辞書乙女と少女①
クレアに案内された先は、控えめに表現しても豪邸だった。
吹き抜けを多く使った開放的な造りで、芝を張られた広い中庭があり、裕福そうな少女が大きな飼いイヌと戯れている。
そのイヌは金色の毛を綺麗に梳かされていて、すらっ長い手足をしていた。ジュールは「イヌまで高級そうだ」と感心する。
クレアたちに気づくと、動き易そうな衣服の少女はイヌを連れて近づいてきた。
「クレア、こちらの方たちは?」
「リールお嬢様、こちらは勇者のジュール様と辞書乙女のエルンでございます」
クレアがそう紹介するので、ジュールとエルンは頭を下げた。
リールと呼ばれた少女は「これがあの?」と訝しむようにジュールを見上げる。
クレアが今度は、ジュールたちにその少女を紹介した。
「こちらはリールお嬢様。南方の益荒男、ルアー様のご息女です」
「じゃあその南方の益荒男さんが、クレアクエイクの使い手ですぅ?」
「そういうことよ」
エルンがクレアに尋ねる隣で、ジュールは少女に左手を差し出した。
「はじめまして。俺は勇者のジュールだ」
「私はリール、今は六剣学園の生徒だ」
リールは、ジュールの差し出す手には応えずに言った。
彼女の目は、疑り深く眇められている。
ジュールはしばらく待ってから手を引っ込めた。気の強い、反発心に満ちた目は久しぶりだった。初めて会ったころのハッカを思い出し、ジュールは思わず微笑んだ。リールは不意打ちを受けたようにたじろいだが、気を取り直して怖い顔を作る。
そのとき、豪邸の奥から大柄な男性が近づいてきた。
男性が浮かべているのは、リールの仏頂面とは対照的な満面の笑み。
その男はジュールよりさらに頭一つほど背が高く、まるでクマさながらの巨漢だ。ジュールもこのサイズの人間を見るのは、怪物化しているものを除けば初めてだった。栗色に日焼けした身体は服の上からでもわかるほどに筋骨隆々で鍛え上げられている。
クレアが「ルアー様です」とジュールたちに耳打ちし、軽く一礼した。
ジュールとエルンも、クレアに倣って頭を下げる。
ルアーは「まぁまぁ、そう畏まらずともよい」と鷹揚に手を上げると、ジュールに近づきがっちりと左手を掴んだ。
人懐っこい大型犬のような笑みを浮かべて名乗る。
「港で騒ぎになっていた勇者殿だな! がははっ、みなまで言わずともよい。極まった人物であることは相対してみれば一目でわかる。よくいらっしゃった!」
「ああ、相違ない。確かに俺はジュールだ。そして貴方が――」
「ルアーだ。大地剣〈クレアクエイク〉を授かり、フィッシュの指揮官をやっている。こうして顔を合わせることができて大変光栄だよ、夜明けを告げる勇者殿! いやはや、ぜひとも勇者殿の武勇を聞きたいものだ!」
「あ、ああ、それは構わな――」
「そうか、それは実にありがたい! では奥の客間に案内しよう! リールも来なさい、ちょうど復興臨時休暇で帰って来ていたところに勇者殿がいらっしゃったのだ。これも何かの思し召しに違いない! きっとためになる話が聞けるぞぉ、がはははっ!」
ルアーはそう言ってジュールとリールの肩をがっしり抱くと、奥の客間に向かってずんずん歩き出す。ジュールやリールに有無を言う隙も与えない、豪快な手際だ。傍から見ていたエルンは「ジュールさんが勢い負けしてる……」とひどく珍しがった。
クレアは目を丸くしているエルンの袖を引き、別の部屋に目配せする。
「ルアー様はだいたいあんな感じの人だから。しばらく勇者様は解放されないと思う。私たちは私たちで積もる話でもしましょう」
クレアはそう言ってエルンの手を取り、ジュールたちとは別の部屋に彼女を案内した。
◇
「わあああ~、クレアクエイクだ~!」
エルンは風の通る開けた広間を駆け抜け、壁に固定されている大剣に近づく。白い壁には十以上もの大きな鉄杭が刺してあり、それらの杭でどうにか一本の大剣を支えてあった。
大地剣〈クレアクエイク〉だ。
辞書乙女のクレアが管理し、南方の益荒男と呼ばれるルアーに授けられた大地をも揺るがすという最大・最重量の聖剣である。
両刃の刀身はクレアの身の丈よりも長く、幅もエルンの肩幅以上だ。どこか青みを帯びた刃は黒曜石にも似た光沢を持ち、その厚みはまるで金庫を守る扉のようだった。
鍵も何もない、左右に雨戸があるばかりの開放的な部屋に置かれているが、これほど規格外な特大剣を盗み出せるものは皆無に違いない。
そもそも、人間に振れるとは到底思えない代物だ。
普通なら相手を斬るより先に振った人間の腰が慣性で捻じ切れる。
これを十全に振れるのはルアーのような特大の益荒男か、半怪物化しているジュールくらいだろう。
エルンは愛おしむようにその偉大な聖剣に頬ずりした。
それを見て、クレアは誇らしげに微笑む。
「大変だったのよ、ここにも怪物の軍勢は押し寄せてきたから。でも、ルアー様とクエイクがみんなを守ってくれたわ。聖剣の面目躍如って感じ」
「流石だね~、港から見てもここはあんまり被害を受けていない感じだったし」
「そういえば、アンタのエルンガストは今ないの? さっきの話だと虚偽の悪神が持っていたって聞いたけど?」
「うん。回収はしてあるんだけど、今はジュールさんの知り合いのところに預けてある。ジュールさんは自分の剣以外使いたがらないし、荷物になるから……」
「へぇ~、そう」
クレアは平静を装いながらも、内心はかなり驚いていた。
辞書乙女にとって自らの名前を冠する聖剣――正確には聖剣から名前をもらっているのだが――は、自分の分身とも言える特別な存在だ。
剣の聖女一統の地では、言葉を覚えるより早くから自分の聖剣と共に過ごし、自分の身体の一部のように育てられる。手入れ・管理法を徹底的に叩き込まれて、毎朝、自分の髪や顔の手入れより先に聖剣のために時間を費やす。
それが辞書乙女になるべく育てられたものたちの常だ。
自分の聖剣と離ればなれになることは、身を裂かれるように苦しいはずだった。
けれど、エルンは悲痛な様子も見せず、「でもよかった」と笑った。
「クエイクは無事でよかったよ~。オリジナルセブンがこれ以上欠けちゃったらやだもんね」
「ああ~、そういえば、結界剣〈ジンバルド〉は壊れたのよね?」
「壊れたというか、刀身が全部蒸発しちゃったの」
「純ルナ鉱石製の聖剣が、どうすりゃ蒸発させられるのよ……」
「私もびっくりした。他の聖剣ならともかくジンバルドが壊れるなんて」
エルンはそう言って忸怩たる表情を浮かべる。
ルナ鉱石はすべての聖剣に含まれる特殊な石だ。
聖剣を聖剣たらしめている力の源。
今はもう失われた存在で、加工する技術も途絶えてしまっている。
それ自体が特殊な力を帯びた天然の魔力資源であり、聖剣が超常の力を発揮するのはこの石が混ぜ込まれているからだ。そして、純粋にルナ鉱石のみで作られた聖剣が、この世界には八振りだけ存在していた。
オリジナルセブンは、そのうちの七本を指してつけられた異名だ。
エルンは指を折りながら、それらを諳んじていく。
「加速剣〈エルンガスト〉、大地剣〈クレアクエイク〉、結界剣〈ジンバルド〉、失われし聖剣〈アンチクァ〉――この四本はいいとして、残りの三本を早く集めないと。聖地を復興したときに、あの子たちがいないと様にならないもん」
「因果刀〈ワスレナグサ〉、災禍剣〈パンドウラ〉、あと――オウラソードね」
クレアがエルンの言葉を継ぎ、自分のつま先に視線を落とす。
エルンが「何か知ってるの?」と尋ねると、クレアはバツの悪そうな表情を浮かべた。そして、少しの間言い淀みながら、意を決した様子で顔を上げる。
「オウラソードは、悪神事件の最中に一度見たのよ」
「オウラお姉さまに会ったの……?」
「会ってたら、こんな顔してないわよね?」
「だよねぇ……」
「この辺りを荒らしていた怪物の軍勢に〈怪物騎士〉と呼ばれる四体の指揮官がいたわ。馬に騎乗し、揃いの黒い甲冑を着こんだ、聖剣を操る四体の化け物。そいつらの一人が、オウラソードを持っていたのよ」
「そいつら、倒してないの?」
「四体とも倒し損ねてる。連中の馬、異常に足が速いのよ。あれも怪物だったのかもしれないわ。貴方たちが悪神を倒してからは、目撃情報も途絶えてる。悪神の消滅と一緒にどうにかなったのか、どこかで息を潜めているのか……」
「そう」
エルンはそれ以上何も言わなかった。
辞書乙女のオウラ。
エルンとクレアの先輩であり、エルンたちよりも先に使い手を選び、その青年と共に聖地を出立していた。そのオウラのオウラソードが、怪物の手に渡っている。考えられる理由は一つだ。
オウラたちは敗れたのだろう。
エルンはじっとクレアクエイクに触れている。
クレアはそのエルンの顔をまじまじと見つめて言った。
「意外。アンタは泣くと思った」
「どうして?」
「アンタ、オウラ姉さまのこと、誰より尊敬してたから」
「うん。一番好きなお姉さまだった。でも、悲しい涙はもう出ないや」
エルンはそう答えた。
長い冬を乗り越えたその横顔は、クレアの知っていたころの彼女とは違う。幼く見える少女の眼差しには、悲劇を乗り越えてきた強さが宿っていた。
どんな悲劇も乗り越える、大きな背中を見続けてきたから。
「相変わらずのチビだけど、チビのままじゃないのね。ふふっ、小生意気だぞ!」
クレアはそんな妹分の頭をわしゃわしゃと掻き回して笑った。
エルンは「やめてけれ~」とジタバタしている。
表の方から大きな物音が聞こえたのは、そのときだった。
「なんか今、大きな音したわよね?」
クレアに訊かれてエルンもふんふん頷き、二人は音のした方に向かった。




