辞書乙女と少女②
◇
エルンたちが音のした方に足を運ぶと、そこはルアー邸の裏庭だった。
よく手入れされた芝生敷で、普段は剣術の稽古に使われているのか、近くには木剣や防具の掛けてある小屋が建っていた。
そして今は、ジュールとリール、ルアーの三人が芝生の上にいる。
もっと言えば、リールが芝生の上に蹲りグスグスと泣きべそを掻いていた。
隣に立っているジュールは困惑した様子で、ルアーが「言わんこちゃない」と呟いている。エルンはその光景をしばし眺めた後、とりあえずジュールが悪いと決めつけた。
「判決、ジュールさんが悪い!」
「待てエルン、話を聞け」
あまりに一方的過ぎると、ジュールが静かに異を唱える。
その横でルアーとクレアの主従が、何があったかを確認していた。
「――で、ルアー様。ご息女が泣きべそってるのはなぜですか?」
「うむ。まぁ、なんだ。リールのヤツが勇者殿の武勇に懐疑的でな、本当に噂ほど強いのかと突っかかったわけだ。まぁ、儂はやめておけと言ったのだが、いろいろあって立ち合いをする運びになってだな……」
「やっぱりジュールさんが悪いんじゃないですか!? 女の子を容赦なくぶちのめしたんでしょう!? 大人げない、勇者大人げない!!」
「待てエルン、勇者が女の子をぶちのめすわけないだろ」
「いや、お嬢さん。勇者殿は紳士にやってくれたん――」
ルアーがそう言いかけたところで、「どごが真摯だッ!」と声が割って入る。見れば、リールがぐじゅぐじゅの泣き顔を上げて抗議していた。
「ひっぐ……わ、私は真剣にやっでいだのに……ぞの男が、手を抜いでッ……」
「怪我をさせないよう、俺なりに気を遣ったんだ」
「ぞれを〈手抜き〉ど言うんだ! 屈辱だ……ごんな屈辱はない……ひっぐ」
「ああ~、ジュールさん、具体的にどう気を遣ったんですか?」
「こっちから手出しはしない。ただ、攻撃の起こりだけを潰したんだ」
「攻撃の起こりだけを?」
「潰した、とは?」
エルンとクレアが首を傾げるので、ジュールはさらに説明した。
ジュールが言うには、「リールの〈攻撃に移る直前の癖〉に合わせて、間合いを詰めて打ち込めないようにした」ということらしい。
「距離が詰まりすぎると剣も振れないからな」
とのことだ。つまり、自分から打ち込まない――どころか、防御のために木剣を使うことすらしなかったのだ。足捌きと立ち回りだけで、リールの攻撃を完封していた。本人は至極簡単そうに言っているが、完全にどうかしている技術だ。
大人と子供――どころではない実力差があって、初めて成立する戦い方。
リールは身体こそ無傷だったけれど、「六剣学園で一流の剣術を学んでいる」という自負心がバキバキにへし折られていた。
エルンとクレアは同情の眼差しをリールに注ぐ。
リールは芝生の上に丸まり、完全にいじけてしまっていた。
「私はもうだめだ。学園の看板に泥を塗ってしまった……」
ぐずぐずしているリールに見かねて……というより、不甲斐ない娘の姿に怒ったルアーは彼女の首根っこを掴むと、まるで子猫のように摘まみ上げて怒鳴った。
「弁えんかこの馬鹿娘め! 相手は世界を救った勇者殿だぞ! 今の六剣師範ども程度では相手にもならんわ! そんな奴らに習っているお前は言わずもがなだッ! それが一目でわからんからお前は愚図だと言うのだッ!
だいたいそんな女子の細っこい腕で勝負になるか馬鹿者めッ! 見ろッ、あの勇者殿の逞しい肉体を、あれこそが真の戦士の身体つきというもんだッ!」
「腕力頼みの馬鹿親父に剣術の何がわかるって言うんだ! 私はリピュアお姉様のような剣士になるんだ! アンタの指図なんて受けないぞッ!」
親子揃って栗色の顔を真っ赤にしながら、ぎゃあぎゃあと大声で怒鳴り合う。
オロオロするエルンの隣で、クレアが「またこの親子は……」と見飽きた様子で首を振っていた。
そして、ジュールは知っている名前が出たので、「おう」と反応する。
「リピュアというとあれか、白港の――」
「お姉様を知っているのか!?」
「あ、ああ……」
怒鳴り合っていたリールが、ジュールの反応に目を輝かせる。益荒男ことルアーは、リールの注意が移ったと思って一瞬だけ気を抜いた。
リールの双眸が、獲物を罠にかけた猟師のようにキラリと光る。
首もとを掴まれていた彼女はルアーの脇から首にかけて足を引っ掛けると、くるりと身体を翻して腕十字固めを決めた。ルアーは不意の関節技に「うおっ」と引っ繰り返る。
リールは悪人の笑みを浮かべると、勝ち誇った調子で言った。
「がははははっ、馬鹿親父め! 腕力だけで何でも片付くと思うなよ! アンタの言う〈女子の細腕〉でご自慢の腕をベキベキに極めてやるわッ!」
「この馬鹿娘が、貴様の猪口才な技なんぞが儂の筋肉を凌駕できると思うなッ!」
「うおおおおおおおお!」
「ごああああああああ!」
途惑うジュールとエルン、呆れるクレアをよそに、ルアーとリールの親子喧嘩はそれからしばらく続き、ルアーの裸締めが決まり手となって幕を閉じた。頸動脈洞反射によって失神させられたリールは、その後すぐに目を覚まし、さらにいじけてしまったが……。




