約束と海②
◇
白港の夏が来た。
雲一つない青空の中で燦燦と輝く太陽が、白い砂浜を照らしている。
海は冬の厳しい表情とは打って変わり、透明度の高いエメラルドブルーの水面は夏の日差しを受けてキラキラと波打ち、どこかはしゃいでいるように見えた。
「ついに、このときが、きた……」
ジュールは上半身裸で波打ち際に立った。
壮絶な覚悟を決めた顔をしている。
その斜め後ろにいるエルンは、ワンピース風の水着姿になっていた。そして、ジュールの腹の括りっぷりに、ちょっと呆れ顔をしている。
「ジュールさん、悪神のときより気負った顔してません?」
「悪神は死ぬまで斬ってやればよかったが、海はそうもいかないからな……」
「いつものことながら、難易度のつけ方おかしいですよぅ」
「そういえば、エルンは泳げるのか?」
「ふふっ、私の華麗な犬かきに恐れおののくとよいです!」
エルンは平らな胸をデンと突き出して言った。
そこにサラマンがやってきた。
彼も南国流行りらしい短パンスタイルの水着姿だ。
ジュールとは虚偽の悪神事件の際に縁ができており、聖剣の一本を預かっていたジュールの勇士の一人だ。白港に居着いている経緯はすでに説明済みだった。
伊達男のサラマンは「あれ、閣下は?」とジュールに並んで周囲を見渡す。
「おう、サラマン。いや、まだ見ていないな。今日は公務を休めると言っていたのだが」
「あの閣下、土壇場でビビったか……?」
「どういうことだ? リピュアは泳ぎが得意なのだろう?」
「乙女の純情というやつだよ、勇者殿」
そう言うと、サラマンは意地の悪い顔で「ふふふっ」と笑った。
ジュールがエルンに向かって「純情とはなんだ?」と尋ねたり、エルンが「それより私の犬かきに興味を持て」と怒ったりしていると、海辺に集まっていた出店や海水浴客たちがガヤガヤと騒めき始めた。
ジュールとエルンは騒ぎの方に顔を向ける。
すると、人混みを割って、水着姿のリピュアがやって来た。
「おおぉ……」
「ひょえ……」
ジュールは感嘆し、エルンは呆気に取られた。
リピュアの水着は他の海水浴客のものとやや趣が異なっていたのだ。他のものたちが普段着と大差ない露出の中、リピュアの水着は腰布と胸元を隠す布があるだけで、満天下に二の腕や腰を出している。
いわゆるビキニスタイルだ。
サラマンが「あれは綺羅港風なんだ」と訊かれてもないのに説明した。
けれど、ジュールは大胆に露出された腰や太ももの白さにぽかんと口を開き、説明なんて聞こえちゃいなかった。見てはいけないものを見ているような気がしたが、同時に目を逸らすのも失礼だろうと葛藤しつつ、結局のところ、じろじろと凝視している。
リピュアはここに来るまでに覚悟を決めてきたらしく、鋼の意思でなんでもない顔を取り繕っていた。周囲のどよめきや歓声には一切の動揺を見せず、「この程度の装い、普段着と大差ありませんが何か?」とでも言いそうなくらい平静な顔をしている。
リピュアはジュールの前に立ち、表情を崩さずに言った。
「お待たせしました、ジュールさん」
「お、おう。いや、待ってはいない」
「それはよかった。では、泳ぎの練習を始めましょう」
「その前になんだ、その、ええっとだな――」
ジュールは洒落た言葉を弄するのが得意ではなかった。
「めちゃくちゃ綺麗だ」
だから、馬鹿正直にそう言った。
女たらしのサラマンもびっくりするほどの率直さである。無駄な飾りがない分、虚飾のない称賛だというのがよく伝わったが、その結果、リピュアに直撃した。
「~~~~~~~~ッ!」
リピュアの鋼の意思で作られた心理装甲は、超正攻法で呆気なくぶち抜かれて、彼女は白い砂浜に蹲って真っ赤になった顔を両手で覆うハメになった。
エルンは、「この姫あざとい! 商業的なほどに!」と大きな声で主張した。
◇
「はい! 気を取り直して水泳教室の時間です!」
三分ほど砂浜に蹲り、心理装甲を纏い直したリピュアはそう宣言した。
けれど、砂浜に椅子を持ち出して優雅に寝そべっていた双子姫のアネットとジゼルが、即座に茶々を入れた。
「気を取り直していたのは貴女だけじゃなかったかしら?」
「恥ずかし悶えていたのは貴女だけじゃなかったかしら?」
「水泳教室の時間です!」
「強行突破したわよ」
「強行突破したわね」
リピュアは姉二人の茶々を鋼の意思で強行突破した。が、顔はやや赤かった。
水泳教室の参加者ジュールは「おう!」と拳を突き上げ、その隣のセンチも「おう!」とジュールを真似して拳を突き上げる。すると、同じように小さな拳がぽこぽこと空に向かって突き出された。養育院の子どもたちも水泳教室に参加しているのだ。
エルンは子どもたちの列の後ろから水泳教室の様子を見ており、サラマンは双子姫の間で歯の浮くような台詞を並べている。他にもボウエイや数名の護衛たちが事故防止のライフセーバーをやっていたり、久しぶりに街に顔を出した領主&勇者を見ようと白港の住民が通りかかったりと、海辺は大変な賑わいになっていた。
「まずはペアを作って、水に慣れるところから始めましょう」
ジュールや養育院の子どもたちは海に顔をつけたり、水の掛け合いっこをしたり、リピュアの指示に従ってまずは水遊びをした。
その子どもたちの間を犬かきのエルンが、無駄な優雅さで通り抜けていく。
「次は海面に浮いてみましょう」
リピュアは子どもたちの間を回って身体の力を抜くように教えていく。
すると、センチがリピュアの手を引いて言った。
「リピュア、ジュールが沈む」
「それはいけない。ジュールさんは今どちらに?」
「下にいるよ」
「下というのは――きゃあ!」
リピュアが足下を見ると、エメラルドブルーの海の底にジュールが横たわっていた。ジュールはガバッと海面に顔を出すと、「完全に沈む……」と呟いた。
「だ、大丈夫です。私が手取り足取り指導しますからッ!」
と、リピュアが付きっ切りで指導してみても、怪物化している右腕が重石になっているせいか、必ず右腕から沈んでいった。センチが「ね?」とリピュアを見つめて言う。
「バタ足とか、腕で掻いたりすれば……」
リピュアはジュールの手を引いてバタ足をさせたり、腕の掻き方を教えたり、いろいろ試してみたが、彼女が手を離すと十秒と持たずにジュールは水底へと沈んでいった。
他の子どもたちも「勇者が沈む」「浮く気配がない」「見事な金槌」「もはや錨」と口々に勇者の有り様を表現する。
エルンはゲラゲラ笑いながら、煽るようにジュールの周りを犬かきで泳いだ。いい根性していた。
「エルン、お前というヤツは……」
「ふははははっ、悔しければ追いかけてくればいいのです! まぁ、エルンちゃんの華麗な犬かきの前では徒労でしょうけどねっ!」
高速犬かきを披露するエルンを見て、リピュアは残念な子を見る目で訊いた。
「ジュールさん、辞書乙女さんはいつもあんな感じなのですか?」
「だいたいあんな感じだ」
「お、大人げない方だ……」
「ジュール、追いかけないの?」
センチが高速犬かき娘の水飛沫を指差して言う。
ジュールは「無論、追いかける」と同じく高速犬かきで追いかけた。エルンの倍近い水飛沫を立てて突き進むさまは、犬というより熊だった。というか、散々教えてもらったリピュアの方法で泳げなかったくせに、犬かきだと泳げているのが不思議だ。
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」
「なっ、泳げてるですとぅ!? というか、チビッコーズまで引き連れてやがりますッ!!」
エルンが振り返ると、子どもたちまでエルンを追いかけていた。
エルンがバシャバシャ逃げると、子どもたちは「追い込み漁だ!」「回り込め!」「袋の鼠だ!」「簀巻きにしてやる!」と楽しそうに追いかけ回す。
後半になるとジュールそっちのけで、エルン対チビッコーズの戦いへと変わっていた。
同時にセンチは、今度こそ〈仲間〉のカテゴリーにエルンを加える。
ジュールとリピュアは、水泳教室の主旨が見事にぶっ壊されているのを見ながら、「子どもたちが楽しそうだからいいか」と苦笑いを浮かべ合った。




