三叉槍の男③
◇
「ドオオオオオッッッせえええああああッッッ!」
ジュールは土蔵の扉を盾替わりに突進する。
眼前の怪物は、初めて倒した〈ぶくぶく〉とは比べものにならないほど強かった。
顔全体が十字の口と化し、両腕を切れ味鋭い武器として扱う怪物だ。
それの身体は、女性的なシルエットを維持していたが、全身の筋肉は異常に発達したバネのごときものに変わっている。
人間離れした筋肉が生み出す俊敏性は、ネコ科の猛獣のそれであった。
その女性型の怪物は、ジュールの猛烈な突撃をひらりと躱すと、布ともヒレともつかない腕を振るう。ジュールは土蔵の扉で防いだが、その分厚い金属の扉でさえ少しずつ削り取られていた。
このままではいずれ防ぎ切れなくなる。
それは確実だった。
ラーズは地面にへたり込みながら、ジュールの戦いぶりを見て思った。
「あいつ、全然素人やんけ……」
ジュールの戦い方は、正面から突っ込んで、相手の攻撃をギリギリで躱す。
それだけのものだった。
これではまるで特攻だ。
間の取り方も、相手を欺く技術も、まるでなっちゃいない。
槍術に覚えのあるラーズにはすぐに素人だと知れた。
なんとか戦いの体裁をなしているのは、相手の動きを読む目の良さと、怪物にも引けを取らない馬鹿げた身体能力のおかげだろう。残酷な話だが、矮躯が十年鍛えるより、恵まれた身体を持つ素人の方が強いというのは、ままあることだ。
けれど、眼前の怪物は素人がどうこうできる能力を超えている。
そんなことはあの馬鹿にも明らかなはずだった。
恐ろしいはずだ。躊躇うはずだ。
勝てないと、逃げ出そうという考えが、頭を過るはずだった。
それなのになぜ、あいつは戦い続けている。
「あの馬鹿、何を待っとるんや……」
ラーズは疑問に思っていた。
ジュールの戦い方は、おかしかった。
武器を使わないのだ。
彼らの足下には、死んだ僧職たちの剣や槍がある。
しかし、ジュールはそれらを拾おうという素振りすら見せず、削り取られる一方の扉一枚で戦っていた。防ぎ続けて状況が改善するようには見えない。逃げる様子もない。
それなら一体、あの馬鹿は何を待っているのだ。
「ひょっとして、俺のせいなんか……?」
ラーズはその馬鹿の背中を見て思う。
あの男は、こちらの決断を待っているのだ。たぶん、あいつは察している。
眼前の怪物が、自分にとって大切な存在だということを。
自分が今でも、それを失うのを恐れているということも。
あんな怪物になってしまっても、あれを妹として見えている自分のことを、あいつは待っているのだ。一歩間違えば、命を失うこの状況で。
「絶望することが、怪物になる条件やからか……」
あの男はだから満足に戦えないでいる。
殺してしまえば、俺が絶望すると思っているから。
そして、あの男は信じているのだ。
俺が決断を下せると、根拠もなく、こちらの事情も知らなくせに。
無条件で信じているのだ。
俺が、妹に別れを告げられると、そう信じてくれている。
だから、待ち続けることができるのだ。
反撃のときが来るのを――俺が絶望を振り切る、その瞬間を。
「何が勇者や、素人の分際で……」
ラーズは立ち上がり、三叉槍を拾い上げた。
彼の胸には悲しさがあった。大切なものに別れを告げるときの悲しさだ。そして、悲しさを乗り越えられるだけの決意と共に、槍を構えた。
その眼には猛禽の鋭さがあり、その口許には不屈の笑みが浮かんでいた。
「お前が勇者なら、俺は大僧正じゃボケッ!」
ラーズは腰を低く落として、ジュールの脇をすり抜けるように踏み出した。
彼の突き出す三叉槍が、妹の臓腑を抉り、肉と骨を貫き通す。
「キぃぃエエエエエエッッッ!」
ラーズは突き出した勢いのまま、飛び込むように突進した。肩をぶち当てて怪物の身体を突き飛ばすと、民家の壁に槍ごとピン留めしてしまう。
ラーズの顔に怪物の吐血がかかる。
ラーズの頬を涙とも返り血とも判別できないものが伝った。顔は悲壮に歪んだけれど、それでも、悲しみを振り切って彼は叫んだ。
「おいこら勇者ッ、テメェの剣なら腰じゃ!」
「おうとも大僧正ッ、それを待っていたッ!」
ジュールは、ラーズの腰から勇者の剣を引き抜くとすぐに位置を入れ替わった。
入れ替わりの刹那、ジュールとラーズは目と目で意思確認を終えた。
『殺るぞ?』
『構へんわ、殺ってまえ』
ジュールは大上段に剣を振り被り、振り抜いた。
そのひと振りだけは、ラーズも見惚れるほどに美しかった。
愚直ではあるが、迷いのない剣筋だ。
だから、その一撃の後は、美しい少女の亡骸が眠るように横たわっていた。
◇
怪物との激しい戦いの後。
ジュールは寺院に一泊すると、集落で買い物を済ませて旅支度を終えた。
荷物をまとめて、あの年配の僧侶に礼を言ってから寺院を出る。
寺院の門を潜ると、雨季の終わりを予感させる澄み切った空が見えた。あの乳のように濃い霧も晴れている。旅立ちには絶好の天気だろう。
そして、暑い日差しを反射する綺麗な禿頭が、門を出てすぐのところに立っていた。
槍使いの青年、ラーズである。
彼はすっかり泣き腫らした目で、鱗と爪の生えた左手を見下ろしながら、思い詰めた様子でジュールに尋ねた。
「なぁ、教えてくれへんか?」
「おう、なんでも訊くといい」
「お前は、怪物になる条件の一つは、絶望することや言うたやろ。他にもあるんか?」
「ある。というより順序だな。俺が集めてきた話だと、怪物になる人間は、そうなる直前に詐欺にあっている。それもかなり手酷いやり口のようだ。その詐欺を受けて、深く絶望したものたちが、怪物になる。何か身に覚えはあるか?」
「あるわ。妹の足を歩けるようにしちゃるって言われて、随分な額を払わされた。今思うと怪しい話やったけれど、そんときはなんでか、言いくるめられてしもうた」
「どんな人物だった?」
「若い女やったな」
「そうか、また違う外見か……」
「なんや、他の目撃談とは違うんか?」
「ああ、あるときは大男であったり、老婆であったり、今度は若い女か。姿を変えながら人々を欺く存在――差し詰め相手は〈ペテンの魔王〉だな」
「荒唐無稽な話やな。お前はそいつを追っとんのか?」
「ああ、俺は勇者の剣に選ばれた男らしいからな」
「そらまっ、どうかしとるでお前。さては馬鹿やな?」
ラーズは呆れたように笑った。
ジュールも構うものかと笑い返した。
何が面白いわけでもなかったが、二人は競い合うように笑った。
負けず嫌いの馬鹿が、二人いたというだけのことだ。
酷い事件のあとだったが、二人の笑いに釣られて不思議と周囲のものも笑い出した。
寺の掃除をしていた修行僧が、畑仕事中の農夫が、通りを歩く集落の人々が、微かな笑みを浮かべる。もちろん、不謹慎だと憤るものもいたし、途惑うばかりの人もいた。
ただ、絶望しているものはいなかった。
笑うか、怒るか、途惑うか、そんな人々がいた。
それはまぁ、どこにでもあるような平和な光景だった。
一通り笑い終えると、ジュールは肩を揺すって荷物を背負いなおした。
「さて、それじゃあな」
そう別れを告げて、ジュールは集落の外に向かう。
しかし、ラーズはジュールの隣を並んで歩いた。
ジュールが眉を上げると、ラーズは肩に担いだ三叉槍を揺すって言った。
「手伝っちゃる、暇じゃし」
「そうか、そいつは助かる」
二人の男はぶっきら棒に笑い、次第に爆ぜるような笑い声を上げた。お互いの肩をバシバシ叩き合い、罵り合いながら、彼らは集落を出て次の村を目指す。
そうして、ジュールとラーズは〈ペテンの魔王〉を探しながら、怪物と戦った。
やたらと騒がしい二人組の噂は、じわじわと近隣の村々に広がっていった。
怪物を倒して回る、陽気で騒がしい二人の男。
怪物に対する恐怖で疑心暗鬼を起こしていた村々にとって、彼らの噂は一つの希望へと育ちつつあった。そして、その内の一人が〈勇者の剣〉を持っていることにちなんで、彼らはいつしか〈勇者一行〉と囁かれるようになっていった。