軍医と弓使い①
◇
その大陸は綺麗な円の形をしていた。
陸の外側では、黒々とした荒波が人々の行き来を拒んでいた。その世界の人々は、畏怖の念を込めて〈憤怒の外海〉と呼んだ。
対して陸地の内側には、真ん中をくり抜くように大きな湖が広がっていた。その世界の人々は、その湖のことを〈慈愛の内海〉と呼んだ。
人々は内海を航路に使ったり、漁の場所にしたりと、様々に利用してきた。
そういった経緯もあってか、大きな街ができやすいのは、この内海に面した地域だった。母親に抱かれた子供が、健やかに育つようなものだ。
リピュアの暮らす街〈栄光の白港〉も、そんな内海の街の一つだ。
それは街というより、小さな国であった。
内海の東の浜に面した、白い建物が立ち並ぶ美しい都市国家だ。
リピュアという妙齢の女性は、その街の領主の娘だった。
彼女は整った顔立ちに、世にも珍しい銀色の髪を持っており、領民からも〈美しい公女〉として知られていた。何より、各地の領主・武芸者たちの間でも名門と謳われている〈六剣学園〉を首席で卒業した剣の腕の持ち主だ。
軍に自らの部隊まで有する彼女には、一種のカリスマ的な魅力が備わっていた。
人々からは、白港の勇者と呼ばれている。
そのリピュアは今、一つの噂に興味と胸騒ぎを覚えていた。
その噂は「外海の方で、人食いの怪物が出現している」というものだ。
最初は「クマか何かの目撃談に尾ひれがついたのだろう」という程度に思っていたが、港を利用する商人たちまでが次々と口にするので、気になっていた。
そのため、リピュアは信頼のおける友人に相談することにした。
「人食いの怪物ですか……」
「本当にいると思うか?」
「さて、聞いている噂だけでは『ありそうにもない』としか」
軍医であり、街医者でもある男〈ドグ〉が、リピュアの質問にそう答えた。
場所はドグの診療所だ。
非常時には軍医である彼だが、平時には一般の領民のために自らの知識と技術を提供していた。物腰の柔らかな紳士であり、医学の知識も飛び抜けていたので、市民からの信頼も厚い男だった。
そのドグからの言葉なので、リピュアの考えも揺らいだ。
「やはり私の気にしすぎだろうか。だが、確かに嫌な予感がするのだ……」
「まぁ、何ごとも断定はできません。実際に現地に行ったわけではないのですから」
「なるほど、現地調査か……」
「なるほどじゃないですよ、リピュア公女殿下。立場をお考え下さい」
「まだ何も言っていないじゃないか」
「いや、言ったじゃないですか、『現地調査か……』と、ご自分で行きたそうな顔で」
ドグは渋い顔をして言った。「ああ、私は下手なことを言った」とも。
彼とリピュアの付き合いは長い。
リピュアが子どもの時代から、ドグはすでに医者であり、彼女の健やかな成長を側で見守り続けてきたのだ。家族同然の長さである。
そのためドグは、住民からは「清廉にして聡明な女傑」と思われているリピュアが、実は結構な御転婆娘であることもすっかり知悉していた。
ドグは診療室の自分の席に座り、リピュアを見る。
彼女は今、患者用のベッドの上でだらしなく足をぶらつかせていた。その顔ときたら、悪戯娘の顔である。「どうやって街を抜け出そうか」と算段しているのが透けて見えた。
ドグは「はぁ」とため息を吐きながら、釘を刺すつもりで言った。
「立場を考えて下さい。貴方は公女です、我が国の宝です」
「三人もいるうちの末っ子で、小さな港街の一つに過ぎんがね」
「貴方は特別です、住民からの人望もある。そして、小さくとも恵まれた土地です」
「髪がへんちくりんな色で、剣の腕が少し立つだけだ。その剣の腕も、活かす場がなければ宝の持ち腐れというものだろう。もちろん、故郷に愛着はあるがね」
「だからといって、自分から危なっかしいことに首を突っ込まんで下さい。貴方が無茶ばかりするから、主治医の私や、御供のアウロラの心労が絶えない。それから、きちんと愛着があるというのなら、それらしい振る舞いをお願い致します。ことあるごとに飛び出そうとしないでいただけますか?」
ドグがたくさん釘を打ったので、リピュアは「わかった、わかった」と頷いた。
ちょうどそのとき、彼らのいる診療室に若い女性が飛び込んで来た。
護衛用の短剣をぶら下げた人物、リピュアの御供である〈アウロラ〉だった。
「ここにいましたか、リピュア様」
アウロラが息を切らした様子でリピュアを見る。次の瞬間、アウロラは深呼吸で呼吸を整えると、ピンッと姿勢を正した。その綺麗な姿勢で、リピュアに詰め寄る。
「外出するたびに私を撒こうとしないで下さい。なんのための護衛だと――」
「ああ~、わかった、わかった」
「いいえ、本当に『わかった』人間は、二度も言いません。それは面倒ごとをやり過ごそうという類のものです。それになんですか、頭の『ああ~』は、だらしのない!」
「うん、本当にわかったから……」
「だいたい、リピュア様はいつもそうやって――」
現れて早々かつ長々とした説教が始まったので、リピュアとドグはいっそ感心したような気持ちでアウロラの文句に聞き入っていた。
リピュアとドグ、二人は口許に手を添えてこっそり会話する。
「よくもあれだけスラスラと説教が出る。私も見習わねば……」
「それだと、私は二倍説教を受けることになってしまう……」
「生活態度を改めるつもりはないのですか……」
「聞こえていますよ、お二人とも!」
二人は「やばっ」と姿勢を正したがすでに遅く、アウロラの説教がより加熱する気配を放ったところで、さらに続けて飛び込み客がやって来た。
ドグは最初、「今日は飛び込み客ばかりだな」と肩を竦めて笑っていたが、その住民の血相を変えた様子を見て、態度を改めた。
ドグは、息の切れている男性に水を一杯差し出して尋ねる。
「何がありました?」
その駆け込みの男性は、ぐいっと水を飲み干すと青い顔で答えた。
「ぎょ、漁港の、浜の方で、死体が、ああっでも、ま、まだ息がある人もッ!」
「わかりました。すぐに向かいましょう」
ドグは救急用の道具一式を鞄に詰めてすぐに診療所を出る。
もちろん、彼の後ろには、リピュアとアウロラの姿もあった。