汚れ屋①
◆
綺麗な円形をした大陸、その陸地の北北西に〈巨壁の黒港〉はある。
街の南方は内海に接し、北方には亜寒帯の農地が広がり、西面には陸地を横断するほどに長い壁があった。その壁より向こうは禁足地とされており、そこから先に人里はないとされている。
北部最果ての街。
内海に面した小国。
そして、かつて組織犯罪集団が支配した街だ。
暴力と金が支配した暗黒時代――一匹狼の傭兵〈大槌のガナルカン〉の采配によりその犯罪集団は解体され、一度は民主的な議会が街の実権を握っていた。
しかし、その新しい統治は長続きしなかった。大槌のガナルカンが青年レイオンと共に街を去り、その後の冬にあの忌まわしき事件が待っていたからだ。
虚偽の悪神事件。
怪物が人里を襲い、絶望した人々が怪物になる、未曾有の大災害。
産声を上げたばかりの統治体制は、前例のない危難に対処し切れなかった。街が生き延びるためには、犠牲が伴う決断を瞬時に下し、断行できる強い指導者が必要だった。リーダーシップを発揮できる強い個人が必要だったのだ。
その指導者が、いつか独裁者になるとわかっていても。
黒港はどうにか冬を乗り越えた。
その先に待っていたのは、かつての暗黒時代の再来だったけれど。
◆
ルクス少年にとって、生まれてからの十五年は苦痛だった。
母親は元娼婦の薬物依存症で、実父には会った記憶がなく、義父になった男からはしこたま殴られて育った。家庭環境は劣悪の限りだった。
ルクスは、ドブさらいに皮剥ぎ、汚物汲み、賤業と呼ばれるものには粗方手を出した。そうやって得た稼ぎも、母親と義父にほとんど搾取されていた。生きるために空き巣やスリなどの犯罪行為にも手を染めた。
気づけば、汚れ仕事ばかり回されるようになっていた。
付いたあだ名が、汚れ屋。
黒港の貧民街の、最底辺のゴミ溜めのようなところが彼のホームグラウンドだ。
救いの手を差し伸べる大人はいなかった。生まれつきルクスの左頬には、〈咎人の証〉と呼ばれる刺青のような痣があったからだ。鱗模様のその痣のせいで養育院などに逃げ込むこともできなかった。
ルクスは通り一本隔てた向こう側の明るい家族たちの生活を眺めながら、貧困と暴力と侮蔑に塗れて育った。通り一本の距離が、決して縮まらないことを学んだ。
初めから絶望の外側に立ったことのない少年。
それが巨壁の黒港に住む、十五歳の少年ルクスだった。
◆
「おい……おい、汚れ屋っ!」
夏も間近に迫ったある日、ルクスがドブ川沿いの橋の下で眠っていると、誰かに脇腹を蹴って起こされた。ルクスは黒ずんだ石畳から身体を起こし、迷惑そうに目を開ける。
見れば、客引きのタットルがいた。
客引きといっても、ルクスの客を取って来るのではない。娼館の前で女を買いたい男に声をかけるのがタットルの仕事だ。
ルクスとは同年代だが、栄養不足で背の低いルクスに比べると、いくぶんかマシな体格をしていた。というより、貧民街の育ちにしては太っている。その体型と客の情事を盗み見る悪癖から陰では出歯亀と呼ばれている少年だ。そして、体型で優っている分、ルクスよりも腕っぷしは強かった。
ルクスは喧嘩で勝てないとわかっているので、舌打ちだけで文句を抑えた。
「チッ、なんか用かよ……?」
「用もなしでテメェに声かけるかよ、ボケ」
「用件を切り出しやすいように振ってやったんだろ。ちょっとは察して喋ろよ」
「んだとこのボケ!」
「ボケ以外の悪態が吐けないのか、デブ」
「下手に出てりゃあ付け上がりやがってこのボケがッ!」
「お前がいつ下手に出たんだ、ああん?」
喧嘩で勝てようが勝てまいが、こうなると関係なかった。
沸点がこの上なく低い二人はすでにお互いの胸倉を掴み合っていたし、ルクスは早速タットルの鼻っ柱にヘッドバッドを食らわしていた。そのお返しとばかりにタットルの張り手がルクスをぶっ飛ばす。ルクスは身軽に起き上がると狂犬のように歯を剥いて再び跳びかかった。それをタットルは、体格差を活かして地面に押さえ付ける。
二人がドタバタ掴み合っていると、ゴホンと咳払いする人影があった。
タットルの下敷きになっているルクスが、「あああん?」とその勿体ぶった仕草にガンくれる。視線の先には、ドブ川沿いが似つかわしくない容姿の人物が立っていた。
それも二人組だった。
ルクスは、自分の上で息を荒げているタットルに尋ねた。
「誰これ?」
一人はルクスと同じくらいの歳の少女だ。
薄汚れたフード付きの外套をすっぽり被ってはいるが、綺麗に梳かされた髪や袖口から覗く日焼けのない肌が、どうにも貧乏人らしくなかった。ルクスは直観的に金持ちの娘だろうと判じた。
もう一人は、長身で均整の取れた身体つきの青年だ。
こちらも汚い身なりを偽装しているが、背筋の伸び方や佇まい、表情や顔色から軍人臭さが拭えていない。
どちらもルクスの気に食わない人種だ。
タットルが汗ばんだ額を拭いながら答えた。
「テメェに客だってんだよ」
「どう見ても俺の客層じゃないんだけど……?」
ルクスはそう言って、二人をねめつける。
軍人風の青年はどこ吹く風な様子で微笑み返し、少女は白いハンカチで口もとを覆い、眉をひそめてルクスを見返していた。




