救われた馬鹿
◇
ジュールは走った。
ボロボロのラーズを担いで、もはや意味を失った勇者の剣を引き摺って。
どこを目指しているわけでもなかった。
ただの敗走だ。
できれば医者のいる場所に行きたいと思っていたが、レイオンたちに見つかる可能性を避ける必要があった。隣町程度では安心できない。どこか遠く、すぐに追いつかれないようなところまで逃げる必要があった。
ジュールはだから走った。
体力には自信があった。丈夫な身体が取柄だった。
ラーズのためだったら、どこまでだって走ってやるつもりだった。膝が砕けようが、足が擦り切れようが、構わないと思っていた。
大切な親友なのだ。
亡くしてはならない相棒なのだ。
他の誰より、何より、支えてくれた男なのだ。
走り続けるジュールは、この寒さの中、汗だらけで湯気を立てていた。反して、ラーズの身体は段々と冷たくなっているような気がした。
右手の変質は少しずつ進行して、今では二の腕までが黒い岩石のようになっている。
いつしか雪が降り始めていた。
「とまれ」
ラーズがそう言った。ジュールはだから止まった。
「おろせ」
ラーズに言われるがまま、ジュールは彼を地面に下ろした。
「馬鹿ちゃうか、お前」
ラーズがそう言うので、「そうかもしれない」とジュールは答えた。
ラーズはすっかり呆れた様子で、大の字に寝っ転がった。
というより、身体を支えることもできないほど衰弱していた。
大槌の一撃が、肋を砕き、内臓を破壊していたからだ。
すっかり死に体で、それでもラーズは笑いながら言った。
「お前、馬鹿みたいに人を信じるっちゅうんは知っとったけど、人を騙すんが絶望するほど嫌いっちゅうんは、どういう理屈やねん。不器用っちゅうか、なんちゅうか、馬鹿正直を拗らせてここまでなる人間、他におらんやろ」
「そうかもしれない」
ジュールはそう答えた。自分でも理由は知らなかった。
ただ、昔から大嫌いだった。人を騙すこと、嘘を吐くことが。
人を信じていたかった。
それと同じくらい、人に信じてもらえる自分でありたいと思っていた。
だから、騙されてもいいと思っていた。自分は運がよかった。大きくて頑丈な身体に生まれていたし、失敗を笑い飛ばす友人にも恵まれた。
だから、人に騙されたって耐えられる。
それによる不利益くらい、自分で背負ってみせる。そう思っていた。
疑うことで守られる利益より、信じることで生まれる絆こそを尊んだ。
けれど、今回のはダメだ。自分が馬鹿みたいに信じたせいで、仲間たちまで巻き込んでしまった。自分の馬鹿さが仲間を騙し、仲間の信頼を裏切ってしまった。
ジュールの右腕の変質は、気づけば肩口まで迫り上がっていた。
ラーズはそれを見て、昔の誰かを真似て言った。
「おい、絶望するんはその辺にしとけぇや。お前まで怪物になるんかい?」
昔、誰かが口にした台詞。それによく似ていた。
「絶望することなんか、ないんやろう?」
ラーズは笑った。
顔色は真っ白で、頬に落ちた雪が中々解けなかった。
「お前が勇者なんやから」
ジュールは答えることができなかった。
ラーズはすっかり呆れ返った様子で、馬鹿を見るような優しい目で続けた。
「勇者っちゅうんは、職業でも、家名でも、国家資格でもない、せやろ?」
「ああ?」
ジュールは首を傾げながら頷いた。よくわかっていなかった。
ラーズは「察しの悪いやっちゃでホンマに……」と悪態と血反吐をぶちまけた。
「まぁ、ええわ。一度しか言えんと思うから、よう聞けや」
「ラーズ、お前は――」
「騙された反省は勝手にやっとれ。今後の生き方は知らん。せやけど、今回限りの裏技だけは教えたるから、耳かっぽじってよう聞けや。ありがたい、大僧正サマの御言葉やぞ」
「……ああ、傾聴しよう」
ジュールが頷くと、ラーズは不敵に笑った。
喉の奥に詰まった血の塊を吐き捨てて、絞り出すように言った。
「お前が勇者になれ。その偽もんの剣ブン回して、怪物ども倒して、元凶とやらも全部ぶっ潰して、お前がその剣を本物にしてまえ。詐欺師の大嘘を真実に変えてまえ。誰をしばいたら終わりにできるか、お前の目ならもう、わかっとるはずやろ?」
「ああ、あの男が使ったのは――黄金のオイルの剣術だった」
「ふふ、お前は相変わらずええ目をしとる。後はその調子で、いつもみたいに『俺は勇者のジュールだ』って馬鹿みたいな名乗りを上げて、絶望の縁に立つ人間の隣で『絶望することはない』って馬鹿みたいに大笑いするんや。お前なら楽勝やろが……」
「俺にまた、出来るだろうか?」
「大僧正が保証したる」
ラーズはもう二度と開けないつもりで瞼を閉じて、にっと笑った。
「お前は、俺を救った正真正銘の〈勇者〉やからな」
ラーズはそれだけ言い残した。
そして、二度と瞼を開くことはなかった。
ジュールは、勇者の剣を持って立ち上がった。
雪の降りしきる、凍えるように寒い日だった。あたり一面に雪が積もり、視界すら吹雪いて白く霞むほどになっていた。
けれど、ジュールの周りだけは、決して雪に侵されることはなかった。
ジュールの右腕は燃えていた。
黒く冷えた溶岩のようだった腕が、内側から赤くなり、比喩ではなく燃え上がる。生まれたばかりのマグマのように赤々と熱せられていた。ジュールの右肩から、右腕から、その手に握られた剣から、揺らめく炎が生まれ続けている。
「ああ、そうだったな」
ジュールはそう答えた。
それはすでに独り言になってしまっていた。
「お前を信じよう」
それでも、彼はそう続けた。
すべての仲間を失って、たった一人で荒野に立っていた。
◇
多くの死をもたらす、長い冬が訪れていた。
凍てつく風の冷たさのせいもあったが、もっとおぞましいものたちが村々を闊歩していたからだ。あの怪物たちだった。
夜に一、二匹が現れるのみだった怪物たちが、その冬からは群れを成し、組織だって人々を襲うようになっていた。その凶事に昼と夜の区別はなく、村人たちはわずかな食料だけを携えて故郷を捨てざるを得なかった。
怪物に追われて難民となった人々に対しても、寒波は容赦なく手を伸ばした。
吹雪は人々を凍え上がらせて、身体の弱いもの、体力のないものから、順番にその命の温もりを取り上げてしまった。
絶望が広がると、怪物はさらに数を増した。
怪物を倒すために編成された軍隊の中からですら、怪物は生まれた。そして、組織を内側からグチャグチャにしてしまった。
冷たい、暗い、恐ろしい、冬の時代がやってきていた。
各地の人々は救いを求めていた。
そして、少し前まで聞こえていたあの噂が、パタリと止んでいることに気がついた。みなの待望する勇者の噂が、嘘のように絶えてしまっていた。
寒さが厳しくなるにつれて、人々の心から少しずつ、勇者への期待が薄れていった。




