村一番の馬鹿②
「おばさん、ジュールいますか?」
ジュールが熊退治に向かっているころ、ジュールの家を訪ねる娘がいた。
ジュールの幼馴染であり、祭りの主役の一人であるサーヤだ。祭りは明日であったが、前日にも関わらず身だしなみをしっかりと整えていた。
ジュールの母親が「あら、サーヤちゃん」と親しみを込めた笑みで出迎える。ジュールの母親は、サーヤのことも自分の娘のように可愛がっていた。
「この度は本当におめでとう。あの馬鹿息子なら、今日は山に入ってるけど?」
「祭りの準備じゃなくて?」
「冬眠に失敗したクマが出たそうなの。帰って来るのは、あの子の腕次第だけど、まだ少し掛かると思うわ。あっ、あのバカ息子、また何か迷惑かけたかしら。あいつ、昔から自分基準で無茶な遊びを吹っ掛けるから……」
「それっていつの話ですか、おばさん」
サーヤは苦笑いを浮かべて答える。
狭い村での暮らしだ。幼いころからジュールとは兄妹同然に育ってきた。そのせいで、子供のころの恥ずかしいエピソードも、両家の親たちはすっかり共有している。恥ずかしがるサーヤを見て、ジュールの母親は柔らかい笑みを浮かべた。
「おばさんにしてみれば、昨日も、三年前も、十年前も、そう変わらないものよ。いつだってあなたたちは可愛い子供。でも、本当によかった。無事にこの日まで育ってくれて」
ジュールの母親は、祝うようにサーヤを抱き締めた。サーヤはそれを嬉しく思う。
けれど、サーヤは自分とこの家族の距離が、これ以上縮まらないことを知っていた。兄妹同然に育った相手が、それ以上の関係にならないことを知っていた。
そのことが、サーヤには堪らなかった。
とても近くにあったのに、決して届かなかったものだから、苦しかった。
「馬鹿息子に用なら、伝言くらい承っておくけど?」
ジュールの母親の申し出を、サーヤは首を振って断った。
「大丈夫です、ちゃんと自分から伝えます」
サーヤはどうにか笑みを作ると、みんなには内緒で山に入った。
◇
そのころ、ジュールはクマと格闘していた。
弓を持って来ていたのだが、至近距離で思いがけずに遭遇してしまい、あっという間に肉薄されてしまったのだ。降り積もった雪に足音を殺されていたせいでもあった。
とにもかくにも、クマと素手でのタイマンだ。
猟師といえど、普通に考えて勝ち目のない状況だった。
ジュールは死を覚悟した。彼の父親と同じ末路を想像した。猟師として命を狩る限り、そういうこともあると思っていた。それがたまたま今日かもしれないだけのこと。
だから、改めて心の準備をしたわけではなかった。
けれど、まったく諦めてしまったわけでもなかった。
「幼馴染の晴れ舞台ッ、辛気臭い話題で台無しにできるかッ!」
ジュールはクマの強烈な前脚を前傾姿勢で躱した。
そして、自分から突進してクマの胴体に腕を回す。
そのまま、クマの巨体を持ち上げるように両腕で締め上げた。
全体重・全腕力をかけた、渾身のベアハッグだ。
およそ人間がクマ相手に使う技ではなかったが、ジュールは歯を食いしばり、真っ赤な顔で締め付けの威力を高めた。
背中から肩、腕にかけての筋肉が隆起し、全身から汗と湯気が噴き出す。
額には血管が浮き上がり、力みすぎたせいか鼻血まで出てきた。噛み締めた奥歯が、ギリギリと音を立てる。クマは両腕をバタつかせて抵抗したが、ジュールは意に介さず両腕を引き絞るようにさらに力を込めた。強靭な足腰と人間離れした腕力が、次第にクマの骨肉を軋ませ始める。
ジュールは雄叫びを上げて決め技に移った。
「ドオオオオオオオッッッせえええああああッッッ!」
ベアハッグからのブレーンバスター。
そういう技を知っていたわけではなかった。
ジュールが自分の膂力でやれることを考えた結果である。
そしてその結果、クマは脳天から地面に叩き付けられた。その巨体の重みすべてが頸椎に掛かり、巨体であるがためにクマは命を落とすことになった。
「はぁ、はぁ、流石に今日のは、二度とごめんだな……」
ジュールは大きく肩で息をしながら、独り言を呟いて反省した。
人間は素手でクマと戦うべきではない。
その後、クマを背負って山を下り始めると、慌てた様子のサーヤに出くわした。
ジュールは「おや」と目を丸くする。
「どうした、サーヤ。クマが出たってのに、山に入ったら危ないだろ」
「いや、その、すごい声が聞こえたから……アンタ、大丈夫だよね?」
「見ての通りだ」
ジュールは背負っているクマを揺すった。
「ちょいと素手でやり合ったから、でかい声が出た」
「ごめん。私の常識だと、人間はちょいと素手でクマを殺さない」
「俺も望んでやったわけじゃない。このクマだって望んではいなかったろう。お互いに運がなかった。まぁ、それでも今日は、俺の悪運の方が強かったらしい」
ジュールが歯を見せて笑うと、サーヤはすっかり呆れてしまった。
次いで、彼の笑みに釣られて笑い返した。
「アンタ、やっぱりスケールがでかいわ。私の手に負えない」
「なんだ、ちょっとは喜べ。お前の祝いの席に新鮮なクマ肉を添えてやったぞ」
ジュールは何気なくそう言った。
サーヤは表情を消して「うん」と頷いた。
彼女は作り笑いにすべての想いを隠して、元気を装って答えた。
「そうそう、私、明日結婚するんだ」
「何を今さら」
「アンタ、ちゃんと祝福してくれる?」
「それこそ何を今さらだ。兄妹同然に育ったお前のことだ。誰より盛大に祝ってやる」
ジュールはクマを背負って先を歩きながら、そう答えた。
だから、ジュールには見えなかったのだ。
そのときのサーヤが、どんな表情を浮かべていたのかなんて。
◇
「なんだ……やっぱり効き目ないじゃん」
サーヤはジュールと山を下りながら、彼の後ろ姿を見つめて言った。
彼女の首もとには、少し前に商人から買った〈恋愛成就のお守り〉があった。それを強く信じていたわけではなかった。ただ、縋るような想いで賭けただけだ。
「ああ~あ、ああ~あ、やっぱりだめか……」
もうどうにもならないとわかっていても、ずっと前から叶わないと知っていても、それでも何か奇跡が起きればいいなと、そう思っただけのことだ。
言葉で伝えられるほどの意気地のなかった彼女が、淡い期待を込めた安い首飾り。
淡くて、脆くて、そして、最後の希望だった。
でも、それは裏切られてしまった。
「ああ~あ……」
本当に強く信じていたわけではなかった。
けれど、最後の小さな希望が潰えた瞬間、彼女に胸に去来した感情は、紛れもなく――絶望だった。