村一番の馬鹿③
◇
祭りの前夜。
空気が冷たく澄んで星がよく見えた。
ジュールが持ち帰ったクマを解体し終えたころには、村人たちは各々の家に入り、それぞれの時間を過ごしていた。早いところではすでに灯りを落としている家もあった。
ジュールは余ったクマ肉を友人たちに配り歩いていた。そのため、家に戻るのはそれからさらに遅くなってしまった。
しかし、その寄り道のおかげで、ジュールは惨劇の現場を押さえることができた。
「どなたさんかは知らないが、ひとんちの庭で何をしている?」
ジュールは暗がりでうごめく影に言った。
その見知らぬ影は、彼の家の裏庭に座り込んで、何かに馬乗りになっている。
ジュールは「強姦の類であれば、殴り飛ばしてやろう」と考えていた。
暗がりに潜む影が、のっそりと顔を上げた。
その瞬間、嗅ぎ慣れた臭いがして、ジュールは顔をしかめた。
先ほども嗅いだばかりの臭いだ。
動物を解体して、皮を剥ぐときの臭い。
新鮮な血の臭いだった。
暗がりに潜む影が、腕らしきものを振るった。
「うおっ!」
鞭のようにしなる細長い腕が、ジュールを派手に吹き飛ばした。彼の身体は家の土壁を突き破ると、土埃と一緒に室内へと転がり込む。
ジュールの母親が、灯りを片手に顔を出した。
「アンタ何ごとだい! とうとう玄関もわかんなくなっちまったのかい!?」
「ぐっ、身体の心配より先に……頭の心配をするな……」
ジュールは頭を強く打ったせいか、目の前がちかちかしていた。
肘をついてどうにか身体を起こし、そして、母と息子は異形の怪物を見た。
その怪物は、人間をぶくぶくに膨張させたような姿をしていた。
身体は先ほど倒したクマ並みに大きく、人間のように直立している。その腕は地面に届くくらい細長く、デメキンのように張り出した両目をギョロつかせて、膨れた瓜のごとき唇から肉食獣の牙を覗かせていた。
つまり、見たことも聞いたこともない怪物だった。
ジュールの母親は悲鳴を上げた。けれど、声は突然に途切れた。怪物の細長い腕が、母親のか細い首をへし折ってしまったからだ。
血飛沫が上がり、母親は力なく横たわる。
彼女の悲鳴が届いたのか、村人や訪れていた商人たちが、何ごとだろうと夜空の下に出てきた。そして、彼女と同じ末路を辿った。
にわかに村は恐慌へと転じる。
怪物は細長い腕を雑に振り回し、花の茎でも折るように人間を殺した。人々は狭い村の中を逃げ惑い、たまに立ち向かうものが出ては返り討ちにあった。
ジュールはようやく最初に受けたダメージから立ち直った。そして、母親の死体をまじまじと眺めてから、静かに憤怒の形相を浮かべる。
恐怖や混乱より、怒りが勝った。
ジュールは単純な男だった。親の仇は討たねばならない。そのための得物として〈勇者の剣〉を選んだのは、たまたま近くに転がっていたからだ。
三年ぶりに引き抜いた剣は、歳月を経てもなお変わらずに美しかった。
ジュールに剣術の心得はなかった。
だから、馬鹿正直に正面から近づいて、愚直なまでに全力で振り被った。
「ドオオオオオッッッせえええああああッッッ!」
ジュールの怒声が、醜い怪物を一瞬怯ませた。
その一瞬の間に、ジュールは怪物の片腕を斬り落とし、眼前に迫ったもう一本の腕も軽く払うように斬り飛ばす。
怪物にも痛覚はあるのか、甲高い悲鳴を上げた。
ジュールはその喧しい顔面に剣の柄を振り下ろした。怪物の牙がまとめて折れて、何本かジュールの拳にも刺さった。ジュールは顔をしかめただけだ。
怪物は牙を失ったにも関わらず、噛みつくようにジュールに飛び掛かる。
ジュールは逆手に持ち替えた剣でその太ももを突くと、出来たばかりの傷口を踏み抜いた。
怪物が、ガクンと膝を折る。
おとなしくなった怪物の前に立ち、ジュールは介錯人のように剣を構えた。
その怪物は何ごとかを呟いている。
ジュールは躊躇せずに首を落とした。
頭と胴が離れると、さすがの怪物も死んだ。
すると、その醜く膨れ上がった異形が、しゅるしゅると萎んで小柄な女性の身体になってしまった。
雪の上に転がるその肌は、新雪のように白く艶やかで、年相応の張りがあった。
若い娘のようだった。
刎ねた頭を転がし、その顔を確認したとき、ジュールの臓腑がふっと冷えた。
手にした剣の重みが、急にずっしりと存在感を放つ。重かった。剣を持つ右腕が、まるで岩にでもなってしまったかのようだ。
この剣は、自分の右腕は、こんなにも重かったろうかとそう思った。
「これはどういうことだ……?」
彼の目の前には、幸せになるはずだった幼馴染の死体が転がっていた。
◇
ジュールの奮闘により、村は危機から脱した。
しかし、翌日になっても混乱からは抜け出さなかった。このような異常現象、誰も聞いたことがなかったからだ。
村々を旅する行商人すら「人間が怪物になるなんて信じられない」と口にするばかりだった。
こうなるともう、祭りどころではなかった。
村長や行商人、村の知恵ものたちが広場に集まり、しきりに頭を悩ませていた。
すると、旅支度を済ませたジュールが、件の広場に現れた。その腰には、勇者の剣を佩いている。広場の誰もが、彼の言動に注目していた。
ジュールは一晩熟考した後の落ち着き払った様子でこう言った。
「予言のときが来てしまった」
車座になっていた村人たちが、ぽかんとした。
冗談ではないとわかると、一斉に立ち上がってジュールに詰め寄った。
「それは詐欺師に騙されたんだ」
「みんなで笑ったの、忘れてないだろ?」
「おふくろさんも死んで家どうすんだよ?」
「馬鹿も休み休み言えよ、馬鹿じゃないんだから!」
「いや、こいつは馬鹿なんだ。でも、いい馬鹿なんだ」
「んなこた知ってる。とりあえず落ち着けなっ、ほら座れって」
全員がジュールを引き留めようとした。
村の誰もが、馬鹿でにぎやかな、この青年のことを快く思っていた。けれど、ジュールはこうと決めたら突っ走る男だった。そしてもう、彼はすっかり腹を決めていた。
「俺は旅に出る。この悲劇の原因を突き止めて、必ずや元凶を討ち倒す」
結局、誰もジュールを止められなかった。
ジュールは勇者の剣を携えて旅に出た。
ちょうどその辺りからだ。ジュールの村で起きたのと同じような事件が、あちこちの人里で頻発するようになっていた。