真実をみる瞳
「終わった……!」
提出期限の迫ったレポートがなんとか片付き、大きな溜息を吐いた。これで多分……大丈夫。分からないところは成瀬さんに聞いたし、書き方のアドバイスも貰った。反省すべきは、もっと余裕を持って始めれば良かったところ。
――まだ平気なんて根拠のない自信に満ちていた自分を叱りたい。
「陽菜さん、いま大丈夫?」
机に山積みしていた教科書や参考書、資料に使った本を棚に戻していると、ノック音と共に成瀬さんの声が聞こえた。
「はいっ! 大丈夫です!」
飛びつくようにドアを開ける。
「わ、驚いた」
成瀬さんは全然そんな感じには思えない口調とトーンで言い、腕時計に視線を落とした。
「良かったら、お茶でもどうかと思って。でも、時間が時間だから……断ってくれて構わないよ」
――午後十時。確かに、一緒にお茶を飲もうというには少し時間が遅いかもしれない。だけどレポートから開放された今、お断りする理由は無くて。むしろ嬉しいくらいだった。
「私もお茶飲もうと思ってたところだったから、ナイスタイミングです」
「そう……。自分で言っておいてなんだけど、陽菜さんに断られたら落ち込んで明日に響いていたかもしれないから、ホッとした」
「はは……」
どこからどこまで本気なのかが分からないんだよな……成瀬さんは。長い前髪に隠れた瞳はいま、どんな色と温度でいるんだろう。
「レポートは終わった?」
「はい。おかげさまでなんとか」
おやすみ前のお茶はラベンダー。ふわりと湯気に混じる優しい香りを吸い込んでホッと一息ついた。フレッシュラベンダーを使ってるんだよ、と成瀬さんが教えてくれる。雅さんが持ってきたそうだ。
「雅さん差し入れのオレンジゼリー食べながら頑張りました」
「まだ終わらないで困ってるようだったら自分も手伝うって……マサシが言うから」
隣に座った成瀬さんが溜息を吐く。相変わらず距離が近いなぁ、なんて思いつつ整った横顔を見れば、綺麗な所作でお茶を飲んだ成瀬さんはまた溜息を吐いて。
「陽菜さんなら大丈夫だって言ったのに、結構粘ってたな……」
「雅さんが?」
「――うん。その様子なら安心だ」
口元を僅かに緩めて、成瀬さんは頷いた。安心って何がだろう――さっぱり分からない。私のレポートが無事に終わった事?
「なんか気になる言い方ですね」
「僕の独り言だから気にする必要はないよ」
「しますよ。成瀬さんって時々意味深なんですもん」
「ごめんね、そんなつもりはないんだけど。マサシにもよく言われる」
クスリと成瀬さんが笑った。
二人きりじゃ広すぎるリビング。初めはどこもかしこも無駄に空間がある屋敷に落ち着かなかったけれど、ようやく慣れた。それは成瀬さんがいるからだと思ってる。不思議と、広い屋敷のどこに居ても、彼の気配を感じられるから。お祖父ちゃんの遺したものを守り続けている成瀬さんの存在はとても大きい。
ここは陽菜さんの家だよと成瀬さんは笑うけど、そうじゃなくて、この屋敷はみんなの《家》なんだ。お祖父ちゃんの、私の、成瀬さんの、雅さんとマサシさんの。ただ暮らすだけの場じゃなくて、もっともっと広い意味を持つ――心の居場所。
――そして図書館も。あそこは様々なものが集まる、想いの拠り所だ。
「そうだ、朗報。神宮氏が教室を再開すると決めたって」
「本当ですか! 豊香さん、喜んでくれますね!」
「ああ。これで奥さんも、教室の看板を探して歩き回らなくて済むと思う」
「良かった。じゃあ奥さんも安心して」
――ん?
お茶を飲もうとしたまま固まった。いま奥さんって言った? 言ったよね?
それはつまり……。
「え。神宮さんが言ってた庭のあれって、正体奥さんだったんですか?」
「うん」
「だって雨の音が聞こえるって」
「豊香さんが亡くなったばかりだから、イメージを引き摺ってしまったのかな。マイナスのイメージは強く残るものだしね」
成瀬さんは俯いたまま立ち上がると、棚から一枚のレコードを取り出した。グランドピアノが写っているジャケットはモノクロ。
「ドビュッシー、雨の庭。庭に降る雨がどんどん激しくなり嵐へ、そして嵐が過ぎ雲間から光が差し込むまで。その様子が浮かぶ様な曲だよ」
「ピアノ曲ですか? 神宮さんの奥さんも弾いた事あるのかな」
「そうだね。今度聞いてみようか……」
もの言いたげに細く長い指がレコードジャケットをなぞる。何かを描く様に、ゆっくりと。
私と目が合うと成瀬さんは穏やかに微笑んだ。
隠れがちの瞳が真っ直ぐ自分に向けられている。それだけで、胸の奥が熱くなり心臓は早鐘を打ち始める。
この気持ちを恋と呼ぶのか、私には分からなかった。単純に考えている事を見透かされていないかとドキドキしているだけかもしれない――そんな風に思ったりもするのだ。
だって成瀬さんは『ヴァッサーゴの隻眼』だから……。
「陽菜さん。陽菜さんが雨の日を嫌う理由……僕には分かるんだ」
「えっ!? やっぱり!?」
突然の告白に私は思わず大きな声を出してしまった。成瀬さんは苦笑する。
この間の「雨の日は苦手だったよね」発言の違和感は、気のせいじゃなかったんだ。
「それも……ヴァッサーゴの力で? でも私、なにも探してないけど」
「雨の日は良くない、良くないことが起きる。陽菜さんはマイナスイメージをずっと引き摺ってるんだよ。神宮氏みたいに」
「どうして……」
少し声が掠れた。
友達が怪我をしたり、最悪なトラブルが発生したり、いつもいつも予測不明な事が嫌な形で現れるのは雨の日だった。それも自分が絡んでいる時に限って。だからこれは私のせいなのだと――そう考えると怖くて、雨が嫌いになった。雨が降れば「早く止んでくれ」と願い、晴れるのを待った。
「君が施設の玄関前に置き去りにされた時。その日は、強い雨の日だった」
成瀬さんは右目を押さえ、低い声で言った。
雨の日――私も呟く。
「肌寒い深夜……だからクーファンで眠る君が凍えないように毛布をかけた――捨てるつもりじゃなかったんだ。迎えに来るからと、手紙を残している。君は消えてしまった母親の香りを探して精一杯の声で泣いた。雨の音にかき消されそうになりながら……でも諦めずに。だからすぐに施設の人が気付いてくれたんだね」
「迎えに? でも手紙の話なんて聞いたことない」
「風に飛ばされてしまったのかも。誰もその存在を知らないみたいだ」
「雨の日……私のせいでみんなが傷付いてたんじゃ、なかった?」
「うん」
「本当に?」
「ああ。偶然を必然と思い込んでいただけだよ。陽菜さんに闇の力は無い。そんなこと有り得ない」
「わたし……私は、」
声が震えて、涙が落ちた。
情報過多で混乱しそうになったけれど、たったひとつの真実がハッキリと私の心に突き刺さる。
「私、捨てられた訳じゃなかったんだ」
ずっとずっと頭から離れなかったもの。辛かった気持ち。
自暴自棄になってそれなら自分も手放せばいいと何度も考えた。親なんか、親なんて――と。
親元へ帰っていく子や里親に引き取られていく子を見ながら、羨望と嫉妬を感じながら。
いつもニコニコ笑ってる裏でこんな酷いことを考える自分だから、凶事を呼ぶんだ。そしてみんなを傷付ける。
辛い。辛い。苦しい。
欲しい。
――帰る場所が、欲しい。
「捨てられたんじゃなかった……!」
涙と一緒に吐き出したら、成瀬さんは「そうだよ」と優しい声で言い、微笑んだ。
「誰も陽菜さんをいらないなんて言ってないよ。ご両親も、文雄さんも、君を必死に求めていた。雅もマサシも陽菜さんと一緒にいるのが楽しいって。僕も――陽菜さんをずっと探してた。今ここに一緒にいられるのが夢みたいだ」
失くしてしまったものがどこにあるか教えてくれる。それが成瀬さんの瞳の力だ。
――雨の日、ひとりぼっちになった私がずっと探したもの。それを忘れた私に成瀬さんが教えてくれたのは、前に進むために必要な、大事なことだった。
「君はたったひとりの、掛け替えのない存在。忘れないで。みんな陽菜さんを愛してる」
長い時間、私は子供みたいに泣きじゃくって。
成瀬さんは泣き止むまで手を繋いでいてくれた。
◇◇◇
豊香さんが所属していた楽団の定期演奏会のチケットを神宮さんから譲り受け、期せずしてコンサートに一緒に行く約束が果たされることになった。
朝から着ていく服に迷いバタバタする私と、静かに食後のコーヒーを飲む成瀬さん。
雅さんは朝食の時からずっとご機嫌斜めだ。
「ワタシも行きたかったのに!」
「お前は行っても寝るだけなんだから意味ないだろ」
「二人がデートする意味だってないじゃない」
「意味ならあるよ。ほら、早く行かないと。今日は法事の手伝いなんだろ」
「なによ余裕ぶっちゃって! 知ってるんだからね、ワタシ。文化会館近くのカフェ何件もチェックしてプリントアウトしてた――」
「うるさいな。さっさと行け」
足蹴にされた雅さんはフラフラよろけた後、私の肩を鷲掴みする。大きながっしりした手で身動きを封じられるわ、目力強く迫られるわで、その迫力にヒッ! と短い悲鳴が出てしまった。
「陽菜ちゃん! 自分の身は自分で守るのよ! この男に惑わされちゃダメだからね!」
「コ、コンサートに行くだけなんですけど」
「雅。僕とお前、どっちが危険人物か自分の胸に聞いてみろ。陽菜さん、早いけどもう出よう。こんなのにいつまでも付き合ってられない」
「こんなのに!? ワタシたち親友よね!?」
「あー……本当に面倒くさいな、全く……」
廊下を行く成瀬さんの後ろを雅さんがあれこれ言いながらついていく。指で耳を塞ぐ仕草の成瀬さんの顔は後ろからじゃ見えないけれど、多分……いやきっと、前髪の奥の瞳を和らげ、唇の端はほんのちょっとだけ上げているのだろう。
気の置けない友人。強い絆がある二人。いいな、羨ましい。
「それじゃあ二人とも気を付けて。神宮さんに宜しくね」
「ああ。そっちも手伝いしっかりな」
「ハイハイ。頑張ります。陽菜ちゃん、楽しんできてね」
「いってきます! 雅さんも、いってらっしゃい」
雅さんはちょっと驚いた表情を見せて。でもすぐにいつもの綺麗な微笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい。それから……いってきます」
✽✽✽
「文化会館まで三十分弱かな。……陽菜さん? さっきからどうしたの、僕の顔に何かついてる?」
運転する成瀬さんの横顔をチラチラ盗み見していたら、バレていたらしくそう言われた。
「いえ! な、なにも……」
慌てて顔を逸らす。けれど、こちらの気持ちは全部お見通しだったのか、クスリと笑われてしまった。
「演奏会、楽しみですね。楽団のホームページ見たら、聞いたことある曲名が何個かあって」
「そうだね。名前を知らなくても聞けば『あっ』と思う曲も何曲かあるはずだよ」
「わ、余計に楽しみになってきた」
車内で二人きりはやっぱり緊張する。距離感は慣れていても、なんだろう男の人の運転する姿って何でこんなにドキドキするの? それとも成瀬さんだから格好よく見えるのか? シフトレバーを握る手が妙に色っぽいの狡くない?
信号で止まる度に成瀬さんの視線を感じて、更に緊張した。
ドキドキを誤魔化す為に必死に話題を探す。いつもより饒舌になっているのを自覚していた。
「そうだ! 成瀬さん、うちでも演奏会しません?」
「うちでもって……図書館で?」
「はい。小さな演奏会。記念すべき第一回目は神宮さんにお願いしましょうよ。なにせうちの図書館は雰囲気抜群ですからね。ヴァイオリンのミニコンサートとか素敵!」
「面白い企画だね。成功したら、不気味な噂も少しは解消されるかな?」
クスクス笑う成瀬さん。真っ直ぐ前を見つめる瞳が柔らかく細まる。
「やっぱり噂……ちょっと気になってました?」
「いいや。僕はただ、あの場所が好きだから。一人でも多く好きになってくれたら嬉しいなって思うだけ」
窓の外を見れば、丘の上に建つ二つの洋館が見えた。
私達が帰る場所と、誰かの寄る辺。
大事なものを教えてくれる、失くしたものを見つけてくれる、《ヴァッサーゴの隻眼》が在るところ。
「私も大好きな場所です。みんなで、守っていきましょうね」
「そうだね――みんなで」
私の言葉に成瀬さんは微笑み、そして、優しく穏やかな声で言った。
「陽菜さんがいてくれたら、きっと大丈夫だ」
END