丘の上の図書館
天涯孤独だと思っていた。
両親の事も自分の素性も何一つ分からない。
生後まもなく施設の前に捨てられていたらしく、名前以外は一切不明。詳しい事情を知る人も、もちろん迎えに来てくれる人もいなかった。
曲がらずに生きてこれたのは寮母さんや沢山の仲間たちのおかげだ。血の繋がりが無くても、あたたかな家族が私を支えてくれた。
人より少し特殊だけど、それなりの幸せ……味わってきたと思う。
そんな私をずっと探し続けていた祖父がいたのだと知ったのは、大学進学も決まり、高校卒業を目前にした時だった。
「鈴原 陽菜さんだね。はじめまして」
施設に私を迎えにきた人は、背の高い若い男性。
祖父の所有する私設図書館で司書を務めているという彼は、祖父から私の存在を聞き、そして「孫に全てを」という祖父の遺言を守る為に私を探しだしてくれたのだ。
「あなたは?」
「成瀬 祥一朗と言います。鈴原氏にはとてもお世話になったんだ。聡明で優しい人だったよ」
長い前髪の奥で、懐かしそうに、そして悲しそうに細くなる瞳。
成瀬さんもとても優しい人なのだと、その眼を見た時に私は感じた。
***
あの時から一か月と少し。
新しい生活にもようやく慣れてきて。
私は祖父の図書館【鈴原文庫】を継いだ。
「……ヒマだなあ」
もちろん図書館の事なんて全然わからないから、ここで長年司書をしてる成瀬さんに頼りっぱなしの名前だけ館長だけど……。
「図書リストでも見て勉強するか……って、うわ! 字、雑! 酷すぎる!」
パソコンの無い図書館での蔵書管理は、アナログな手作りリストファイル。
しかも、前館長――祖父の手書きときた……。
開いたファイルを見て思わず私は文句が出る。
なんだこの字……
ミミズかっ!
「文雄さんの字は特徴があるからね……読むのはコツがいるよ?」
「成瀬さん!? いつの間に?」
「リストチェックか……陽菜さんは仕事熱心で助かるな。でも、リストなら僕が全て把握しているから大丈夫だよ」
「全て? 全部覚えてるんですか!?」
私設といえど蔵書数はかなりのものだと思うこの図書館。ここにある全部の本を覚えてるって……成瀬さんの頭脳はどうなってるんだろう?
大した事ない、と謙遜する成瀬さんを見て、「んな訳あるか」と心の中でツッコミ。
何冊あると思ってるんだ。しかも二階は全部洋書! 十分大した事ある。あり過ぎる!
「文雄さん、来館者の案内はとにかく苦手だったからなぁ。リストを作ったもののよく解らなくて、本に関しての問い合わせは僕が担当してたんだ。だからリストの把握は必然的に必要だった……それだけだよ」
「自分で書いた字が読めなかったとか……ありえない。おじいちゃんって一体……」
頭を抱えた私に成瀬さんが目を細める。
さらさらとした彼の前髪が揺れて、その奥に見えた瞳の色に思わず私は目を奪われた。
青みを帯びた黒色。綺麗。
いや、綺麗なのは瞳だけじゃない。スラリとした高身長。白い肌。瞳と同じ色のサラサラな艶髪。表情豊かではないけど、それも魅力にしてしまう程、この人は綺麗だ。
眉目秀麗、頭脳明晰――その言葉がぴったり当てはまる人物に出会ったのは初めてだった。
だから、仕方ない。見とれてしまうのは仕方ない。……これって言い訳っぽい?
だってね。
突然「迎えに来ました」なんて現れて。
色々助けてくれるだけじゃなく、優しい態度や言葉で側にいてくれる。
王子様でしょ……これは。
たった一か月で慣れろ、と?
ディズニー映画ばりな王子様を前にドキドキするなって言う方が無理な話だ。
それに成瀬さんって……――
「……さん、陽菜さん?」
「あ!? は、はい!」
思考は低い声で遮られる。
居眠りから覚めた様な感覚の後は、全身が熱を持った感覚に。
目の前に、成瀬さんの端整な顔があった。
「来館者もいないし、少し休憩しようか?」
耳元でテノール。
成瀬さんはいつも距離が近い……。
***
今日の天気は朝から雨。
でも、来館者が少ないのは雨のせいじゃない。これが普通、日常的。
この図書館はやたら来館者数が少ないのだ。
それは何故か。理由は沢山あって……
一つ目。街の中心部には、ここよりはるかに大きい市立図書館がある
二つ目。町のはずれ、しかも丘の上の私立図書館は利用には不便
三つ目。置いてある本がマニアック(成瀬さん談)
と、こんな感じなんだけど、私はやっぱり決定的な理由はこれだと思う。
四つ目の理由。
幽霊が出るともっぱらの噂
図書館と隣に建つ住居の屋敷は、大正時代に建てられた洋館というアンティーク度の抜群さ。外観も内装も歴史の重みを受けてかなり雰囲気がある。
だから、丘の上に人目を避ける様に建つ古い洋館――しかもそこには幽霊が……という噂がついてまわれば、避けられるのも納得かな。
実際、私も初めてここを見た時は空気に圧倒されて言葉が出なかったし。
ただの噂でしょ、そう言って笑う人は少なくない。ここに来る利用者の大半が“そう”だ。
彼らは、噂だと思っているからこそ来る。
雨は相変わらず降り続いてた。
微かな雨音が、私の居るカウンターにも届く。
成瀬さんが淹れてくれた紅茶で休憩した私達は、再び午後の静かで暇な時間から逃れる為に、お互いの作業に戻ることにした。
成瀬さんは二階の司書カウンターへ。
私は解読難のリストとにらめっこしながら貸し出しカウンターに。
あまりにも難しい読書のせいで眠気と戦っていたその時だった。
「すみません」
女性の声が頭上でする。
いけない。戦ってた筈がいつの間に負けて居眠りしてたみたい。誰かが来館したのに全く気付かなかった。
はっと我に返った私は顔を上げた。
「………あ」
「【ヴァッサーゴの隻眼】を探してるんです」
目の前には俯いた女性。人が苦手なのか、私とは目を合わさず立っている。
「【ヴァッサーゴの隻眼】を探してるんです」
彼女はもう一度同じ事を言った。
雨の中やってきたその女性は、全身びしょ濡れだった。
「あの……大丈夫ですか? 傘は――」
「…………」
「寒くないですか?」
「…………」
うーん……
無言の女性に、しかたなく館内案内図を取り出してカウンターに広げる。
私がそれを指さすと、女性も長い髪を揺らし近づいてきて案内図を覗き込んだ。
雨の香りが女性からした。……濡れた土の香り。
「二階の一番奥、司書カウンターがありますからここへ。うちの司書がご案内します。すみません、私新人でまだちゃんとご案内出来ないものですから……」
「……二階……司書……」
カウンターの上にパタパタと滴が落ちる。
自分の髪から落ちる水を気にもせず、女性は単語を繰り返した。
「………あの」
その状態で行くつもりなのかな? と私は困ってしまう。
長いスカートからも滴は落ち続け、床だってすでに相当濡れてるっていうのに……図書館中を水浸しにするつもりだろうか、この女性は。
「ちょ、ちょっと待ってください。今タオルを……」
奥の事務室に確かあったはず。
私は女性に声を掛け、タオルを取ろうと事務室へ振り返る。
でも、その瞬間背後で声を聞いた。女性の「二階……」という呟き。
低く抑揚の無い声に背筋が思わずぞっとした私は、慌てて彼女を見た。
女性が、いない。
「……!」
今そこにいたはずの人が消えていた。
それどころか、あんなに濡れていたカウンターや床も濡れていなかった。
まるで時間を巻き戻したかの様にそこは綺麗で、誰か――雨に濡れた女性がいた形跡は全く無く。一分足らずの出来事が奇妙な記憶として私に残る。
ああ……そうか、と奇妙なそれは納得いく理由に変わった。
「また、か……」
脱力した私は椅子に勢いよく背中を預けた。
カウンターから見える階段を見つめて、成瀬さんはどうしてるのかと考える。
あの女性は、私の案内通り彼のところへ行った……?
この図書館には幽霊が出る。
それは単なる噂でしかないはずなのに、実際ここに近寄る人は少数でしかない。
何故か?
多分、みんなは無意識の内に“何か”感じているんだと思う。
ここは怖い
ここは危険
近寄りたくない
そんな感じのものを。
最初私がここを見た時感じた、言葉も出せないほどの圧倒的な重い空気を。
この図書館には幽霊が出る。
噂なんかじゃない。
本当だった。
“彼ら”はここに現れる……――。
私がその目撃者だ。