弓穿つもの①
◇
その乙女は吹雪の中を走っていた。
村から遠く離れて、街道からも外れて、道なき雪原を走っている。酷く吹雪いていたせいで見通しは利かず、彼女は自分がどこに向かっているのかさえ、わからなくなっていた。
それでも彼女は走っていた。後ろから迫る、大きな影があったからだ。
その乙女はずっと逃げていた。
一度は故郷に帰ろうとして、帰り着いた自分の故郷がすでに絶望に飲まれていたことを知った。
故郷の喪失を理解して、彼女は自分が包囲されていることを悟った。
彼女の故郷は剣の聖女一統という古い集団の聖地だった。
その乙女――エルンはその一統で〈辞書乙女〉と呼ばれる一人だった。
数多の聖剣に精通し、資格あるものにそれらを授ける巫女の役だ。
そして、エルンはこの度、レイオンという青年と聖剣エルンガストの行末を見守る役目を負っていた。その結末がこの逃避行だ。それも終わりが近づいていた。
辞書乙女のエルンは足を止めて立ち竦む。
彼女を追っていた大きな影が、彼女を飛び越えてその眼前に躍り出たからだ。
追跡者の影は美しい女性の上半身と四本の腕を持ち、オオカミのような四つ足の下半身を備えていた。引き締まった四本の腕は、二組の弓と矢を構えている。
決して振り切れない、獰猛な追跡者。
「貴女も絶望してしまえばよかったのにね」
虚偽の悪神に仕える三将軍がひとり、弓穿つ怪物アウロラが、生前の彼女からは想像もできない恍惚の笑みを浮かべて言う。
騙されて、絶望を知り、心の底から怪物に組み替えられていた。
エルンにも彼女の気持ちがよくわかった。
なぜなら、エルンも彼女と同じ光景を、同じ場所で見ていたからだ。それでも、エルンが絶望しなかったのは、彼女には故郷という希望が残されていたからだった。
そこに秘蔵されている、聖剣たちの存在を知っていたからだ。
希望の芽は真の勇者はどこかにいる。
そう信じていられたからだ。
だからそう、レイオンという青年こそが、恐るべき悪神だと明かされても、心を折られずにいられたのだ。怪物に埋め尽くされた街で――絶体絶命の窮地で、最後の希望だった勇者から「私こそが悪神だ」と告げられても、怪物化を免れてこられたのだ。
けれど、その希望も潰えてしまった。
故郷は絶望に消えて、数多の聖剣は怪物たちの手に渡った。
それでも、エルンは旅を続けていた。
いつか正しく聖剣を手に入れたものが、この絶望を晴らすと信じて。
だが、そのエルンの足もついに止まった。
彼女にはもう、絶望するほどの気力も残っていなかった。少しずつ落胆を重ねた心は、大きな絶望ができないほど擦り減っていた。感情の落差を生じえないほどに、心も身体も冷え切ってしまっていた。
「貴女も絶望できれば、ラクだったのにね」
怪物アウロラがエルンを憐れむように呟き、二対の矢を番えた。
エルンは目を瞑り、静かに項垂れて、殺される瞬間を待っている。
けれど、いつまで経っても必死の一撃は飛んでこなかった。
疑問に思って顔を上げると、怪物アウロラはじっと遠くの一点を探るように睨みつけていた。エルンも振り返ってそれを見た。
それは吹き荒ぶ雪の中でも異様に目立っていた。
炎だ。真っ赤な炎が、近づいて来る。
さらに近づくと、炎は男の形をしていた。
炎の男は上等そうな外套を纏い、フードの下で笑っていた。
エルンの隣に立つと、燃える右腕をぎゅっと握り締める。
「絶望することはない」
その男は根拠不明の自信を漲らせて言うと、フードを軽く跳ね上げた。
エルンにもアウロラにも、見覚えのある顔だった。
二人がかつて〈偽物〉だと判じた男が、偽物の勇者の剣を提げて立っている。
偽物のはずだった勇者の剣。
名前はなく、超常の力も持たず、ただの使い古された鋼の剣だ。
エルンは信じられない思いでそれを見る。
あのときと変わらない古びた剣が、今はまるで違って見えたから。
「俺は勇者のジュールだ」
炎が、そう名乗った。




