辞書乙女と少女④
◇
出港前夜のことだった。
場所はルアー邸にある辞書乙女クレアの寝室だ。
「聖地の復興、本気で考えてるの?」
エルンとクレアが大きなベッドに並んで寝そべっていると、クレアがエルンに訊いた。クレアはエルンの横顔をじっと観察している。
エルンはぼんやり天井を眺めながら「本気だよ~」と答えた。クレアには、呑気そのものなエルンが心配でならなかった。
「聖剣はちりぢりで聖地だって潰されて、みんなもいなくなったのに。一番不真面目だったアンタがどうしてよ? アンタがやんなくたって、誰も責めないわよ?」
クレアはそう言った。
事実、クレアには聖地を復興しようという考えすらなかった。
聖地はなくなり、聖剣の管理者たる辞書乙女もその大半が怪物の手にかかった。
そもそも、秘匿すべき聖剣は各地に散逸し、その存在は世間に知れ渡ってしまった。大きな力の宿る聖剣は、それを求める様々な思惑に翻弄されて、以前のように一ヶ所に集めることなど叶わないだろう。
剣の聖女一統は、秘匿するという役目も、そのための担い手も、守るべき聖剣すらも失ってしまった。
もはやかつてと同じ存在にはなりえない。
再興など不可能だ。
クレアにはそれがわかっていた。だから、考えもしなかった。諦める以前に、再興という希望をはじめから持たなかったのだ。
けれど、エルンは気負いのない表情で言った。
「ジュールさんってね、すんごい強いの」
「……いきなりなに? 惚気話?」
「ああうん。ちゃんと聖地の話になるから」
「ああそう。それじゃどうぞ続けて」
「ジュールさんがいる限り、虚偽の悪神みたいなのが何回出て来たって大丈夫。あの人と一緒にいるとね、どんな困難だって大丈夫だって思えるんだ。どんな絶望も乗り越えていけるって確信できるの。でもね、ジュールさんだっていつかは死んじゃうんだよ」
「まぁ、勇者も人だからね」
「私はね、あの人がいなくなった後にも、あの人の希望を残したいんだ。勇者ジュールの灯した希望を語り継いで、絶望することはないんだって後の世界の人たちにも伝えたい。だってそれが、辞書乙女の使命だから。ようやくそれが素敵なことだってわかったの。
だから、私は聖地を復興する。未来の人たちに、勇者の希望を届けるために――聖剣とそれにまつわる勇者たちの物語を語り継ぐ場所として」
エルンは「ちょっと大きなこと言いましたね」と自分で茶化した。
クレアは「ちっこいくせにね」とそれに応じて、ぎゅっと妹分を抱き締める。
クレアは、自分より小さなエルンの大きな決意を応援すると決めた。
「アンタの考えてること、理解できたと思う。大変だと思うけど応援してる。私も聖剣について何かわかったら連絡するわ。拠点は一応、白港でいいのよね?」
「うん。ジュールさんの知り合いが領主なの。だから、聖剣の一時保管場所としてお城の武器庫を貸してもらってるの」
「あの勇者様もすごい人脈してるわね」
「へへっ、あの人は足で稼ぐからねぇ……」
「まぁ、危ない目に遭わないようにね。せっかくあの災禍を生き延びたんだから」
「それは平気だよ。だって私、ジュールさんの隣にいるから!」
エルンは胸を張って笑い、クレアはその自慢げな頭をわしゃわしゃと撫でまわす。しばらく二人の忍び笑いが寝室に響き、いつの間にか二人は同じベッドで寝入っていた。
◇
白港への出港当日。
港にはジュールとエルンを見送るために、クレアとリールが来ていた。
「それじゃあね、エルン」
「クレアも元気でね」
親しそうに別れを告げ合う辞書乙女たちの隣で、ジュールは相変わらず仏頂面のリールに「おい」と声をかけられる。ジュールが「なんだ」とすっかり慣れた様子で応じると、彼女は仏頂面のまま言った。
「あの話、ちゃんと考えておけよ」
「ああ、わかっている」
「それから、リピュアお姉様によろしく」
それだけ交わすと、ジュールとエルンは船に乗り、白港に向かって出発した。船に乗ってすぐのデッキの上で、エルンが先ほどのリールとの会話について尋ねる。
「ジュールさん、あの話ってなんです?」
「弟子に取らないかという申し出だ。一年後までに考えておけと」
「へぇ~。いいと思いますよ! よっ、ジュール師匠っ!」
「いや、受けるかどうか決めていないし、まだ先の話だ」
ジュールは苦笑いで答えて、遠ざかりつつある魚港の賑わいを眺める。
人々が当たり前に日常を生きる、平穏な時間がそこに流れていた。明日の予定を疑うことなく立てられる暮らしだ。平和を取り戻したという手ごたえが、その景色にはあった。
勇者一行が求め、戦い、勝ち取った平和だ。
けれど、大きな災害は必ず爪痕を残す。
燃えてなくなった本が、二度と読めないように。失われた人々が、蘇らないように。かけがえのない親友が、返ってこないように。
不可逆の変化が、絶対にある。
それが〈虚偽の悪神〉という未曽有の大災害であれば、なおのことだ。
失われ、損なわれ、崩れ去った後の――歪みのようなものが、世界のあちこちに刻まれていた。
悪神の爪痕はまだカサブタに覆われる前の生々しい赤色をしている。
怪物たちの季節は確かに過ぎた。
だが、傷口から滲む膿のように、新しい絶望の芽は静かに生まれていた。




