三叉槍の男②
◇
そのころ、ジュールは土蔵の中で胡坐を掻いていた。胡坐を掻きながら、「さてどうしたもんかな?」と考えている。
今までの村でも歓待された試しはなかったが、いきなり捕まることもなかった。
「はぁ、とりあえず……ふんっ!」
ジュールは、縛られた両腕を引っ張ってみる。腕を縛っている縄は、年代物なのか解れている箇所があった。そのせいか、意外とあっさり引き千切れた。
それにしたっておかしな怪力ではあったが。
ジュールは立ち上がり、土蔵を閉じている金属の扉に歩み寄る。確認の意味を込めて、軽く肩をぶつけてみた。かなり厚い扉のようだった。
こちらは少し手こずりそうだなと思ったところで、急に扉が開いた。
「おや、脱獄の最中でしたかな?」
年配の僧侶が、苦笑いを浮かべて言う。
ジュールは両腕を後ろ手に隠して、「そんなことはない」と言った。あまりにも下手すぎる誤魔化しぶりに、その僧侶は景気よく笑った。「嘘の吐けない人だ」とも。
「いやいや、隠されずともよいのです。こちらこそ、弟子が失礼をしました。あれらは今いささか気が立っておりますからな。お詫びと言ってはなんですが、どうです、うちの畑で採れた野菜でも?」
そう言って、僧侶は真っ赤な果実を差し出した。
ジュールは「これはどうも」と受け取って豪快に齧り付く。それからジュールと僧侶は、ぽつぽつと土蔵の中で言葉を交わした。
「そうですか、貴方の故郷でも同じような怪物が……」
「俺の故郷だけではない。出立したのは冬だったが、ここに来るまでにも片手で収まらない数の怪物が、各地の村々に現れていた。小さな村の自警団では、太刀打ちできないような相手も多い。大きな街の軍隊が動いていないのが、不思議なくらいだ」
「それは難しいでしょうな。今はまだ、村人の戯言と受け取られかねない。それに倒してしまえば、普通の人間に戻ってしまうのでしょう。証拠の出しようもない。まぁ、もっと被害が拡大すれば、さすがに無視できなくなるのでしょうが……」
「無視できないほどの被害が出てからでは遅い。悲劇は現在進行形で起きている」
「ゆえに貴方は旅をしている、ですか。いやはや、お若いのに立派な方だ」
年配の僧侶は、茶化した風でもなくそう言って、手にした竹筒を傾けた。
ジュールにも竹筒を差し出す。受け取って飲んでみると、意外なことにそれは酒であった。
「貴方たちの戒律は、酒を禁じていないのだな」
「いやいや、内緒で飲んでいるのです。だから、内緒にしてください」
「嘘を吐くのは苦手だが、善処しましょう」
「黙っていればよいのです、嘘にはならない」
「坊主がそれでよいのだろうか?」
ジュールが苦笑いで訊くと、僧侶は「息抜きは誰にも必要です」と嘯いて美味そうに酒を煽った。その飲みっぷりがあまりにいいので、ジュールも笑って酒を飲んだ。
その僧侶は、ぷはっと口許を拭うと、突然何かを憐れむような目で天井を見た。
「あの若者にも、何かしら息抜きがあればよかったのですが……」
「あの若者とは、先ほどの槍使いでしょうか?」
「そうです、ツンツンしていたでしょう?」
「下手に動いたら殺されるかと思いました」
「面目ない限りです。あれの心には余裕がない。だから、あれほどに張り詰める。張り詰めた心は確かに鋭いが、同時に脆いものなのです」
「何がそうまで、あのツンツンを追い詰めているのでしょう」
「妹ですな。あれには身体の弱い妹がおりまして。彼女の身を案じて、あれは笑う余裕すらなくしてしまっている。本当なら、あの子のことを思えばこそ、あれは笑わねばならないはずだろうになぁ……」
「妹ですか」
ジュールはふと故郷の幼馴染のことを思う。
自分は救えなかった、自分が殺してしまった、兄妹同然だった娘のことだ。
僧侶は「おっと、貴方の顔まで曇らせてしまいましたな」と禿頭を掻き、よいしょと立ち上がった。彼はいくつか食べ物と飲み物を置いて、土蔵の外に出る。
僧侶はジュールを振り返って言った。
「とりあえず、今日はここでお休みになるといい。ここなら怪物にも襲われますまい」
「貴方たちだけで大丈夫か?」
「あのツンツン、余裕はないですが、滅法強いのも事実です。それに我が寺院には、他にも武芸に秀でたものがおります。今日は休まれよ、旅の御方。貴方の救いを必要としているものは、この先にまだまだおりましょう」
僧侶はそう言って、再び土蔵の扉を閉めた。
ジュールはごろりと横になって、あの槍使いの一部の隙もない構えを思い浮かべた。
どれほど鍛錬を積めば、あのようになれるのだろう、と。
◇
夕方からずっと小雨が降り続いていた。
その夜、ラーズや寺院の僧職たちは、集落の見回りに当たっていた。
怪物による人食い事件は、すでに四件にも及んでいる。昨夜に至っては、槍を持った僧職まで食い殺されていた。「今夜こそケリをつける」と、僧職たちも息巻いている。
その中でも、ラーズは誰より鋭く殺気立っていた。
(妹が怪物の脅威に晒される前に、なんとしても始末をつける……)
そう思って、編み笠を目深に被り、虚空に向かって鋭い眼光を飛ばす。三叉槍を握る手にも力が籠った。
そして、妹のことを思っていたからだろう。
彼の足は、見回りのコースからやや外れて、彼ら兄妹の家の方へと向かっていた。
そのせいで、ラーズは妹の夜歩きを見つけてしまった。
「あら、兄さん?」
足が萎えて満足に歩けないはずの妹が、家の前に立っていた。
ちょうど今帰ってきたような様子で、ドアの取っ手に指をかけている。
彼女もラーズに気づいて、微笑みを浮かべて振り返っていた。疎らに降る小雨の中、雲の隙間から星明りが射していたのか、彼女の微笑みは不思議とよく見えた。
その微笑みは、いつもより憂いのない、晴れ晴れとしたものだった。
ラーズがずっと待ち望んでいたはずの笑みだ。
けれど、ラーズは凍り付いた。
妹の口許が笑えないほどの血に濡れていたから。
「嫌だわ、兄さん。今の時間、兄さんの持ち場はここではないでしょう?」
妹は天真爛漫な少女のように笑い、そう言った。
確かにラーズは見回りの時間や順路を妹に教えていたのだ。
「こうなっちゃったらもう、食べるしかないじゃない……」
妹の姿をしたものが、妹なら口にするはずのない言葉を吐いた。
そして、その顔がバックリと十字に割れた。
ラーズは生まれて初めて絶叫した。自分の心が折れる音を聞いた。
その叫び声を聞いて、近くを巡回中だった仲間たちがすぐに駆け付ける。
「どうした新入りッ、なあっ、こいつが人食いかッ!」
僧職たちはにわかに武器を構えた。
しかし、その槍や剣を持った両腕は、次の瞬間には輪切りにされていた。
ラーズの妹であった怪物の仕業だ。
怪物の両腕は、薄い布のようなものに変質していた。
その変質した腕を高速で振り回すことで、鋭い刃と化したのだ。その布の腕は、ちょうど紙の端で指先を切るように――僧職たちの身体を八つ裂きにしていく。
ラーズは膝を着き、茫然自失の状態でそれを見た。
妹であったものが、仲間たちを虐殺していく光景を見た。ラーズの信仰心が音を立てて崩れて、彼から生きる目的まで失われていった。
「絶望するのはその辺りにしておけ。お前まで怪物になるつもりか」
ラーズには聞きなれない声だった。
見ると、自分の横に見慣れない男が立っている。
その男は、ベコベコにへこんだ扉の片割れを抱えていた。あの馬鹿を閉じ込めていたはずの土蔵の扉だった。
「お前、それ……どう、やって……?」
ジュールはその質問には答えず、ラーズの左手を指さした。
ラーズは自分の左手を見て、少しの間、それが何なのか考えた。鱗が生えていて、鋭い爪があって、まるで人間の手ではないようだった。
あまりにも突拍子がなかったので、ラーズは他人ごとのように呟いた。
「なんやこれ?」
「絶望することが、怪物になる一つの条件のようだ。お前は今、絶望しているな?」
ジュールは眼前の怪物から目を逸らさずに言った。
ラーズは顔を上げて、目の前の妹だったものを見る。確かにそこに絶望があった。
ジュールはベコベコにへこんだ土蔵の扉を構えて言った。
「絶望することはない」
ジュールは、襲い来る怪物の両腕を分厚い扉で防ぎながら続ける。
「そこで見ていろ、俺は勇者のジュールだ」
それ以上の説明は不要とばかりに、ジュールは怪物に挑みかかった。