勇者と悪神③
◇
ジュールは畳み掛けるように、勇者の剣とジンバルドを操る。
「おおおおおののののれれれえええええ、贋作勇者あああああああああッッッ!!」
対する虚偽の悪神は、全身全霊の魔力を行使して変身した。
それは、銀の龍であり、岩の怪物であり、コウモリの怪物であり、同時にカマキリの怪物でもあった。
瞬間、瞬間で目まぐるしく姿を変えて、ジュールに襲い掛かる。
虚偽の悪神は配下にしたすべての怪物に変身することができた。
三賢者と呼ばれた魔法使いの一人――変身魔法を極めたことで、人間を超越した神のごとき生物にすら変身できた、最悪の魔法使い。
すべての魔法使いの頂点に立ち、
すべての人間から絶望を集めた偽りの神。
それが全盛期の彼だった。だが――
「ドオオオオオッッッせえええああああッッッ!」
ジュールは現在の悪神のことごとくを凌駕した。
勇者の剣はどんな攻撃をもいなし、ジンバルドはいかなる外殻さえも切り裂いた。
誰よりも怪物と戦ってきた彼は、誰よりも怪物と戦い慣れていた。
だから、虚偽の悪神がどんな姿に変わろうと瞬時に対応する。
それを可能にするだけの経験が、彼にはあった。
弛まず歩き続けてきたから。
勇者であらんと自らを奮い立たせて、常に戦いの最前線に立ち続けてきたから。
それゆえに彼の剣は、誰よりも磨き抜かれていた。
怪物を屠る剣士として、彼は間違いなく最上位の存在だ。ジュールの培った強さは、対悪神の力として完全に噛み合っている。
虚偽の悪神はわけがわからなかった。
「このッ、力はッ、なぜだあああああああッッ!?」
相手はなんだ。
魔法も使えない、聖剣に選ばれたわけでもない。
つまり、ただの一般人だ。
そこらのつまらない村人だ。
自分が偽物の剣を与えなければ、田舎の片隅で終わっていたような男だ。こんな舞台にしゃしゃり出てくるような人物ではない、なかったはずだ。
(私が目覚めさせたのか、眠れる獅子を……起こしたというのか……?)
虚偽の悪神は銀の龍となって輝く冷気を放つ。
しかし、その攻撃はジュールの右腕の炎にあっさりと相殺された。剣術以前に、その右腕の炎がいかなる防御をも貫き、すべての攻撃を焼き潰してしまう。
何より厄介なのはまずあの右腕だ。
あの忌々しい腕がなければ、とっくに勝負を着けられている。
ガナルカンに作らせた銀龍の力が、こんな形で無効にされるなど――、
「いや、そうかそうだ、ハハハッ、そうだったか!」
虚偽の悪神は納得したように笑う。
自分が圧されていたのは、ただの村人ではなかった。自分が契約し、呪いをかけた半怪物だ。
自分が圧されていたのは、あくまで自分自身の力が有能だったせいだ。
この男に掛けた魔法が、たまたま有能な形で発現したに過ぎない。自分は今、自分自身の有能さに圧されていただけだ。
虚偽の悪神はコウモリの翼で大きく距離を取ると、ジュールを睨んで叫ぶ。
「では貴様に見せてやろう、貴様の絶望を――貴様が成り損なった姿をッ!!」
虚偽の悪神の両腕が、炎を纏う岩石のごとく変じる。続いて肩が、足が、首が、顔が、黒い岩と真っ赤なマグマで覆われていった。頭の左右には天に向かって伸びる二本の角。全身から凄まじい熱量を放つ、炎の魔神が現れた。
その炎の魔神こそが、ジュールが完全に怪物化した姿だった。
ラーズに救われず、あのまま絶望していたらという最悪の末路だ。
虚偽の悪神はその全身を激しく加熱して叫ぶ。
「さぁあああ、燃え尽きるがいい、贋作勇者ああああああああああああッッッ!」
虚偽の悪神は全身に白い輝きを纏い、両腕から超高温の熱波を放った。
ジュールは右腕のジンバルドで熱波を受け止める。
怪物化して目覚めた熱量操作の能力――襲い掛かる膨大な熱を、ジンバルドの刀身に集めて封じ込める。片腕一本分の熱なら、勇者の剣でも耐えられた。
純正の聖剣であるジンバルドならそれ以上に耐えられるはずだ。
しかし、虚偽の悪神は全身を怪物化していた。
その身体から放たれる熱量もまた、ジュールの右腕を遥かに超えている。
「耐えろッ、ジンバルド!」
「右腕一本残してッ、細胞の一つまで燃え尽きるがいいいいいッッ」
ジンバルドの刀身が、白熱しながら次第に溶けていく。すると、ジンバルドに生み出されていた空間にも亀裂が走った。虚偽の悪神の熱が、ジンバルドを侵し、結界そのものを破壊しようとしている。
(この熱波をエルンたちの場所に戻すわけにはいかない、まだだッ、ジンバルドッ)
ジュールは右腕を通じて、ジンバルドに籠る熱を逃がしながら耐えた。
だが、虚偽の悪神はさらに熱量を上げる。その熱がジンバルドの限界を越えた。
ジュールの視界が白く消し飛ぶ。
虚偽の悪神の高笑いだけが、彼の意識にけたたましく響いた。
◇
「結界が破られる!? みなさん伏せてっ!!」
エルンがそう叫んだ直後、彼女たちのいた教会を強烈な熱風が襲う。
その威力はもはや爆発と呼ぶべきものだった。
結界内で吹き荒れていたエネルギーが、結界剣の消失と共に教会に出現した。そのエネルギーは教会の屋根も壁も吹き飛ばし、辺り一帯を瓦礫の海に変える。
激しい轟音と振動。
その後に訪れる静寂。
気づいたとき、エルンは瓦礫の下敷きになりかけたところを誰かに助けられていた。
盾使いのボウエイだ。彼が大きな盾で瓦礫を支えて、彼女を守っている。
「お怪我はありませんか、辞書乙女様」
「あ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。貴方の指示がなければ、今ごろ誰も助かっていなかった」
ボウエイはそう言って目線で答えた。
確かにあちこちの瓦礫の隙間から、衝撃を回避した勇士たちが顔を覗かせている。
しかし、生き残った誰もが今は仲間の安否より、瓦礫の海の真ん中に立つ異様な怪物に視線を奪われていた。
夜明け前の紫色の空の下、赤々と燃える怪物が立っている。
そいつの全身はあの男の右腕のように燃えていた。
「まるで炎の魔神だ……」
ボウエイが、瓦礫の下からエルンを引っ張り出して言う。
今の爆発をもう一度起こされたら、誰も助かりっこない。それは誰もがわかっていた。
けれど、足が竦んでしまって、誰も最初の一歩を踏み出せなかった。
そのとき、瓦礫を蹴破ってもう一人の炎が現れた。
ジュールだ。
ジュールは刀身のなくなったボロボロの柄を手放した。ジンバルドだったものが、瓦礫の山に埋もれてしまう。もはや見る影もなかった。
純正の聖剣が、完全に蒸発してしまっていた。
けれど、ジュールは火傷一つ負うことなく立っている。左手に握られた勇者の剣が、抑え切れなかった分の熱を受け切ってくれたのだ。
一番近くでジュールを守り続けた剣は、またしても彼を守り切った。
ジュールは左手の剣を掲げて、その刀身に微笑みかけた。
「ありがとう、勇者の剣。お前にいつも助けられた」
勇者の剣はその表面を溶かしながら、込められた熱のために白く輝いている。
まるで山の稜線から覗く、真っ白な太陽のようだ。
ジュールは無造作に瓦礫を踏み分けて、炎の魔神に向かっていく。
炎の魔神はぴくりとも動かない。
ジュールは真っすぐに歩き、炎の魔神を間合いに捕らえた。ジュールは左手に剣を下げたまま、呆然と立ち尽くすその絶望に向かって言った。
「すでに聞こえていないだろうが、やはり絶望した俺は弱いな。他の何よりも」
炎の魔神は頭に籠った熱のため、思考が完全に止まっていた。
ジュールが右腕一本をフルパワーで使った以上の熱を、全身から放出していたのだ。こうなることは、ジュールにはわかり切っていた。
ジュールの炎は万能の力でも、無思慮に振り回せる力でもない。絶望の淵に立ち、その淵で踏み留まり、希望を忘れなかったものにだけ輝く力だ。
絶望に溺れず、力に驕らず、強い意志によって制御しなければならない力だ。
「嘘つきの王様、お前の敗因は一つだ」
ジュールはその最弱の怪物に語り掛ける。
何もできず、何も考えられず、ただ呆然と立ち尽くす人型。己の熱に思考を奪われて、木偶の坊になる哀れな存在。
それは絶望した人間の末路にふさわしかった。
それが完全に絶望した、ジュールの辿る姿だ。
こうなってしまっては、どんな怪物よりも弱い。
「お前は嘘を吐き損なった」
ジュールが勇者の剣を――戒めの鞘からこの剣を引き抜いたものは、いずれ現れる魔王を倒す〈希望の勇者〉となるでしょう――そう謳われた勇者の剣を振り被る。
ジュールの頭にこれまでのことが過ぎった。
騙されて剣を買ったこと、幼馴染と母親の死、ラーズとの出会い、ハッカやアウロラ、ドグたちとのこと、黄金と呼ばれた剣士のこと。
そして、ラーズとの別れと、それから始まった本物の勇者になるための旅。
たった一年とは思えない、長い戦いだった。
たくさんのものを失った。
ジュールだって、悲しむ心は持っている。
彼にも悲しみはある。
けれど、足を止めないために、心の底に封じてきた。だから、たくさんの悲しみが心には積もっていた。今にも溢れ出しそうになる山のような悲しみは、けれど、勇者であるという意地で留めてきた。
絶望も知った。
そして、絶望を退ける熱さを知った。
最高の友が残したかがり火は、今でも自分の腕で輝いている。
この熱さがある限り、絶望することは、ない。
ジュールは目を細めて、ぐっと涙をこらえる。
そして、最後は笑って振り抜いた。
「俺たちの戦いは、ここまでだ」
ジュールの剣が、炎の魔神の首を斬り落とす。
首を失った怪物の王は、自らの炎に飲まれて骨まで灰と化した。
緩やかに流れる風が、その灰を攫っていく。
虚偽の悪神は、細胞の一つまで燃え尽きて完全に消え去った。
地平線から朝日が覗き、教会の瓦礫と勇士たちの横顔を照らす。勇士たちはその眩しさに目を細めながら、じっと夜明けの方角を見つめていた。
そこに彼がいる。
その勇者は、朝日を背負い立っていた。
一振りの剣を握り締めて、ほうっと白い息を吐いている。彼の握る剣は夜明けの光を一身に浴びて、朝日よりさらに眩しく輝いているように見えた。
勇士たちはその光景に釘付けになっている。
勇者は振り返ると、自分に向けられている視線に気づいた。
そして、剣を掲げて笑った。
いつものように、当たり前みたいに、気負いなく笑った。その男の浮かべている笑顔以上に頼もしいものを、勇士たちは知らなかった。
輝きの中で笑う勇者に釣られて、勇士たちとエルンは、同じように笑った。絶望なんて知らないみたいに、悲しいことなんてないみたいに笑い飛ばした。
そしてきっと、彼らの浮かべた笑顔は、春の到来を知った花のように世界中に広がるだろう。
長く恐ろしい冬は終わった。
ジュールの左手には、勇者の剣が握られていた。




