希望の砦
◇
厳重そうな身体検査の後、ジュールとエルンは砦の中に通された。
高い囲いの内側は、傷ついた兵士や詰め寄せた難民たちで、かなりごった返している。
砦にあった建物だけでは怪我人・難民を収容し切れず、そこら中の道に焚火とそれを囲う小さな一団が生まれていた。昼飯どきだったせいか、焚火で料理まで作っているようだ。
けれど、今はその大半が、噂の勇者を一目見ようと門に押し寄せていた。
次々に顔を覗かせる野次馬たちは、ジュールの逞しい身体に歓声を上げて、その燃える右腕にどよめき、そして、誰より大きな笑い声に釣られて笑顔を見せた。
その野次馬たちを割って歩くように、軍装の一団がジュールたちの前に現れた。
「お待ちしておりました、噂の勇者殿」
軍装の先頭を歩く猛禽のように鋭い目をした男が、握手を求めて右手を出した。
ジュールは苦笑いして肩を竦める。「燃えるぞ」と端的に断った。その男は「これは失礼を」と右手を背中に戻し、頬のこけた顔に儀礼的な笑みを浮かべた。
「私は当砦の最高責任者で〈カルト〉と申します」
「俺は勇者のジュールだ」
「私は剣の聖女一統の辞書乙女です」
「ええ、もちろん。お二人の噂はかねがね。長旅でお疲れのところでは――」
「問題ない。俺は今すぐにでも戦える」
ジュールは相手の言葉を先取りして申し出た。
軍装のカルトは「流石は勇者殿」と感心した風でもなく応じて、本題を切り出す。
「我々の砦は危機に瀕しています。春を間近に控えながら。食料が不足しているのです」
「なるほど。そして、当てはあるが、問題もあると」
「ご推察の通り、丘向こうの街には冬越えの備蓄が十分に残されているはずです。これを手に入れたいが、やはり障害もあります。大きな障害です」
「怪物どもか」
「それも統率された怪物です。とても残忍な指揮官がいるのです。我々は〈解体者〉と呼称していますが、その指揮官は食料回収に向かった兵士たちを待ち伏せして、悲鳴を上げるだけの〈生きた楽器〉に変えてしまいました。楽器にされた兵士たちの悲鳴が、夜ごと我々を苛んでいるのです」
カルトがそう語ると、ジュールは静かに瞼を閉じた。その解体者という怪物の原型に、一つの心当たりがあった。
アウロラが意思を持った怪物になったのだ。
それならあの軍医も。
ジュールはとっくに覚悟していた顔で目を開く。
そして、希望の勇者として不足のない笑みを浮かべて答えた。
「そいつは俺が倒そう」
ジュールがそう言うと、カルトは具体的なプランの説明に移った。
◇
解体者討伐作戦は、夜明け前を予定していた。
討伐隊が砦を発つのは真夜中になる。
それまでの間、ジュールとエルンは、砦の中を歩いて回った。負傷した兵士たちを励ましたり、かつて助けた町の人たちに会ったり、ジュールは休みなく動いている。
そうやって動き回りながら、ジュールはふと後ろを振り向き、エルンに「ほい」と何かを手渡した。エルンはとりあえず受け取ってから、「なんですか?」と首を傾げる。
渡されたのは、折りたたまれた紙だった。
「もしやラブレターです?」
「後でそこに行ってくれ。俺が出てから、エルンだけで」
「別行動しろってことですか? これは地図の類です?」
「今はダメだ。自分だけで見て、行動してくれ」
「やっぱり、ラブレターです?」
「馬鹿抜かせ……」
ジュールは「そもそも、俺は読み書きができない」と言って、何ごともなかったように前に向き直った。エルンはびっくりした顔をしている。
トコトコと前に回り込んで、ジュールを見上げて訊き返した。
「ジュールさん、読み書きできないんですか?」
「動物の名前をいくつかと、毛皮だの、肉の部位だのはわかる。生活に使うからな。同じ理由で簡単な計算くらいはできるが、その程度だ。外海側の田舎生まれだと、そう珍しくもないだろう。俺の故郷には学校もなかった」
ジュールは少し遠い目をする。
自分の生まれ育った故郷のことを思い出していた。
学校も病院もない、山の中の小さな村だ。
自分はそこで生まれて、そこの猟師として一生を終えるはずだった。村から遠く離れることもなく、父親から受け継いだ仕事を続ける。
どこにでもある人生だ。
自分もそうするはずだった。
ジュールは猟師として生きる自分の姿を夢想した。母がいて、幸せそうに暮らす妹分の彼女がいる。そんな当たり前の日常を思う。
親友の大僧正が、彼の妹と健やかに生きる姿も空想した。自分と出会わずとも、あの男なら力強く生きただろう。
アウロラやドグ、リピュアたちが、美しい白港で笑い合う姿も思い浮かべた。自分の知らない、街での暮らしはどんなだろうか。素敵な双子姫や元気な人々の住んでいる街だ。きっと賑やかな日々が待っていたに違いない。
今ではあり得なかった世界だ。
でも、当たり前にあったはずの日常だ。
そんな当たり前の幸福が、いくつも失われた一年だった。
この悲劇を終わらせる。
ジュールは夕暮れの空を見上げた。また夜が来る。
「それじゃあ、後は頼んだぞ」
「愛の告白は?」
「しない」
ジュールはエルンにそう言って、出発まで少しだけ休むことにした。




