軍医と弓使い④
◇
「本当に溺れ死ぬかと思った……」
川から引き上げられた直後、ジュールはそう言った。
夏とはいえ、真夜中の川に飛び込むと流石に寒かったらしく、ジュールは唇を青くして小刻みに震えている。その様子を見ていると、ラーズもなんだか不憫な気がしてきた。
「いや、遅れたのはすまんかったけど、怪物瞬殺して川で溺れてるとは流石に誰も思わんやんか……」
「ジュールさんにもできないこと、ごほっ、あったんですね……」
「泳ぎだけは、ガキのころから苦手だ……」
「まぁ、お前は鉛みたいに重いやろうしなぁ……」
「確かにジュールさんは、ごほっ、水に浮かないイメージありますね……」
「人間の身体は、水に浮くようにはできていないんだよ……」
三人は川岸でいろいろと残念な表情を浮かべ合う。
そこでふと、ジュールは先ほどまで自分が怒っていたことを思い出した。
「そうだ。今回の怪物、なんだか胸糞悪いことをしていたぞ」
「いつものことやないか、奴らが胸糞悪いんわ」
「いや、女性の服の下に潜り込んで、弄んでいるような感じだった。顔もどこか笑っているような印象を受けたが、そんなの、今までになかっただろう」
ラーズもハッカもすぐさま顔を顰める。
それは確かに妙だった。
今までの怪物は、人に擬態しているときならまだしも、怪物の姿に変身した後では、シンプルに殺すことしかしていない。というより、擬態を解くと知性が獣レベルまで下がる印象があった。
それが今回は「女性を弄ぶ」という、ある種の人間じみた意思を見せた。
ラーズは勇者の剣から水気を拭き取りながら、ジュールの懸念に理解を示す。
「変身後まで人間じみた意思を維持している怪物。そんなもんが本当に出てきよったら、かなり厄介な敵になるかもしれんな」
「ああ、今回のは胸糞悪いだけの馬鹿だったが、馬鹿ばかりとも限らん。真っ当に戦いに頭を使うヤツが出回りはじめたら、今までのやり方では通用しなくなるかもしれない」
「……ごほっ、ごほっ」
「まぁ、先の心配は後やな。今はハッカを医者に――」
「医者が必要かい? それなら、任せてくれていい」
ジュールたちが声の方に振り返る。
そこには右肩を押さえて歩くアウロラと、白衣を着た中年の紳士がいた。
栄光の白港から来た軍医、ドグだ。
ドグは眼鏡の奥の目を細めて柔和に笑うと、三人組に向かって言った。
「連れが世話になったね。さぁ、私の患者はどちらに?」
◇
ドグに案内されたのは、彼が部屋を借りている宿屋だった。
ドグはジュールたち三人を自分の客室に案内すると、ハッカの診察に移った。本職の医者はやはり手慣れており、すぐに診終わると大きな鞄から薬を取り出す。
「咳が出ているけれど、無理に止めるのはよくない。それでも、あまり苦しくなるようだったらこの薬を飲みなさい。しばらく呼吸が楽になる。一番は、体調がよくなるまで安静にしておくことだ。話を聞いた限り、旅の疲れもあるだろうから」
「ごほっ、その、ありがとうございます」
「礼儀正しい少年だ。さっ、今日はもう休むといい」
ドグはそう言って、自分のベッドをハッカに貸し与えた。そして、ハッカを横に寝かしつかせた後で、ジュールたちに向き直る。
ジュールとラーズは、客室の壁際に立っていた。
ドグが「もう一度、話を聞きたいのだが……」と切り出す。
「君たちが、最近噂になっている〈勇者一行〉ってことでいいのかい?」
「噂の方は知らないが、俺は勇者のジュールだ」
「あちこち回って怪物どもを倒しとるんは事実や。まぁ、証拠らしい証拠はないけど、実力だけなら、さっきもこの馬鹿が示した通りやろ」
「いや、疑っているわけではないんだ。ただ、噂といささか齟齬があったものだから」
「噂と齟齬とは、どういうことだろう?」
「いや、勇者は黄金の髪をした美青年だとか、美少女を連れているとか、そんな噂がね」
「そらぁまぁ、勇者に夢見すぎやろ……」
「ハッカだけなら、遠目に見れば美少女に見えんこともないが」
「というか、俺がおらんやないか、俺が」
「そうだな、ハゲの槍使いの存在は、影も形もないな」
「誰がハゲや、誰が、この生え揃い出した毛並みが見えんのかい?」
「毛並みって人間にも使う言葉か?」
「ふふっ、まぁなんだ。噂より随分と愉快そうな人たちだ」
「おい、言われてるぞ、ラーズ」
「責任の半分はお前で受け持たんかい、ジュール」
二人が責任の配分を押し付けあっていると、客室のドアが開いた。
入ってきたのはアウロラだ。
どうやら戦闘時の汚れを落として来たらしい。鎧や鎖帷子を脱ぎ、緩やかな木綿のシャツに着替えると、戦闘時の武骨な印象が消えていた。
洗いたて髪を肩に流している様子は、女性的で色っぽくもある。
アウロラは努めて感情を抑制した顔で、ジュールに向かって言った。
「宿の人にお湯を用意してもらいました。貴方も身体を拭いて来てはどうでしょう。川に落ちたままでは、貴方まで風邪を引いてしまう」
「それはありがたい。ラーズ、ここは頼めるか」
「おう、こっちは任しとけや。いろいろ情報交換しとくわ」
「ああ、頼んだ」
ジュールはドグに向かって一礼すると、アウロラの案内に従い部屋を出た。
◇
お湯を張った大盥は、宿屋の厨房に置いてあった。
真夜中に起きて準備してもらったのだから、文句を言える筋合いではない。
ジュールは濡れた衣類をまとめて脱ぐと、大盥に胡座をかき、綺麗な布を入れて身体を拭いた。それだけでも、芯まで冷えた身体が蘇るようだ。
ジュールがお湯の暖かさに一息吐いていると、厨房の外に立つアウロラが言った。
「濡れた服は後で預かりましょう。宿屋の人が綺麗に洗って干してくれますから」
「それは助かる。急ぐ旅だと、身綺麗に保つのが難しいんだ」
「そうですか……」
アウロラが小さく答えた。それからしばらく応答はない。
ジュールは無言を苦にしない男だったので、アウロラの気配は感じながらも、黙々と身体を洗った。
ジュールの身体のあちこちには、小さな擦り傷や痣があり、お湯が触れるたびにちくりと痛んだ。
アウロラの声が壁越しの背中に掛かる。
「貴方は、いつもあのように戦って来たのですか?」
「どのように映ったかはわからないが、いくつもの戦い方を使い分けられるほど、俺は器用ではないからな。素人剣術でやれることを、その都度やってきたまでだ」
「そうですか……その……貴方は、どう思いますか?」
「どうとは、すまない、何のことだろう?」
ジュールは質問の意図を読めずに振り返る。
とはいえ、壁越しでは何もわからなかった。
「……のことです」
「すまない、壁越しのせいかよく聞こえない」
「私が、あの怪物にされたことです。わ、私はその、汚されてしまったのでしょうか?」
アウロラが震えた声で言うので、ジュールは顔を押さえて呻いた。
これは荷の重い話が来たぞ、と頭を抱える。
純潔云々の話は問題ないだろうが、女性が意図されずに肌を蹂躙されたのだ。その不快感や嫌悪感たるや、ジュールには計り知れないものがある。
その現場を見ていたのは、ジュールただ一人であり、彼女がジュールに訊くのは無理もないが、ジュールには「自分は女性を上手に慰められない」という自覚があった。
死んだ幼馴染にも「アンタは鈍い」とよく怒られたものだ。
ジュールが猛烈に考え込みながら黙っていると、アウロラはその沈黙を悪い方向に勘違いしたらしく、壁の向こうですすり泣く音が聞こえてくる。
ジュールは女性を慰めることを苦手としているが、それ以上に女性に泣かれることが苦手だった。
そして、不器用なりにどうにかしようとした結果、ジュールはバグった。
「ここは一つ、俺が面白い話をしてやろう」
「いやあの、突然どうして……?」
「あれは夏の盛りのことだった。俺とラーズは、全身が岩のような怪物と戦っていた。そのとき、俺たちはわけあって上半身裸だった」
「それはあの……貴方たちも怪物にあられもないことを……?」
「いや、あれは自発的に脱いだんだ」
「そ、それではまるで、へっ、変質者ではないですか!」
「落ち着いて聞いてくれ。俺は勇者のジュールだ。変質者なわけがない」
「し、しかし、怪物相手に――脱いだのでしょう!?」
「そうだ。しかし、それには戦術的な理由があり、追い詰められた俺たちは、やむにやまれず脱いだんだ。上半身裸にならなければ勝てぬほど、相手も強敵だった。男には脱ぎたくなくとも脱がねばならないときがある」
「とっ、殿方というのは、じょ、上半身裸の方が、お強いものなのですか……?」
「時と場合によるが、そういうこともある」
「し、知りませんでした。まさか、そのようなことが……」
「話を続けるぞ。俺とラーズは上半身裸で怪物と激しくやり合った。特に俺なんかは、怪物と組み合ってくんずほぐれつだ。それはもう、酷いことになった。お互いの汗やら涎やらで全身ベトベトになるし、肩も胸も擦れまくりでズル剝けだ。だが、これまでの旅を振り返ってみると、怪物との戦いとは得てしてそういうものだ。ぶつかり合いの連続だ」
「は、はぁ……なるほど?」
「つまりだ。アンタも気に病むことはない。戦闘中に身体が接触するのは当然だ」
ジュールはそれらしい結論に不時着して、ほっと胸を撫で下ろす。
見切り発車で適当に話していたのだ。
気づくと、壁の向こうでクスクスと笑う声が聞こえる。ジュールも高らかに笑い返した。
すると、すぐにラーズが飛んできて「真夜中に馬鹿でけぇ声で笑うな、他の客に迷惑やろ!」と拳骨を落としていった。
ジュールは「いや、お前の声の方が……」とぼやき、アウロラは忍び笑いを浮かべた。




