帰る場所
「雅さんはいつも気が付かないうちに帰っちゃうなぁって思ってたけど……それ“お勤め”があるからだったんですね」
「マサシが勤行をサボっているところは見た事ないな」
立派だと思う、と成瀬さんは言った。はい。私もそう思います。雅さんもマサシさんもすごい。
夕食後は、ダイニングからリビングに移り、デザートタイム。
冷蔵庫には『新作!』のメモと一緒にアップルパイが入っていた。
『バニラアイスを添えること! ミントも』
細かい! 成瀬さんが言っていた通り、気合い十分ですね!
控えめな甘さにシナモンのアクセント、シャリシャリとした食感の林檎のコンポート。パリッとしたパイ生地との相性が絶妙だ。
料理人かパティシエか――。雅さんは家政婦以外にそんな仕事をしているんじゃ? と思った事もあったなぁ……そういえば。
「雅さんでいるのは、この家の中だけなんでしょうか……」
雅さんとマサシさんの姿を交互に思いながら、ふとそんな疑問を抱いた。
「ここだけだよ」
成瀬さんは足を組み頬杖をつく。考える人スタイルだ。断言してるけど、考える人。
「家族も理解して受け入れてるらしいけど……。本人はそう思っていないのかもしれない」
住職とおじいちゃんは旧知の間柄で、相談を受けたおじいちゃんが、彼が“雅”の姿で安心して過ごせる場所を作ったそうだ。
それがこの家。
「マサシも文雄さんに救われた一人だよ」
大きなアンティークの戸棚から、成瀬さんがレコードを出してきた。
洋楽から邦楽、プレミアもの、復刻版……様々なレコードが収納された専用の棚には、もちろんクラシック全集もある。
棚半分、クラシックが占めていると言っても過言じゃない。その中から迷いなく取り出された一枚。
ターンテーブルに針を下ろす指にも迷いが感じられなかった。
その曲は?
何回も聞いてるんですか? なんて、愚問だ――。
「ドヴォルザーク……交響曲第九番、第二楽章」
「新世界より、ですよね」
ピッタリと第二楽章に合わせてくるのが凄い。
成瀬さんが私の隣に座ると、イングリッシュホルンが例のメロディーを奏で始めた。
「私、夕方のチャイムばかりで、オーケストラで聞くのは音楽の授業で二回くらいしか……」
「うん。陽菜さんは可愛いね」
「え」
なに今の。どこから、可愛いに繋がったの?
コーヒーを飲む成瀬さんは、私の疑問符だらけの視線に気付くとフッと微笑んだ。
「!」
この不意打ちの笑顔は、色々な意味で心臓に悪い。――本当にまずい。
オーケストラ演奏も鼓動にかき消されて、全く耳に入ってこなくなる。
相変わらず距離が近いのも、いかがなものか。幅があるソファーなのに、この位置って……。
「そうか……。じゃあ今度、一緒にコンサートに行こう」
「へっ!?」
「マサシは絶対に寝るから、二人だけで」
カップに頭をぶつけるんじゃないかと思った――。
私の気も知らず、成瀬さんは一人で頷き納得していた。
デートみたいだね、とさらに撃沈させられるより良いか……。
もうコッチも無理やり納得するしかない。そして……話を変えよう!
「……。成瀬さんは、豊香さんがあの記事の女子大生だって何で分かったんですか? ヴァッサーゴの目で?」
あれよあれよと話が進んでいったので、私は「うんうん。ほうほう……なるほど……?」と、成瀬さん達の後ろで見ているうちに終わってしまった。
どこまでがヴァッサーゴの瞳の力なのか、どこからが彼らの推理力? なのかが、謎で。
「あぁ……。それはね」
成瀬さんが一枚の紙を出す。A5の用紙には、ズラリと、本のタイトルと著者名が並んでいた。
「今回本を寄贈してくれたのは神宮氏なんだ」
「あ! 朝の電話の人……神宮さんだったんだ。すごい偶然」
「時間が無いから、どうしても今日のうちに聞いて欲しい話があると言われて」
「時間が無い……?」
「話によると、ここ一週間くらい、晴れていても夜中に雨が降ってる音が聞こえるらしい。しかも、庭を誰かが行ったり来たり歩いてると……。どうすればいいかって相談だった――」
「それ……心霊現象!?」
「文雄さん、『鈴原文庫には“ヴァッサーゴの瞳”というスピリチュアルなものがあるから、不思議なことの原因は大抵分かる』と前に飲み仲間に話してたようでね。噂が巡り巡って来たのかな……」
「……。図書館に幽霊がでる噂、おじいちゃんのせいなんじゃ……」
肩をすくめる成瀬さん。
写真の中のおじいちゃんはロマンスグレーの格好いい人で、成瀬さんや雅さんを救ったヒーロー。
だが反面、相当の変わり者のようだ。
「遊び心のある人だったけど、考え無しで行動する人ではなかったよ。その点ではあまり心配いらないと思う。――ただ、遊び心があり過ぎて、僕とマサシはしょっちゅう振り回されてたな」
懐かしそうな表情。少し羨ましい。私もおじいちゃんと話してみたかったな……。
「事故の件も、怪現象の話と一緒に聞いた。だから、彼女の姿を見てすぐに分かったんだよ」
「そうだったんですか」
――遠き山に日は落ちて。
日本では《家路》や《遠き山に日は落ちて》の歌詞で有名な第二楽章は、ドヴォルザークの弟子も《Goin’Home》と作詞している。成瀬さんが教えてくれた。
聞いていると、とても懐かしい気分になる曲。夕方のチャイムは帰宅の合図、みんなと競争しながら帰った日を思い出すからだろう。
オーケストラだと、より壮大な望郷の曲に聞こえた。
「豊香さん、ヴァイオリンを見つけて一緒に家に帰りたいんでしょうね……」
雨の音が聞こえ、誰かが庭を歩いている――それは豊香さんなのでは?
「そうだね。陽菜さんの言うとおりだと思う。神宮氏もハッキリ言わなかったけど、そう思っているんじゃないかな」
「庭を歩いているだけで家に入らないのはどうしてだろう……。濡れてるから、なんて理由じゃないですよね。やっぱり、ヴァイオリンが見つからないからなのかな?」
「……」
成瀬さんは席を立つとレコードを止める。
部屋が一気に静かになった。
「彼女の納骨式、明後日だそうだ」
「えっ?」
私に背を向けたまま。成瀬さんが言った。
「納骨は遺族にとって大きな区切りだから……。神宮氏も彼女のヴァイオリンが見つかっていないことを、とても気に病んでいた。必ず見つけて、二人に返さないと……」
低い声が沈んでいく。
「マ、マサシさんが絶対見つけてきてくれるから、大丈夫ですよ! ほら……カレーもアップルパイも完璧に作れる人だから!」
どういう理屈だよ、とマサシさんからツッコミが入りそうなことを言ってしまった私。
振り返った成瀬さんはクスっと笑う。
「やっぱり陽菜さんは可愛いね」
「どういう理屈でそうなるんですか」
考える間もなく自分がツッコミを入れていた。
***
もう梅雨になったのか? と思うくらい、最近は雨が多い。
今日も雨。
午前中からポツポツ降り出して、お昼は土砂降り、午後になると少し雨脚が弱まった。
もうじき止むかな……と窓の外を気にしていると、バイクのエンジン音が聞こえてくる。
マサシさんだ。私はタオルを持って玄関へ走った。
「おかえりなさい!」
「お、おう……」
フルフェイスのヘルメットを貸出カウンターに置いたマサシさんがビックリした顔で私を見た。
数秒の沈黙。その後に、はにかんだ笑顔。
「た、ただいま戻りましたです」
「なぜ不自然な丁寧語」
いやぁ、と背負っていた荷物を下ろしながらマサシさんは頬をかいて笑う。「なんとなく? 館長じゃん?」そうじゃないだろう。なんか誤魔化されたような……。
「ご苦労様」
事務室から成瀬さんが出てくると、笑っていたマサシさんの顔が真顔になる。
その顔をよくよく見て気が付いた。あ、そうだ。フルフェイスじゃ濡れないよね。タオル必要なかったかな?
「運も勘も無いとか言うな」
「まだ何も言ってないけど」
「目が! 言ってんだよ!」
私からタオルを取り、マサシさんは顔を拭う。
いや、濡れてないですよね……動揺してるのバレバレですよ。言うことも笑うことも出来ないので、震えそうになる頬を必死に抑えた。
「最後の店に無かったらどうしようかと少し焦った。時間は……間に合ったみたいだな」
「結局全部まわったのか。一軒目でヒットしてたら、雨にも降られなかったよね」
「お前がリストの一番上に書いててくれたら濡れてなかったよなぁ」
「あはは」
「目が笑ってねぇぞ」
マサシさんはジト目で成瀬さんを見やりながら、撥水加工されてる大きなリュックからビニールに包まれたヴァイオリンケースを取り出した。想像していたより古いもので、何箇所か小さなキズがある。成瀬さんはそれを指でなぞった。
「新しいキズは無いみたいだ。良かった」
……良かった。
「中も確認するんですか?」
「いや。やめておこう。僕らが見て分かるものじゃないし」
「人の秘密をこっそり覗くみたいだしな」
そう言うマサシさんに、成瀬さんが目を細め小さく頷く。
同感。私も頷いた。
ヴァイオリンは司書カウンターの上に置いた。
自分達がいると豊香さんが出て来づらいんじゃないか……というマサシさんの意見で、私達はカウンターをうかがう事が出来る本棚の影に隠れることに。
「幽霊が怖いからだろ」
「ち、違う!」
「……豊香さん、いつ来るのかなぁ」
本の隙間からカウンターを覗く私。成瀬さんが耳元で「ああ、それは」と呟いた。
「遠き山に日は落ちて。きっと夕方のチャイムに合わせてだろうね」
「てことは……五時か。もう少しですね」
「時間分かってたなら最初に言えよ……。あんなに焦ってたのアホじゃねーか」
と、成瀬さんの向こう側でマサシさんがブツブツ言う。でもすぐに開き直り? 「その曲、ガキの頃キャンプファイヤーで必ず歌ったよな」と笑った。
私も林間学校で大きな火を囲み歌った。静かなメロディーと舞う火の粉。なんか妙にしんみりして、みんなの歌う声も小さくなって。体育の先生の声だけが広場に響いたっけ。
私とマサシさんの間で成瀬さんは「そうなんだ……」と目を細める。マサシさんが言うには、彼はほとんどの学校行事に参加したことがないそうだ。
そんな時はこの図書館で一人……いや、おじいちゃんと過ごしていたのかな?
雨はすっかりやんで晴れた。夕方の優しい光が入り、フロアーにくっきりと明暗が出来る。
豊香さんのヴァイオリンを光が包み込んでいるのを見つめていると、唐突に耳の奥で「ぽたり」と水音が響いた。
「……来た」
一点に集中する暗さ。濡れた土と空気の匂いがこちらへ近付いて来る。
気付けば全身が緊張で固くなっていた。
「陽菜さん」
成瀬さんが耳元で囁く。
「豊香さんの姿が変わっていくよ」
――変わって……?
恐る恐る隙間から彼女を見た。
ヴァイオリンケースをなぞる黒い指。太陽光が当たると、泥に汚れ剥がれた爪が、綺麗に整えられた爪になっていく。
濡れて重そうだった乱れ髪も、サラサラに。
「……わぁ……」
「綺麗だね」
「すげぇ……」
オフホワイトのワンピースを着た豊香さんは、私の位置からは顔が見えなかったけれど、きっととても美人なんだろう。
光に透ける細い線に感嘆の声がもれた。
ケースの蓋を開けた時、豊香さんはクスッと微かに笑った。
ヴァイオリンをかまえる後ろ姿。指揮者がタクトを振るように、ゆっくりと弓が半円を描く。
……そして一音。
それだけでドキドキした。これから、彼女の出す綺麗な音が音楽を奏でるのだ。
私は、自分が弾くわけじゃないのに気持ちを整えるため深呼吸した。
ドヴォルザーク 交響曲第九番 第二楽章
新世界より 「遠き山に日は落ちて」
オーケストラではイングリッシュホルンが担当している旋律を、豊香さんのヴァイオリンが奏でる。
心地よく鼓膜に響く、透き通った高音。
伸びやかに歌っているみたいだ。
窓をつたう雨の雫がきらりと光り、豊香さんのロングストレートの髪が夕暮れのオレンジ色の中たゆたう。
「すごい……」
――知らず内に涙がこぼれた。
なんて綺麗なんだろう。
だけど……とても切ない。寂しさに胸が震える。
「……」
私にはどうしても「これで家に帰れるんだ」と喜んでいる音に聞こえなかった。
『ただいま』ではなく『さようなら』と言っているような――。
彼女は演奏を終えたら消えてしまうんだ……そんな予感がした。
それが“成仏”だというならば、私達は彷徨う霊に対してやるべきことをやったと思っていいのかもしれない。でも、それじゃあ余りにも悲しくない?
豊香さんの家まで送ってあげることは出来ないのだろうか……。
彼女は「帰りたい……」って言っていたのに。
「陽菜さん。大丈夫?」
成瀬さんが耳元で囁いた。ポロポロ出てくる涙を掌で拭ってくれる。
平気ですと頷いたけど、涙は止まらなかった。
泣いているところを見られるのが恥ずかしくて俯いた私。
でも成瀬さんは、そのせっかくそらした顔をぐいっと指で上げてきた。いわゆる……顎クイってやつ。
ひえっ!? と固まっているうちに目の前に端正な顔が近づいてくる。
――だからこの人は~っ! 近いから! 距離がおかしいから! 眼科医でもこんな寄ってこないから!
これじゃあまるで、
まるで……――
「……」
「……陽菜さん」
キスする寸前みたいじゃないの……
「おい、祥一朗!」
マサシさんの小声に成瀬さんがハッと動きを止めた。その瞬間、成瀬さんの吐息が唇に触れた気がして。軽くパニック、目の前がチカチカする――。
「なぁ……彼女」
いつの間にか豊香さんの演奏は終わっていた。
私達は慌てて本棚にかじりつき彼女の様子を覗く。
「俺らが隠れてるの、気付いてるのか?」
マサシさんが呟く。豊香さんは黙って私達の方を向いていた。
「……みたいだね」
「出ていきますか?」
「陽菜ちゃん待ってヤダ、それは怖い」
「いや……その必要はないかも」
成瀬さんが眩しそうに目を細める。
逆光で豊香さんの顔は見えなかった。ただ陽の光が彼女の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
冷たく濡れていた気味の悪い黒い影はもうどこにもない。
かわりに“神宮豊香”の優しい影がそこにあった。
ヴァイオリンを抱きしめて豊香さんはお辞儀をした。
そして顔を上げた彼女はこちらをジッと見つめ、もの言いたげな表情を。
「成瀬さん、豊香さんは――」
何が言いたいんだろう? と私は聞きたくて隣を見上げる。
「…………」
やめて、なにそれ。
そう一瞬思ったくらいにはショックを受けた自分がいて。胸の奥がスッと冷えた。
豊香さんは成瀬さんを見つめている。
成瀬さんも、豊香さんを見つめていた。
本棚という障害を物ともせず二人を繋いでいる、ピンと張ったピアノ線のような糸。
――見なきゃよかった。見えなければよかったのに。なぜ私にはこれが見えるんだろう……。
『ヴァッサーゴの隻眼』
豊香さんが無発声で言った。
『お願い』
「!……そうか、君は……!」
前髪に隠れた目が驚きに見開かれたのを感じる。――またちょっとだけ、私の心は冷えた。
「え? 何か言ってんの?」と、はてなマークを頭に乗っけるマサシさん。
ああ。糸も、豊香さんが成瀬さんに言った言葉も、マサシさんには見えず聞こえずなのか。
いいな。中途半端に二人のやり取り見るよりそっちの方がずっといいよ。
「――うん。君の望むままに」
青みがかった黒い瞳が柔らかく光る。成瀬さんの言葉に頷く彼女。
いやだ。ホントなにこれ。胸がヒリヒリするんだけど。いつまで二人は透明の糸で繋がってるの?
糸切りばさみがあったら迷わず切りそうな自分がいて、少し怖かった。
糸が赤色じゃないことにホッとしてる私がいた――。
『館長さん』
豊香さんの声が直接脳に響いてきて私は慌てた。考えていたことが彼女には筒抜けだったのか、と。
『ありがとう』
でも違っていたようだ。彼女は私に笑う。逆光でよく分からないけれど、きっと笑っている。
『怖がらせちゃってごめんね』
本当ですよ。ドロドロの豊香さん、悪霊みたいで怖かったです。
『元に戻れてよかった』
頭の中で彼女が『ふふっ』と笑うものだから、私も同じように笑ってしまう。すると横で成瀬さん達が首を傾げた。
「陽菜さん? どうしたの?」
「あ? なんだよ、今度はなんだっ」
二人には聞こえていない、女同士の会話。
私も現金なもので、成瀬さんと豊香さんが通じ合っていた時あんなに疎外感を感じていた癖に(もしかして嫉妬?)、今は少しの優越感を。
豊香さん――もう行っちゃうの?
影が薄くなり、ついに点描画になった彼女。
点は次々にオレンジの夕日に消えていく。
ええ、と豊香さんは寂しそうに呟いた。
「――家には……帰れないんですか……どうしても……?」
「……陽菜」
口にした時には、豊香さんの姿はもうなかった。
私の頭の中に言葉を残して、彼女は遠くへ行ってしまった。
『いいの。私の想いは、ヴァッサーゴの隻眼が届けてくれるから――』
「大丈夫?」
柔らかな掌が私の頬を包み込んでくる。
気が付けばまた私は涙をポロポロ落としていて、成瀬さんがそれを受け止めてくれて。
「豊香さん……が、」
「うん」
青みがかった黒い瞳は、私だけを見つめている。
優しく。柔らかに。これまでのようにすぐ近くで。
いま成瀬さんの目に映っているのは私――。
「成瀬さんが……届けてくれるって…」
「うん。大丈夫。だから泣かないで」
成瀬さんは微笑んで、そして、私を抱きしめ言った。
「秘密を教えてもらったんだ。一緒に、彼女の想いを届けに行こう」