多重記憶の男
◇
その日、白港に漂着した人物は、痩せこけた男性だった。
「おそらくは監獄島の囚人でしょう」
漂着者を白港の病院に連れ込んだボウエイが、待合室にいたジュールとリピュア、それからエルンに説明した。
ジュールは聞き慣れない単語に「なんだそれは?」と訊き返す。
「勇者様は外海寄りのご出身でしたものね。内海に面している地域だと、犯罪者を内海の孤島に収監する場合があるんです。彼はその一つ、黒港の監獄島に収監されていたようです」
「彼と話ができたのか?」
「ええ。ただ、かなり混乱している様子でした。自分の名前もわからないようで、監獄島の囚人というのも、焼き印が施されていたのでわかったのです」
「記憶喪失ということか?」
上着を羽織ったリピュアがそう確認すると、ボウエイは「いや、それが……」と歯切れの悪い返事をした。彼にしては珍しいことだ。
ボウエイは表現に迷うように口もとに手を添えて考え込むと、しばらくして「事実はその逆なのです」と答えた。
ジュールとリピュアが怪訝な顔をし、エルンがきょとんと首を傾げた。
「記憶喪失の逆って何です?」
「彼の話を信じるなら、彼は三人分の記憶を持っているようなのです」
ボウエイ曰く、漂着した人物は「自分の名前が思い出せない」のではなく、「自分の名前がどれかわからない」のだという。
三人分の人生の記憶が、等しく頭の中にある。
だから、自分がどの人物かわからない。
記憶喪失の逆――多重記憶とでも呼べばいいのだろうか。
「漂流した影響で、混乱しているだけだと思うのですが」
「そうだといいが――」
ジュールがそう言いかけたところで、病室から「やめてくれええええええ!」という絶叫が聞こえてきた。
四人が何ごとかと病室に顔を出すと、多重記憶を持つという男性が医師にしがみついて懇願している。男医の白衣を握り締め、引き倒しかねない勢いだ。
ジュールは落ち着いて男性を引き剥がし、医師に「何があった?」と尋ねた。
「いや、それが――」
「いやだああああああああ! 命がけで逃げて来たんだ! 俺を黒港に連れて行かないでくれえええ! それなら監獄に送り返された方がマシだ! いや、アイツがいないところならどこでもいいからッ!」
多重記憶の男性は、今度はジュールにしがみついて涙ながらに頼み込んだ。
ジュールは右腕で男性の首根っこを掴むと、半狂乱で暴れる男性を観察した。その怯えぶりは演技に見えない。そもそも、無事に漂着したのも偶然の産物だ。命がけで逃げたという言葉には信ぴょう性がある。
ジュールは再び医師の方を向き直って問う。
「どうしてこの男性はこうも怯えているんだ?」
「わ、わかりません。私はただ『自分はこれからどうなるんだ?』と訊かれたので、治療して健康になれば、管轄である黒港に送るだろう、と」
「アイツって誰ですか? そんなに怖い人なのですか?」
ジュールが医師に尋ねていると、エルンがちょこんと男性の前に座っていた。場違いなくらい呑気な雰囲気のエルンに、その男性は虚を突かれたように黙り込み、その後で少し冷静になって答えた。
「ア、アイツは、俺と同じ監獄にいたんだ……」
「黒港の囚人さんなのですね。でも、監獄にいるのなら、監獄に送り返された方が嫌じゃないです? だって、その人は監獄にいるのでしょう?」
「い、いや、アイツは監獄島を出たんだ。アイツは看守の頭を掴んで、今の俺のようにしたんだ。みんな自分が誰だかわかんないみたくなって、アイツは俺たちを奴隷のように。俺たちはアイツに連れられて島を出て、黒港に連れて行かれる途中だった。だだだ、だけど、俺はそれから逃げたんだ。アイツは……アイツの名前は……」
エルンに話すに従い、男性の手が少しずつ震えていく。目の前にいない誰かの叱責を恐れていたのだ。
エルンは怖がる子どもをあやすようにその男性の頭を撫でた。
「怖かったらそれ以上は大丈夫ですよぅ」
「……ギヴァーだ」
男性は過呼吸寸前の顔で、泣きそうになりながらエルンに微笑んだ。
そして、肺の空気を絞り出すように続けた。
「三賢者の魔法使い――そう言っていたよ、お嬢ちゃん」
◇
ジュールは城の客室で旅支度を終えると、勇者の剣をいつものように背中にかけた。そのとき、ちょうど客室の戸を開けてエルンが顔を出す。
ジュールは振り返ってエルンに尋ねた。
「聖剣たちの管理、もう引き継げたのか?」
「はい、あとはボウエイさんに任せました」
ジュールとエルンが回収した聖剣は、白港の蔵を一つ借りて、ボウエイたちに管理してもらっていた。聖剣はそれぞれが異なった性質を持つ関係上、一本ごとに管理方法が異なるのだ。エルンはそれぞれの説明書きを作って、ボウエイたちに引き継いでいた。
「ジュールさんこそ、準備はできたんですか?」
「ご覧の通りだ」
ジュールは背負った剣を揺すって言う。
彼らはこれから巨壁の黒港を目指すのだ。理由は決まっている。三人分の記憶を持つ男性が口にした「魔法使い」を追うためだ。
ギヴァーという囚人が本当に三賢者の魔法使いなら、ジュールの宿敵〈虚偽の悪神〉に連なる存在だ。
何が目的かはわからないが、安穏と見過ごすわけにいかない相手である。
『虚偽の悪神と同時代の人物なら、とっくの昔に死んじゃってるはずなんですけどねぇ……』
エルンはそう語ったが、ジュールは自分の目で見るまで判断を保留している。
第一その虚偽の悪神がこの冬まで大暴れしていたのだ。
ジュールが今思うことは一つ。
「あの絶望を二度も許してはならない」
それが勇者を背負う彼の芯だ。
勇者になるという、親友との誓い。
それを果たした先の、勇者としての使命だった。
あの大僧正との約束だ。
ジュールにとっては今も、彼との縁こそが何ものにも代えられない至宝だった。
だから、何よりも優先して動く。
ジュールはエルンと共に客室を後にすると、出立を告げるためにリピュアの執務室を訪れた。旅支度を終えたジュールを見ると、リピュアは一瞬不安そうに瞳を揺らしたが、すぐに動揺を押し殺して取り澄ました。
彼女は自分もついていきたいのを懸命に堪え、精一杯背筋を伸ばして言った。
「ご武運を、ジュールさん」
リピュアが不安なのは、これが二度目だからだ。
あの夏の始まりの日。
浜に流れ着いた負傷者の話を聞いて、彼女は親しかったものたちを旅に送り出した。アウロラとドグだ。
その二人の末路は、ジュールに教えてもらった。
家族のように見守ってくれた医師と、自分を慕ってくれた友人が、ジュールに倒されるまで絶望の限りをばらまいた。そして、二度と会うことは叶わなかった。
リピュアはそれが怖かった。
ジュールなら大丈夫だという信頼はあるが、その上で失うことを恐れていた。
そんな不安を押し殺している彼女に気づいたんだか、気づいていないんだか、ジュールはツカツカと距離を詰める。
一足一刀の間合いからさらに踏み込み、リピュアをぎゅっと抱き締めた。
「えっ……」
リピュアは呆気に取られてぱちくり瞬きする。
ジュールは腕を解いて彼女の両肩に手をかけると、いつもの笑みを浮かべた。
「うやむやにするつもりはない。必ず戻って返答する」
ジュールはそれだけ言ってしまうと、「行くぞエルン」と踵を返した。「あらあら、ジュールさんも大胆なことしますねぇ」とにやけているエルンを引き連れて、ツカツカと執務室の扉に向かい、振り返りもせず退室した。
「~~~~~~~~ッ!」
ジュールの姿が見えなくなると、リピュアはようやく状況と言葉の意味を理解し、顔を真っ赤に染めて執務室のカーペットにへたり込んでしまった。




