悔恨の老剣士④
◇
怪物オイルがラーズに襲い掛かる。
「――――ぐッ!」
ラーズは三叉槍を振り回して受けに徹していた。
否、攻めに転じることができないのだ。
怪物オイルの剣術は卓越していた。
まさに無双の剣だ。
腰と左腕、肩や背筋の最小限の捻りが、剣先に異常な速度を生む。そのせいか、軽く当てられたと思うような一撃でも、思わず仰け反らされた。
少しでも下手に受ければ、三叉槍を軸ごと折られかねない。
「ほほほほう……すすす少しは、受けるか……ににに二十点はやれるな」
「――――ッ!」
余裕を見せる怪物オイルに対して、ラーズはいつもの悪態を吐く暇もない。殴り飛ばされて起き上がって来ないジュールも気がかりだったが、そちらにはハッカとドグが向かっていた。
だから今は、少しでもこの怪物を引きつけておくことが彼の役目だ。
すると、怪物オイルが、ラーズの焦燥を見透かしたように言う。
「どどどど、どうした……ごご五点がそれほど……ききき気になるか……?」
「テメェッ……アイツを舐め腐るなやッ、この老いぼれ風情がァッ!」
ラーズが歯を剥き出しに吠えた。
怪物オイルの豪剣を怪物化した左手で弾き上げて、右手一本で三叉槍を繰り出す。怪物オイルはひらりと身を翻して躱すが、そこにアウロラの矢が迫った。
即席とは思えない、上手い連携だ。
ラーズとアウロラは勝利を確信した。
(――殺ったやろッ!)
(――射貫いたぞッ!)
決まるかに思われた一撃は、しかし、左腕の剣で容易く叩き落される。
人間を超越した、怪物的な視野と反応速度――複眼の恩恵だ。
オイルは大きく飛び退いて態勢を立て直すと、右目を眇めてアウロラを見る。
「とと飛び道具は……ややはり、す、好かんな……」
「このッ、バケモノッ!」
アウロラが矢筒から二の矢を引き抜く。しかし、それを放とうとした瞬間、アウロラは矢を取り落とした。矢羽を掴む指に鋭い激痛が走ったのだ。
痛みの正体はその辺りに落ちている石ころだった。
怪物オイルが右手の親指で弾いたのだ。
そして、アウロラが痛みの正体に気づいたときにはもう、怪物オイルは彼女の懐にまで迫っていた。
アウロラは咄嗟に短刀を抜き放つ。
怪物オイルの左腕の刃が、その短刀を真っ二つにへし折った。
その衝撃にアウロラは大きく仰け反らされる。怪物オイルは、バランスを崩したアウロラの右腕を掴み上げると、握力に任せて腕の骨を折った。
「ぐうっ―――あああああああッ!」
「ふんん……こここれでは……ててて点はつけれれれんんんな」
「キぃぃエエエエエエッッッ!」
ラーズが電光石火の突きを放つ。
怪物オイルはアウロラを雑に放り投げると、嬉々としてラーズの槍を受ける。
三叉槍から繰り出される、突き、打ち込み、払い――変幻自在のラーズの槍術を、左腕一本で完全に受け切っていた。
「おお覚えが、あるぞ……ここの槍術、りりりり流派は、なな何だったか……?」
「名前なんぞ覚えんでええわッ、直接脳髄にぶち込んだラァッ!」
ラーズは体力の限り、槍を振るい続けた。
しかし、ラーズの槍が怪物オイルに届く気配はない。実力の差は明白だ。
それはラーズが、一番よくわかっていた。
戦い続けて改善するような状況ではない。
事実、体力に陰りが見え始めたころから、ラーズは怪物オイルの攻撃をもらう回数が増えていた。致命傷だけは避けながらも、浅くない刀傷や打撲の痕が、身体の至るところに刻まれていく。
それでも、ラーズはひたすらに耐え続けた。
耐え続けられるだけの希望が、彼にはあった。
彼にはその昔、自分を信じて戦い続けてくれた男がいた。
その男のことを知っていた。
だから、ラーズは戦った。戦い、耐えながら、彼もまた待ち続けた。
反撃のときを――彼のよく知るあの馬鹿を。
「もう、よよい……貴様のててて程度もおよそわかった……ろろろ六十五点」
怪物オイルが、そう言ってボロボロのラーズを蹴り飛ばした。
ラーズは受け身を取り、三叉槍を地面に突き立てて踏ん張った。三叉槍に縋り、それでどうにか立っているような有様だった。血を流し過ぎていた。
肩で息をしながら、けれど、その目は猛禽のように鋭く、食らいつくように怪物を睨み上げている。
怪物オイルが言った。
「ききき貴様らは……まままとめて不合格だ……」
「はぁ、はぁ……よう見たんか、ボケ」
「こここれ以上は……じじ時間の無駄だだだ……」
「はっ、テメェに聞いとらんわ、老いぼれカマキリ」
「なななん……だと……?」
そのとき、勇者の剣が走った。
怪物オイルは軽く受け流そうとして、受け流し切れずに二の腕に切り傷を負う。
勇者の剣が、続けざまに怪物オイルを攻め立てた。
怪物オイルは大きく飛び退くと、自分の二の腕の傷をまじまじと見つめた。
理解ができないように、顔を直角に傾ける。
何が起きたのかわかってはいるが、納得できない。
自分が五点をつけたばかりの人間に傷をつけられたのだから、無理もない話だ。
怪物化する前の〈黄金のオイル〉ですら、理解に苦しんだことだろう。
ラーズは尻餅をつき、隣に立つジュールを見上げて言った。
「待たせすぎやろ、授業料請求すんぞ」
「悪かったな。だが、十分に見させてもらった」
ジュールが笑い、ラーズが笑い返した。
ジュールは、勇者の剣を左手に構える――怪物オイルがそうするように。
その怪物オイルは、傾げた首でジュールを見た。
「ごごご五点だと……そそその構えは、わわわ我がががが……?」
「高潔な剣士だったと聞いている。その姿が、本来の貴方ではないのだろう」
ジュールは隙なく剣を構えたまま、神経を研ぎ澄ませていく。
仲間たちの命、その重圧を背負っていながら、ジュールはなおも笑う。
決して絶やさない不屈の笑みこそが、彼の力の源であった。
「貴方の絶望はここまでだ」
燃えるような夕日を背負って、ジュールは不敵に宣言した。