩いた音がする。そろそろ彼女が戻らないと怪しまれる。
「明日、セレンス伯爵には私からお伝えします。ではまた。」
にこりと笑みを浮かべながら、ユリウスはティオナに靴を履かせる。ティオナは髪も乱れておらず、ドレスも表向きはそのままだ。顔は赤らめているが、息もさほど上がっていないし、すぐに戻れる姿である。
「すぐ戻らないと、セレンス伯爵が心配するでしょうね。」
ちゅっと軽く音を立ててキスをして、ユリウスはその部屋から出た。
今までかつてないほどに足取りは軽く、不敵な笑みを浮かべていた。
ティオナちゃん全力で逃げて物語。
ユリウスくん、女性のこと疎ましく思ってたはずだったのだけど、ただの追いたいタイプ。
美形の出世人間だから、自信家な令嬢から追われるばかりで、それに気づかず。
色々考えて都合がいいとか冷静に判断してるつもりだけど、自分に好意がある子が目線を逸らしたのが本能的に追いたいを刺激された、という。
決定的にユリウスくんの言葉が足りないので、ティオナちゃんは訳が分からないまま流されていく。まあハッピーエンドです。両思いですので。