近付く足音
翌朝は前日と打って変わって快晴だった。
廊下へ差し込む朝の光がキラキラと光ってる。
窓に残った雨粒もスワロフスキーみたいで綺麗。
長い廊下の途中、私は大きく伸びをして清々しい空気を吸い込んだ。
「おはよう、雅さん」
「陽菜ちゃん、おはようございます。お休みなのに今日はとっても早起きね」
ダイニングには焼きたてのパンの香りが漂っていた。
「美味しそう! 今日はクロワッサン!」
「プレーンとメープル、二種類焼いてみたのよ。どっちにします?」
雅さんはこうして毎朝パンを焼く。
高級ホテルの様な朝メニューは施設暮らしの私には中々刺激的だった。当初は戸惑いもあったけど、近頃は普通に食卓につくようになっていて、慣れってすごいな……なんて思う。
「うーん……両方」
「言うと思った。すぐ用意しますね」
「あ。私も手伝う」
雅さんの料理の腕前はプロ級で、パンだけではなくその技は様々な料理に反映されていた。和食、洋食、中華……どれもすごく美味しい。
てきぱきと用意をする雅さんの横で、私は「さてどうしよう」と思案する。
手伝うと言ったものの、私の出番は無いようだ。
でも食器類くらいは並べられるよね、と思ったところで、目に飛び込んできたのは……イチゴジャム。
これも雅さんの手作りだと思う。冬に手に入れた良品の苺を冷凍しておいて料理に使うのだと聞いたことがあったし。
この間シフォンケーキを作ってくれた時のブルーベリーソースは秀逸だった。だからきっと、これもビックリするほどの出来に違いない。
ルビー色の芸術品みたい……。
誘惑に勝てない私の素直な人差し指は、ジャムをすくった。
「コラ、陽菜ちゃん。ダメですよ」
「わ、ごめんっ」
「しょうがないわねぇ……。でも、可愛いから許しちゃおっと」
「え!?」
雅さんの艶っぽい声が瞬時に近づいてきて、耳元で止まる。
手首を捕まえられた私はあっという間に壁際に追いつめられていた。
し、しまったっ!!
思った時には時すでに遅し。
背中に壁の固さを感じ、逃げ場が塞がってしまった事を悟る。じわりと背中に汗が浮かんだ。
「ねぇ……陽菜ちゃん?」
雅さんは私の手首を掴んだままニッコリとこちらを見下ろし笑っていた。その含んだ笑顔がとっても意味ありげで、とっても艶美。
この人は、成瀬さんとは違う種類のフェロモンが常に全開なのだ。
「お休みの日に寝坊してる陽菜ちゃんを起こしに行くのが楽しみなのに……。今日はどうして起きちゃったんです? アタシ、陽菜ちゃんの無防備な寝顔が大好きなのよ」
「み、みみみ雅さん……落ち着いてっ」
「でも、日頃の行いが良いとラッキーは舞い込むのね。陽菜ちゃんが唇の端にジャム付けてるなんて神シチュ、滅多にお目にかかれない……」
「は!?」
神シチュって何!?
っていうか雅さんの顔すっごい近いんですけど!
陶酔しきって危ない目になってる雅さんに、私は身の危険を感じながらも固まった。
「ヘビに睨まれたカエル」ってこういう状態の事を言うんだろう。
雅さんは、本人いわく「可愛いものフェチ」らしい。
日々可愛いものへの探究心を忘れず、可愛いものだけに囲まれて生きていたいのだと言う。
特に、周りに「可愛いひと」がいないのは何より嘆くべき事なんだとか。
『耐えられない状況を打破するには、これがベストなのかもしれない』
そう考えた雅さんは、自分を「可愛いひと」にする事にしたそうだ……。
つまり。つまり、だ。
ネタバラシしてしまうと、実は彼女……本来『彼』な訳で。
まあ……色々雅さんなりの葛藤とかあったんだよね、と推測したいけど、すっかり「可愛いひと」ぶりが板に着いちゃってるくせに、時々それを忘れて欲望を男性的に暴走させる。
なので私は、
「超絶キレイなお姉さんは、たまにやばいので注意が必要です」
と、認識することにしていた。
油断は禁物――!
その「やばいお姉さん」は今、絶好調で暴走中だ。
「陽菜ちゃん……そのジャム、アタシが……ふふっ……とってあげます!」
「今の笑い何っ!? 結構ですっ!」
「大丈夫……優しくしますから」
「優しくの意味が分からないー!」
無駄に美しく無駄にいやらしい雅さんが更に近づいて。
ああ……もう私駄目だ
最大の危機に泣く。
その時だった。
「朝から変態菌をばら撒くのやめてくれるか?」
成瀬さんの低い声。
ドカッと大きな音と共に雅さんが横に飛んで行った。
飛んで行った?
あ、なるほど。成瀬さんが雅さんに蹴りを……
「いってええ! おい祥一朗! 朝っぱらから何すんだよ!」
雅さん、口調! 声!
「それはこっちの台詞だけど? 全く……ちょっと目を離せばすぐこれだ。油断も隙もありゃしない。いいか、陽菜さんに変な事したら承知しないから。彼女はこの屋敷の新しい主人なんだ。お前は雇ってもらってる立場だという事を忘れない様に」
「変なコトなんかする訳ないだろ。ただ可愛い陽菜ちゃんを愛でてるだけだよ」
「一度死んでみるか?」
「スミマセン」
眉を顰めて怖い事を言う成瀬さんに、雅さんが速攻で土下座謝罪。
この光景は日常茶飯事だった。
長い間祖父をサポートしながら一緒に過ごして来た二人はいわば同僚なんだけど、こうして力関係を見る限り、立場は圧倒的に成瀬さんが上だ。
でも、この二人のやり取りは見てるとなんだか笑ってしまう。揉めてるというより、じゃれ合ってるという表現の方がしっくりくるから。
結構仲良しな二人。男の人同士の友情は不思議だ。……見た目は男女だけど。
「大丈夫? 陽菜さん?」
「あ、はい!」
「良かった。それから……あれからはぐっすり眠れたみたいだね」
「おかげさまで。ありがとうございました」
私の言葉に成瀬さんは「いいや、こちらこそ。役得だったしね」と少し表情を緩めた。
それはもしかして私が考えている事を指している? ――でも、恥ずかしくて「何が?」と聞いてみる事は出来なかった。
かわりに雅さんがかなりしつこく真相を迫っていたけど、成瀬さんは何も言わず。ホッとした様な……ちょっぴり残念な様な……? うーん……。
「あら、電話」
「え、電話?」
複雑な乙女心を遮断した雅さんの声。私も耳を澄ましてみた。
廊下の奥、遠くの方で聞こえるのは確かに電話の音。
多分とても価値があるだろうアンティークの西洋風電話が、この屋敷唯一の電話だった。
どんなに広くても、ファックス機能付き親子電話なんて便利なものはこの屋敷には無い。
まあ、特に必要としていないからだと思う。
広い屋敷のリビングに忘れられた様に置いてあるそれは、飾り物と間違うくらい滅多に鳴る事はなかった。
その電話が珍しく、上品なベルの音を響かせている。
「僕が出るよ。陽菜さんは先に朝食をどうぞ」
成瀬さんがそう言って。
私と雅さんはその彼の背中を見送る。
足早に行く成瀬さんを見つつ、雅さんが色の無い声で言った。
「それにしても……いつ見ても無駄に長い脚ね。なんかムカつくわ」
雅さん……それって嫉妬?
***
『お休みの日なのにごめんね。しかも、まだ慣れてないところに……』
『大丈夫です! 任せてください。私も少しでも早くココの事覚えたいし』
『うん……例のごとく来館者はほとんど無いと思うんだけど。なるべく早く戻るよ』
朝の珍しい電話の主は、本を寄贈したいと前から連絡をくれていた人だった。
引き渡しの約束日をどうしても今日に変更してほしい、という連絡。何やら他にも話があるらしく、急遽成瀬さんが取りに行くことになった。
私はその間、図書館のお留守番役を。
臨時休館にする……と言う成瀬さんに私が自ら買って出たのだ。
「それにしても……こうしてると私、“図書館の人!”って感じだよね」
蔵書リスト片手に本棚を調べて歩いてる最中、私は自己満足な独り言を零す。
誰かに聞かれたら苦笑されそうな言葉でも、成瀬さんの言った通り来館者はまだこの時点でいなかったので問題無し、だ。
大きな窓から降り注ぐ太陽の日差しは、少しずつ季節の変化を伝えている。
柔らかな光から力強い光へ。
深まる緑、風に揺れる木々の葉――初夏はもうそこ。
自分の肩で光が跳ねるのを感じながら、私は本棚の間を歩き、祖父の不器用な字を追いかけつつ古い本を何冊も探していた。
リストから気になるタイトルを拾い、その本を見つけ出す。
この作業は、来館者からの検索依頼を想定したシュミレーションだ。ちょっとしたゲーム感覚でもあり、今日の私はずっとこんな事を繰り返していた。
「そういえば……」
本棚の横に置かれている椅子に座ってリストを見ていて、ふと思い出した。
昨日の出来事。
眠れなかった原因について、私は成瀬さんに聞く事がまだ出来ずにいる。どう聞いていいのか躊躇しているのもあった。
だって、いきなり「ずぶ濡れの女性の幽霊見たんですけど! 成瀬さんは?」って……聞けるか?
第一、幽霊が見えるって告白して、良いことなんかなかったし。
この図書館にそういう噂があるのは成瀬さんだってもちろん承知の事。
来館者が少ないのも噂が少なからず影響しているのは明白だ。そこに、私がそんな事を言い始めたら彼はどう思うのだろう。
やっぱりあまりいい気分はしないかもしれない……。
成瀬さんが幽霊の噂について一切口にしないから、余計に聞けない部分もあった。
思えば雅さんもその件に関しては何も言わない。
もしかしてココではその噂が禁句とか?
だとしたら、なおのこと聞ける訳ない。
「《ヴァッサーゴの隻眼》か……。でも、それらしいの無いんだよね」
ブツブツ一人こぼしながら、リストをめくった。
何度見ても一階のリストにはそんな名前の本は載っていなかった。
となると、考えられるのは二階。洋書だ。
私は洋書リストをもって二階に上がる事にした。
幽霊が探す本が一体どんなものなのか、なんだかすごく気になるのだ……。
二階は一階よりも静かに感じられた。
自分の足音が奥の奥まで響きそうな静寂。
改めて二階を探索すると、古い洋館を改築した図書館の独特な雰囲気が強く感じられた。
遠い過去へ旅している気分になる。洋書ばかりのフロアーは異国の図書館みたいで、アンティークの調度品類がさらにそれを際立たせていた。
ここだけが別世界。溜息を誘う懐古的な空間。
そして、綺麗に整頓された司書カウンターの前に立つと、そこに座る成瀬さんの姿が目に浮かんだ。
カウンター横の窓から差し込む光に反射してキラキラ光る彼の黒髪。
書庫の整理や本の修復作業が無い暇な時は読書をしているらしく、細くて長い指がページをめくり、黒い瞳はじっと文字を見つめて。
絵画と間違いそうな完成されたビジュアルには、それこそ溜息が漏れた。
成瀬さんの存在はこの別世界を作り出す要素の一つだ。そう思えるくらい、ここに座る彼の雰囲気は謎めいていて美しかった。
一瞬、本来の目的を忘れて記憶の成瀬さんに見とれてしまった私はハッと我に返る。
いけないいけない。妄想が好奇心を上回ってしまうとは。
気を取り直してカウンターに座るとリストを開いた。
日本語でも読みづらい祖父の字は英語になると余計に読めない。これはちょっと大変かも。
そんなこんなで、英語に疎い頭をフルに回転させながら英訳と字の解読に悩むことしばらく。
でも、やっぱり《ヴァッサーゴの隻眼》なる本は見つけられなかった。
何処にあるんだろう?
リスト管理されてない書庫の本だったらお手上げだ。成瀬さんじゃないと、それについては全く分からないもの。
早くも行き詰ってしまった私はカウンターに頬杖をつきながら「うーん」と唸った。そもそも、この本に関しては謎だらけだ。
どうしてあの幽霊はこの本を探してるんだろう?
死してなお探すという事は、相当思い入れがあるとか、未練が残ってるとか、理由があるはず。
それに、《ヴァッサーゴの隻眼》のヴァッサーゴって何? 誰かの名前?
「わっかんないなー。面白い本なら私も読んでみたいのに」
成瀬さんには聞きづらいから自分で書庫を探してみようかな、そう思い書庫の鍵を取りに行こうとした時だった。
階段の方で何か音がした。
「……成瀬さん? 戻って来たの?」
声を掛けると、微かな音がまた。相手の返事を聞こうと黙って音に耳を傾けた。
コツン、
本棚の向こうから聞こえてきたのは成瀬さんの声ではなく、足音だった。
ただ、彼のものではないとすぐに解った。この足音は男性のものじゃなく女性だ。ヒールの靴音。
「……え、ちょっとまって……」
それに混じる他の音に気付いた私は、椅子から思わず立ち上がった。
音は近づいてくる。ゆっくりと。
ヒールの音、そして……水の滴る音。
静かなフロアーに異様な気配。私にはすぐに解った、それが何なのか。誰なのか。
昨日の、あの女性の霊だ。
「二階……司書……」
昨日と同じ、抑揚の無い声が聞こえた。低くかすれた霊の声に全身が凍る。
明るいフロアーに一つの大きなシミの様な影。じっとりと濡れた気配をまとうその影が、靴音と水音を出しながらこちらに向かって来ている。
ゆっくりと響く音から逃れようと足を動かそうとした。
だけど、嘘みたいに身体は動かなくて。金縛り? ……恐怖からか声も出せない。
「《ヴァッサーゴの隻眼》を探してるんです……」
目の前に現れた彼女は前と同じことを言った。
濡れた衣服と長い髪から落ちる滴が私の足元を濡らす。それくらい、私と彼女の距離は不自然なほど近い。こんなに近いのに髪に隠れ表情が見えないのが恐怖を倍増させる。
「さがして」
濡れた土の香りとひんやりした空気が鼻先に触れた。
あまりの近さと恐怖に私の身体はガタガタ震え始める。今までこんな怖い思いをした事はなかったのだ。
それは幽霊を見慣れた自分が初めて経験する、異種の者への恐怖だった。
私は司書じゃない
言いたい言葉は全く音にならず。
私は、少しだけ動く首を小刻みに横に振って自分の意を伝えようとした。
だけど、強張る私の顔とその動きを、彼女は違う意味で捉えたらしい。私が拒否したと思った様だ。
ピクリと肩で反応した彼女は「何故?」と呟いた。低い低い声で。
「おしえて……おしえてください」
伸びてきた黒い指。
指先も掌も、泥で黒く。爪の数枚は剥がれてしまっているのか赤黒く見えた。
その指先が私に触れようと近づく。
「……っ……!!」
「――さがして。……おしえて」
一瞬だけ、隠れていた彼女の瞳が見えた。
虚ろなそれは、命の輝きを失った、ただの黒。
「いやあぁっ!」
震える身体に思い切り力を込める。
助けて
冷たい空気を声で跳ねのけようと、私は叫んだ。
「助けて……! 誰か……」
へたり込んだ私に、黒い女が覆いかぶさってこようとした。
寒い。
「成瀬さん……」
このまま闇に包まれて、ゆるやかに命が消えていくのだろうか――。