ヴァッサーゴの隻眼
「陽菜!」
成瀬さんの声が聞こえた。
腕を強く引っ張られる。その勢いで体は後ろへ飛ぶように動き、一瞬で寒さと暗闇から抜け出せた。
「いっ……た」
勢い余って尻もちを。尾てい骨に痛みが走る。でも死ぬより断然いい。
私を囲いそこねた女性は、「どこ……?」と低く呟いた。
気怠そうに濡れた体を左右に揺らしてから、腕をだらんとさせたまま首から起き上がっていく。
まるで操り人形の様な動きだ。人とは思えなかった。
「陽菜さん、ごめん大丈夫?」
「後ろっ!」
成瀬さんの肩越しに泥だらけの手が見え、私は叫ぶ。
彼は素早く私を庇いながら振り向き、
「待て! 彼女は司書じゃない」
平手打ちをしたかの様な強い声で女性を制した。
爪の剥がれた人差し指がピタリと止まる。
成瀬さんの前髪に触れる寸前で――。
成瀬さんは、ほうっと息を吐いてから、静かに言った。
「彼女は違う。《ヴァッサーゴの隻眼》は、僕だ」
――なんて……言った?
今、《ヴァッサーゴの隻眼》って……。
彼の口から出てきた衝撃的な言葉に困惑したのは私だけじゃなかったようだ。
固まった空気の中で、女性の髪から滴り落ちる水の音がいやに響く。
「どういうこと……」
白いシャツを引っ張ると、成瀬さんは私をチラッと見て軽く頷いた。
長い前髪の隙間からのぞく瞳の色が、陽の光で弱く光った気がした。
「……失くしたものを、探してくれる……と聞きました……」
ボソボソと女性が喋り始める。
「探してください……。でも、なにを失くしたか……思い出せないんです……」
自分で自分を抱きしめ俯く彼女は、ようやく“寒い”という感覚を取り戻した様だ。
そしてその寒さは、こことは全く違う場所から感じているらしく、吐く息が真っ白で。
彼女が亡くなった場所はひどく寒かったのだろうか。
濡れた床から冷気が伝わってきた。
「君は、神宮氏の娘さんだね。神宮 豊香さん」
「じんぐう、とよか」
「えっ、は!? 成瀬さん、知ってる人なんですか!?」
「あぁ。……みて分かった」
成瀬さんの言葉に、豊香さんの、人形のボタン目の様な真っ黒の瞳に変化が現れた。
――深淵に一筋の光が差し込む。
「……そうです。わたし……豊香、神宮豊香」
俯いていた顔が上向き、彼女は成瀬さんを真っ直ぐ見つめた。そして、恐る恐る言う。
「教えてください……。私が、探しているもの」
「……」
「私が、失くしたものを」
震える声で続ける豊香さんに私は驚いた。
教えてほしいのは、自分の名前だけじゃないんだ!?
彼女が本当に見つけたいもの。それは一体……。
ぽたり。ぽたり。
床に落ちる滴は、秒針のリズムと同じで。
ぽたり。ぽたり。ぽたり――。
豊香さんと対峙する成瀬さんはピクリとも動かない。
沈黙が破られるまで、水滴はいくつ落ちただろうか。
極度の緊張から思わず息を止めていた私が深呼吸するまでの間だから……三十粒は落ちたはず。
成瀬さんがやっと口を開いた。
「遠き山に、日は落ちて――」
それは、聞き覚えのあるフレーズだった。
抑揚無く発せられた――曲名。
私の脳内には勝手にメロディーが流れる。有名な曲だ。何度も聞いたし、学校などで歌ってきた。
豊香さんも同じだったらしい。歌っているのか土気色の唇が動き、彼女の吐く白い息が濃さを増す。
――と、それまで足元で漂っていた冷気が、豊香さんに呼応したかのように一気に胸元まで巻き上がってきた。
「っ!」
私の吐く息もすぐに真っ白になった。吸った空気が気管を通っていくのが、よく分かる。
何、この寒さ――! 冷凍庫に放り込まれたみたいだ。
太陽の光が降り注ぐ部屋で寒さに凍える幽霊。
服や髪から滴る水が水たまりをつくる。そこに、豊香さんの涙が落ちた。
「……りたい……かえりたい……帰りたい……。でも……っ!」
自分の泥だらけの手を見て、豊香さんが目を見開いた。爪が剥がれ、血と泥で固まった指先。
「……さがして……」
これで何度めの懇願だろう。
彼女は嗚咽を漏らした。
「ヴァッサーゴの隻眼――早く……」
成瀬さんにグッと顔を寄せ、豊香さんが言った。
焦っているとも怒っているともとれる、今までで一番低く、唸るような声だった。
彼女から溢れる涙が泥水になり、黒い指先と長い髪がどろりと溶けたように歪む。
せっかく瞳に光が射し人間味を取り戻した豊香さんが、前よりも恐ろしい姿に変わろうとしていく。
悪霊、という文字が頭をかすめた。
「な、成瀬さん……!」
「大丈夫。怖くないから」
ぐいっと肩を引き寄せられた。成瀬さんの顎が頭に触れる。白いシャツからジャスミンの香りがし、頬にあたたかな体温も感じて、五感を実感する。
私と彼は生きている――。
豊香さんとの間に、目には見えない高い高い壁があった。
「少し時間がほしい。明日の夕方にまたおいで。それまでに見つけておくから」
「…………」
返事はないが、豊香さんは納得してくれたみたいだ。
湿った土の匂いと冷気が、本棚の向こうへ消えていく。
「ごめんね、ひとりにして」
成瀬さんの優しい声を聞いたら全身の力が抜けて汗がドッと吹き出てきた。
「いえ、そんな……」
成瀬さんは悪くない。豊香さんも、悪くない。
誰も謝る必要なんて……ない。
――帰りたい……
豊香さんの声が耳にこびりついていた。
***
「ヴァッサーゴの隻眼って、本のタイトルだと思ってました」
司書カウンターでパソコンに向かう成瀬さんに溜息を投げた。
「人間で、しかも成瀬さんだったとか……。そうきたか~! リストじゃ見つからないはずだよ……」
画面から視線を外さず。成瀬さんは、豊香さんが消えた後からずっとタイピングとクリック音を響かせている。
「文雄さんが勝手につけたあだ名でね」
「カッコイイあだ名」
「今、中二病みたいだなって思ったでしょ」
「……。……本じゃないと分かるとそう聞こえちゃう不思議」
「素直だな。陽菜さんは」
声が微笑む、という表現があるとしたら、成瀬さんはよくそんな感じになる。
表情は“ほぼ無”なんだけど、穏やかな口調が僅かに、ほわんと軽くなった様な――。
言葉にするのが難しい。語彙力をください。
「これ。文雄さんがよく読んでた本」
「おじいちゃんが?」
成瀬さんが引き出しから一冊の本を出した。
透明の文庫カバーで保護してあるけれど、表紙は色褪せクリーム色になっている。
真鍮製、ブロンズカラーの羽の栞。
この栞いいなぁ、と思いながら挟んであったページを見る。
まず飛び込んできたのは『ヴァッサーゴ』という文字だった。
『ヴァッサーゴ』
ソロモン王72柱の魔神の一人。
ヴァサゴ、ヴァスタゴ、などとも呼ばれ、容姿も含め謎が多い悪魔らしい。
「悪魔の名前なんだ……」
「よく見つけてきたものだね。そういうのが好きらしくて、書庫の中は海外から集めた資料が山ほど積んであるよ。黒魔術でもするつもりだったのかな」
おじいちゃんが成瀬さんをヴァッサーゴと結びつけた理由は、本を読めばすぐ分かった。
温和な性格で博識。王子、という文字も。
これ成瀬さんそのまんまじゃないか。おじいちゃん、ナイスネーミング!
「ヴァッサーゴは過去・現在・未来、全部の事を知ってるって……凄くないですか?」
「……はは」
乾いた笑い声で成瀬さんは肩を竦めた。
――本には『例えば』と解説が続く。
『無くした物がどこにあるか質問すると、場所など様々なことを教えてくれる』
成瀬さんには不思議と、相手の知りたい情報が脳内に浮かぶという、まさにヴァッサーゴみたいな力があるらしい。
「断片的な画像だったり、単語だったり……。単語のほうが多いか……」
「そっか! だからさっき」
「僕は悪魔ではないからね。分かることなんてほとんど無いさ」
「でも豊香さんの名前を! すごい!」
「陽菜さん」
万年筆を指でくるっと回し、成瀬さんが興奮しかけの私を止めた。
低音で窘める口調。
しまった。少しはしゃぎ過ぎたかな……。
「どうして文雄さんは《ヴァッサーゴの隻眼》なんて変なあだ名を思いついたと思う?」
「ヴァッサーゴくん、とかでも良かったですもんね。やっぱりカッコつけたかったのかな」
「ヴァッサーゴくん……」
一瞬呆れた顔をされたけど、「面白いね」とフォローが入る。心はこもっていない、棒読みだ。棒読み……。
「この悪魔は盲目らしい。そして僕は、右の眼球が無い」
「へっ?」
言うやいないや、成瀬さんは前髪をかき上げ、万年筆を右眼に刺した。
コツンと小さな音がしてペン先が黒い目に弾かれる。
「……!」
「このとおり義眼。だから文雄さん余計に面白がっちゃって……こんな中二病みたいな呼び名」
「……おじいちゃんてば」
成瀬さんは自分の二つ名が不満らしい。私は好きだけどな。
「僕もね、施設暮らしだったんだ。それを文雄さんが拾ってくれた。義眼も、彼が作ってくれた。右眼の無い気味が悪い子供を欲しがるなんて、君のお祖父さんは本当に不思議な人だよ」
小さく微笑んでそう言うと、成瀬さんはまたパソコンに向かってしまう。
「……」
彼の過去に何があったか分からないけれど、おじいちゃんが、ただの興味心から成瀬さんをここに連れてきたとは思えなかった。
時が止まったようなこの図書館と洋館は、誰にも壊せない美しい世界だ。
住んで間もない私が、まるで産まれる前からここにいた様な気持ちになれるほど居心地のいい場所。
成瀬さんだって感じているに違いない。私はそう思う。
おじいちゃんが残した世界は、きっと特別なんだ――。
「文雄さんは、僕の眼が欲しかったのだろうか……」
ふと、成瀬さんが呟いた。
「え?」
「いや……なんでもない」
パチン! とキーが鳴った。
送信完了、と小声で成瀬さん。
今度は部屋全体に声を響かせる。
「もうそろそろ出て来たら? あと、今リスト送ったから」
「霊は……もういないんだろうな」
「いい加減慣れなよ。寺の息子のくせに」
「寺だろうが何だろうが、おっかねーもんはおっかねーんだよ!」
階段から男の人の大声が聞こえた。
その人はドカドカと乱暴な足音を立てこちらへやって来る。やたらと響くな……と思ったら、ブーツだ。ごついブーツのせい。
「つーか、この量なんだ! 十軒⁉ 隣の市まであるじゃねーか」
「僕よりフットワークが軽いんだから余裕だろ。それに、お前の勘が鋭ければ一軒目でヒットするんじゃないか?」
「ウッ……」
男の人は、成瀬さんの言葉に唸った。
寺の息子らしいけど、金髪のツンツン頭。キリッとした眉に三白眼。木魚を叩くよりドラムを叩いていそうで、説法するよりラップでも始めそう。
フットワークが軽い……なるほど、バイクに乗っているのか。服装から想像出来た。
私のお坊さん像とは真逆な人だ。
「陽菜ちゃん、よく平気だよね。幽霊怖くないの?」
「えっ⁉」
急に名前を呼ばれてビックリした。私の名前知ってるの?
「結構……慣れているので……。でも、今日のはちょっと怖かったかも……」
「ホラ見ろ、祥一朗! お前、陽菜ちゃんを巻き込んで罪悪感は無いのか!」
――声が大きい人だなぁ。
でも、澄んでよく通る声なので耳障りではない。その声で読経すれば、霊も喜んで成仏するんじゃないか? なんて思う。
「罪悪感はあるよ。だから、陽菜さんは僕が守る」
「っ⁉」
「!」
私達は同時に成瀬さんを見た。こちらの勢いに成瀬さんが首を傾げる。
「お前! そういうとこだぞ! この天然タラシが!」
「え、何?」
そういうとこだぞ!
心の中でお坊さんに続く。
こともなげに、世の男性が躊躇うことをサラッと言うのだ。このお方は。
「時間がもったいないな。マサシ、早く行きなよ。お前の勘と運の無さは人一倍だろう」
「くうぅ〜! それが人に物を頼む態度かよ」
手払いされた“マサシ”さんは頭を掻きむしった。
「あの……マサシさんは何を頼まれて?」
「あ? あぁ……リサイクルショップ回り。さっきの女のヴァイオリンを見つけてくる!」
マサシさんが笑う。まるで宝探しに行く子供みたいに笑うので、意外な表情に驚いた。
「豊香さんの探し物はヴァイオリンなの? でも、なんでリサイクルショップを……」
「曲名と同時に、中古品の楽器と一緒に並ぶヴァイオリンが見えた。多分、現場から持ち去った誰かが売りに出したんだと思う」
現場。持ち去った。
どちらも嫌な響き。事件の匂いがそこはかとなく漂う。
まさか殺人とか言い始めないよね?
私の顔に気付いた成瀬さんは「そうか」とパソコンを操作しクルッと机上で回した。
「陽菜さんが来る前にね、こんな事があったんだ」
「ここに来る途中の道だよ。急カーブあんだろ」
「すぐそこじゃないですか⁉」
成瀬さんが指差す地方新聞のすみっこに載っていた記事を読んだ。
雑木林の中で遺体で発見された女子大生。
歩道脇は崖状なのにガードレールが無く、当日は雨も振っていた為、誤って転落した可能性が高いと思われる。帰宅時間が遅い娘を心配した父親から捜索願が出ていた――。
小さな記事で詳細な情報は載っていない。もちろん豊香さんの名前も出ていない。
地方新聞でこの扱いなのだ。この市に住んでいても話を知らない人は多いだろう。
「これ、本当に事故なんですか? 持ち物消えるって変ですよね」
「第一発見者とか怪しいよな! そもそも、ここまで来る奴なんて滅多にいないのによ」
「事件か事故か決めるのは警察の仕事だ。僕らには関係ない」
早口になったマサシさんを制止する成瀬さんの声は、極めてドライだった。
「これは捜査じゃなく、ただの探し物だ。僕らは神宮豊香さんのバイオリンを見つけて彼女に返す。……それだけだよ。
彼女が知りたいのは自分の死に際に何があったかじゃないんだ。仮に犯人がいる事件だとしても、神宮さんが求めない限り僕はそれを見ることが出来ない」
「……そうだったな」
溜息をつき、マサシさんはバツの悪そうな顔になる。……私も一緒に反省した。
――僕は悪魔ではないからね。見えるものなんてほとんど無いさ。
ヴァッサーゴの瞳を受け入れている彼の中には、どれだけの苦悩と、もどかしさがあるのだろうか――。
それはきっと誰にも理解出来ない。恐らく、これからも、ずっと……。
成瀬さんとマサシさんの様子を見て、こういうことが今までに何度もあったんだなと察した。
「じゃ、行くわ。晩飯の用意と夜のお勤めがあるし、サクサク動かねぇと時間がない」
「ありがとう。頼んだよ」
「陽菜ちゃん。今晩は陽菜ちゃん大好き“雅さん特製ハンバーグカレー”だぞ! 楽しみにしてろよ~」
「――は?」
何故それを知っている!?
聞く間もなく、マサシさんは大股で去っていった。
ゴッゴッゴッ、と硬い音と鼻歌が階段を下りていく――。
「楽しみにって……」
「あの様子じゃ、デザートにもかなり気合い入れてるみたいだね。相変わらず歌は下手だ。読経は凄いのに」
「いや、いやいやいや……」
あとは彼に任せよう、と、机の上を片付け始めた成瀬さんに、私は「待った」をかけた。
羽の栞を振って成瀬さんの気を引く。
「気に入ったの? その本、陽菜さんが持っていて良いよ」
「違くて! マサシさん! あれ!」
まともな日本語になっていないのに、感の良い成瀬さんへはちゃんと通じたようだ。
「ん? 言ってなかったかな?」
「聞いてないです! 会ったのも初めてだし!」
「そうだったっけ? ……あ、そう言われてみればそうか。屋敷でしか会ってない。あまりに自然で気付かなかった」
「確かにそこは否定しませんけど……」
「雅の本名はマサシなんだ。字は一緒だよ」
「字は一緒でも外見が全く違うっ」
彼女は本当は“彼”だと知っていたけど、あんなにガラッと雰囲気から何から違う人になるとは思わなかった。
ロック? でライダーな寺の息子……。
エプロン姿の華やかな雅さんしか見た事ないから、正直なところ私は少し混乱している。
「どんな姿でもいいよ。あいつは大切な友人。それは変わらないからね」
「……」
――そういうとこだぞ! この天然タラシが!
マサシさんの照れ隠しの焦り声が聞こえた気がして。
「やっぱ成瀬さんだなぁ」
「?」
私はしばらく一人でニヤニヤしていた――。