魔剣マフィア②
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イグルーは人気のない通路を走り抜ける。
本当に見張りが誰もいない。
イグルーは走りながら自問する。
こちらの作戦が漏れていた。だが、それでいて踏み込まれるのを待ったのはなぜだ。密告者がいたのなら、作戦の開始前に潰されなかったのはなぜだ。
どうして泳がされた。
自分は今、どんな罠の上を走っているんだ。
答えが出ないまま、イグルーは目的の部屋の前に着いた。マルフィアの私室だ。調べによると、マルフィアは私室に籠り、ここから配下に指示を出しているはずだった。
イグルーは部屋の前で一瞬ためらった。
廊下で死んだ仲間たちの姿が脳裏を過ぎる。挽肉状の最後だ。
中庭にいた三人のように、待ち伏せしている可能性はある。魔剣マフィアを自称するような連中だ。聖剣を何本持っているか、わかったものではない。
イグルーは外套の下でクグルイカンを握り締める。
生物以外を透過し、武器や防具では受け止められない〈防御不能〉の聖剣。
奇襲として使えば、素人でも達人に匹敵できるだろう。
そして、イグルーは素人ではない。
剣の名門と謳われる〈六剣学園〉の出身者だ。
(どんな罠だろうと、誰が待ち受けていようと、正面から斬り伏せればッ……)
イグルーは、聖剣が与えてくれる全能感に自分から酔い、酔った勢いが醒めてしまう前に動き出した。ドアノブを掴むと同時に蹴り破るように開け放つ。
「ノックにしては乱暴だな。それに中からの応答を待つものだぞ」
イグルーが踏み込むと、貫禄のある女が言った。「来客としては失格だ」と。
「では、襲撃者としては正解でしょうか?」
イグルーはクグルイカンを握り締め、皮肉を返しながら室内の状況を見極める。
広い部屋の真ん中に、部屋の大部分を占める十人掛けほどの長テーブルがある。
声を発したのは、その長テーブルに肘をついている女だ。彼女の顔には、両目を縁取る刺青のような痣があった。
その〈咎人の証〉を持つ女こそが、マルフィアだ。
そして、マルフィアの背後には男女が一人ずつ立っていた。
女の方は、下がり眉の美女だ。マルフィアの秘書だろうか。
もう一人の男は、右目に眼帯をしていた。残された左目に精気はなく、けれど、その立ち姿からは長い修練の跡が垣間見えた。間違いなく手練れの剣士だ。
イグルーはその眼帯の男に見覚えがあった。
嘲りを含んだ声で男の名前を呼ぶ。
「貴方は〈ダグファイア〉じゃありませんか?」
「ダグファイア? なんだ、それがお前の本名なのか、負け犬?」
マルフィアは背後を振り返って、眼帯の男に問いかける。
眼帯の男はどちらの問いにも応答せず、イグルーを見据えて尋ねた。
「どこかで会ったか?」
「負け犬とは、随分と素敵な名前になりましたね。後輩女子に負けて学園を去った貴方には似合いの名前ですが」
「そうか、六剣の関係者か」
ダグファイアは、眼帯の上から潰された右目を押さえる。
その表情に怒りや憎しみといった激情の残滓はない。残された左目に宿るのは、諦念と妥協だ。
絶望に長く身を浸したものに特有の擦り切れた眼差しをしている。
誇りも理想も失くした人間の目だ。
イグルーは、瞬時に「勝てる」と踏んだ。
マルフィアは椅子に深く腰掛けて無防備だ。
秘書風の女は戦闘要員には見えない。
そして、唯一の障害であるダグファイアにかつての面影はなかった。
矜持を失い、怒りや憎しみといった強い情動すら忘れている。
イグルーはそういった人間が弱いことを知っていた。
人間の身体を動かす原動力は、思考ではない。思考や技術は出力方法に過ぎない。その前段階として、身体を突き動かすのは感情だ。
この点に関しては、獣と変わらない。飢餓感、憎悪、怒り、矜持、強い自負。そういった原動力があって初めて技術が活きてくる。
イグルーの知るその最たる例が、あの勇者ジュールだ。
ジュールは「自分こそが勇者だ」という自負心と使命感を持った男だった。
自分こそが世界を救うという馬鹿げた妄想を心の底から信じて、しかも、その馬鹿げた妄想を周囲の人間にまで信じ込ませるほどの強力な思い込みだ。一種の宗教じみたその自負を原動力に変えられたからこそ、あの男にはあらゆる絶望を打ち砕く勢いがあった。
そして、眼前のダグファイアはその対極にいる。
まるで死人の心だ。
心が死んでいるのでは、どんな技術も宝の持ち腐れだ。
イグルーは黒い外套を脱ぎ捨てて、クグルイカンを右手に構える。長テーブルを回り込みながらジリジリと距離を詰めていく。視線はダグファイアから外さない。
だから気づかない。
長テーブルの下に潜んでいた、第四の影に。
「――噛み殺せ、レッド」
ダグファイアが、眉一つ動かさずに命じた。
次の瞬間、イグルーの右腕に猟犬が喰らいついていた。イグルーは痛みに目を細めながら瞬時に対応した。クグルイカンを左手に持ち替えて、すぐに猟犬を始末しようとする。
だが、猟犬に意識を逸らしたのがまずかった。
視線を切った瞬間、ダグファイアはまるで機械仕掛けのように正確に動いていた。流れるように放たれた棒手裏剣が、イグルーの右目に突き刺さる。
そして、棒手裏剣を投げると同時にダグファイアは一息に間合いを詰めていた。いつの間にか抜刀していた反りのある剣。それをイグルーの喉首に振り抜く。
ダグファイアの投擲から抜刀、攻撃までの一連の流れはかつてのそれと同じだ。
その昔、リピュアという後輩と立ち合い、無様に負けたとき変わらない。
衰えていないが、成長もしていない。それが〈二流の剣士〉である彼の限界だ。
だが、十分に鋭い太刀筋だった。
猟犬に右腕を噛みつかれ、右目に棒手裏剣の刺さったイグルーは、それでも咄嗟にその一太刀を受け止めようとした。
しかし、彼が今手にしている剣はクグルイカンだ。
「あっ……」
イグルーも一手遅れて気づく。
クグルイカンは生物以外を透過する〈防御不能〉の性質を持っている。
そして、それは逆の場合でも同じなのだ。
相手の攻撃を防御することができない。
自分から攻めているときは無類の強さを発揮するが、相手から攻め込まれるとその分だけ脆い。
クグルイカンは、長所と短所が背中合わせの聖剣だった。
ダグファイアの振るった一太刀は、クグルイカンをすり抜けてイグルーの喉もとを綺麗に斬り裂いた。
イグルーは首から血を吹き出し、ぐらっとその場に膝を突く。
ダグファイアは、勝利の興奮とは無縁の精気のない目をしていた。
「ごぼっ……ごぼおおっ!」
「目に重きを置きすぎたな……」
自嘲するように呟くと、ダグファイアは心臓にダメ押しの一撃を入れた。




