弓穿つもの②
◇
「懐かしい名前、貴方も絶望できなかったのね、無様にもなり損なったのね?」
怪物アウロラがジュールに鏃を向けた。
ジュールはその声を聞き、少しだけ寂しげに話しかけた。
「その声はそうか。お前はアウロラだったものか」
「そう、アウロラだったもの、弓穿つもの」
「お前は絶望したのだな」
「そう、そしてもう絶望することはない。私自身が、偉大なる絶望の一つになったから」
「そうか、間に合わなくて悪かったな」
「何を言っているの?」
ジュールはくしゃっと微笑み、次の瞬間には炎の右腕を振り上げた。
怪物アウロラの番えていた弓と矢は、熱波を受けて瞬時に炭化する。それと同時に、掌にも酷い火傷を負っていた。しかし、ジュールの隣に立つエルンには少し熱い程度だった。
高い精度の熱量操作。
銀の龍との戦いを経て、右腕の扱いに磨きが掛かっていた。
ジュールが左手の勇者の剣を振るう。
怪物アウロラは大きく飛び退いて躱すと、焼けただれた掌を見て言った。
「貴方、酷いことをするのね……?」
「そうだ。俺は今からもっと酷いことをする」
「うふふっ、そんな情熱的な告白をされたら、私も昂ぶってしまいそう」
怪物アウロラは酷薄な笑みを浮かべると、左右の腕を一本ずつ背後に回した。その二本の腕が、一振りずつ形のまったく異なる剣を抜き放つ。
一振りは、物差しのように綺麗な長方形の両刃剣。
一振りは、濡れたカラスの羽のように輝く曲刃剣。
怪物アウロラはその二振りの剣を、左右二本ずつの腕でがっちり握り締めた。
辞書乙女のエルンは、その剣たちを見ると悲鳴じみた声で叫ぶ。
「ジンバルドに、クグルイカン!? そこの男の人ッ、危険ですそれらは――」
「四方を切り裂き陣を敷け、ジンバルドッ!」
怪物アウロラが長方形の剣を振り上げて宣言した。
ジュールの視界が立ちくらみのように一瞬だけ奪われる。そして、視界が戻ったときには眼前に見慣れない景色が広がっていた。
どこかの、殺風景な部屋の中だ。
わけがわからない。
「あわわわっ、危ないッ!」
エルンがそう叫ぶ。
ジュールは勘だけで右腕を振り上げた。
その右腕が背後から突き出されていた黒い曲刃を受け止める。
その黒い刃は背後の壁を貫通して伸びていた。
防がれたとわかると、黒い刃は壁向こうに引き戻されて消える。
しかし、壁には斬られた形跡が残っていない。
ジュールは全方位に神経を巡らせながら、エルンに問いかける。
「あれはどういうことだ?」
「結界剣〈ジンバルド〉と、透過剣〈クグルイカン〉です!」
「よし、わかるように言ってくれ」
「ええっと、二振りとも特別な力を込められた聖剣なんです。ジンバルドは一時的に持ち主の望む空間を作り出せて、クグルイカンは生物以外をすり抜けちゃうんです!」
「耳を疑うような話だが、今は信じよう」
ジュールはそう言うと、エルンを自分の背中に引き寄せた。「俺の死角を見てくれ」と異常な状況にも瞬時に順応する。
異常な怪物たちとばかり戦い続けたので、異常な状況が当たり前になっていた。
ジュールは周囲を観察しながら思考を言葉にする。
「障害物の多いところでは、〈すり抜ける剣〉に不意を打たれる。しかし、開けた場所に出ると、アウロラ得意の弓で狙われる。なるほど、よく考えてある」
「か、感心している場合ですかッ!?」
「運のいいことに、弓はすでに潰してある」
ジュールはそう言うと、迷わずに壁を殴り壊して部屋の外に出た。
屋外に広がる街並みを見て、「ああ、そうか」と呟く。突然、胸の張り裂けるような思いがした。
「そうだったのか、お前はあの街の……」
そこには栄光の白港の風景が広がっていた。
ジンバルドの作り出す、持ち主の望む空間。
何もかも組み替えられてしまっても、忘れられなかったであろう場所。怪物に襲われる前の、美しい夏の白港がそこにあった。
アウロラが愛したはずの故郷だ。
「心まで怪物に変わってしまっても、それでもお前はアウロラなのだな」
ジュールは開けた道の真ん中で顔を上げる。
怪物アウロラは大きな鐘を吊るす教会の屋上にいた。その両手には二振りの聖剣。顔に浮かべているのは、別人のような笑み。
下品で酷薄に歪んだ顔。
多くの絶望を呼ぶ、絶望の軍勢のひとりだ。
でも、そのどこかに、アウロラの記憶が残っているのだろう。その絶望のどこかに、彼女の思い出が囚われている。
「ならば、その絶望を終わらせる」
ジュールが言うと、怪物アウロラは教会の壁を駆けるように急降下する。
オオカミの下半身が地面を蹴る度、驚異的な加速と突進力を生み出し、白港の目抜き通りを疾駆した。ジュールに向かって一直線に加速する。
怪物アウロラは石畳が捲れるほどに大地を蹴り上げて、半人半獣の身体を大きく躍動させた。
その大きな運動エネルギーこそが、彼女の武器だ。
対して、ジュールは右腕を篭手のように突き出し、静かに左手の剣を構える。
動のアウロラ、静のジュール。
お互いを間合いに捕らえた、一瞬のすれ違い。
三振りの剣が、刹那の邂逅を果たした。
そして、彼らがすれ違った後には吹雪の荒野が広がっていた。
怪物アウロラは四本の腕をすべて斬り落とされて、だらりと座り込んでいる。ジュールの剣術が、彼女の突進力を上回った結果だ。
ジュールは勇者の剣を雪原に刺すと、足元の結界剣を拾い上げた。
「四方を切り裂き陣を敷け、ジンバルド」
そう言って、ジンバルドを振るう。
ジュールと怪物アウロラの前に、雪に覆われた白港の景色が広がった。
エルンの姿はそこにない。
ジンバルドは持ち主の望む空間に、望む相手だけを連れていける剣だった。
ジュールは彼女にだけ見せたかったのだ。
つづら折りの坂道から見た、輝く栄光の白港を。
ジュールは力なく座り込む彼女の隣に立ち、静かな声音で言った。
「建物は多少壊れているが、攻め込んできた怪物はすべて倒した。たくましい人々が、たくさんいる街だ。きっとすぐに賑わいを取り戻すだろう」
「そう、ですか……」
怪物アウロラが答えた。けれど、彼女はもう怪物ではなかった。
両腕を失い、蒼白な顔でへたり込む、一人の少女のようだった。
彼女は震えていた。
彼女にとっての絶望は、「あの日、ジュールを信じ切れなかった自分自身」だった。自分を許せなかった彼女は、彼に罰されたいと思っていた。
けれど、ようやく現れた本人ときたら、優しい暖かさで隣に立っている。
彼女が信じきれなかった、あの力強い笑みを浮かべている。
「白港の勇者にも会った。お前のように強い女性だった。あの人の姉上たちも、実にタフな女性だった。口が達者でまるでラーズのようだ。ボウエイも気骨のある男だった。彼はなんとガナルカンを盾で殴り飛ばしたらしいぞ」
「そう、ですか……」
アウロラが嗚咽交じりの震える声で答えた。
ジュールは彼女の乱れた髪を直しながら言った。
「お前の絶望は、ここまでだ」
「私、信じられなくて……ごめんなさい……」
「俺こそすまない。俺にはこうする以外に救う術がなかった」
「ふふ、器用ではない……でしたものね……」
「ああ、そうだ」
アウロラが、少し傾いでジュールにもたれた。
ジュールは彼女の体温が少しずつ失われていくのを感じた。
アウロラは彼女の愛した故郷の風景を見つめながら、眠るように息絶えた。
その死に顔は涙に濡れていた。
ジュールが、ジンバルドを手放す。
吹雪の真っ只中に戻った。
涙さえも凍り付くような、冷たい風が吹く。
エルンは数歩離れたところから、ジュールとアウロラの後ろ姿を見ていた。立ち入れない雰囲気を感じて、口を閉ざして立ち尽くしている。
ジュールは勇者の剣を納めて振り返った。
エルンを見て、今気づいたように言う。
「アンタは確か、自称乙女とかいう残念なおん――」
「辞書乙女です! 誰が残念な女ですか、誰がッ!」
エルンはあまりにあんまりな聞き間違いに抗議するハメになった。彼女自身、このシリアスな流れで御礼や謝罪が後回しになるなんて、流石に予想していなかった。




