軍医と弓使い③
◇
夏の終わりが近づき、朝夕はやや肌寒くなり始めたころ。
村をつなぐ街道の途中で、ハッカが熱を出した。
「いや、大丈夫ですから、ごほっ、ただの風邪ですよ?」
ハッカはそう言って心配する二人に笑ったが、ラーズが「拗らせるとマズい、早いところ次の町で医者に診せよう」と強く主張した。
身体の弱い妹を持っていた、彼らしい判断だ。
そういう事情のもと、ジュールとラーズは交代でハッカを背負いながら、夜を徹して街道を走っていた。ハッカは二人の背中でじっと目を瞑っている。
今夜は雲も疎らで、星々の明かりだけでも遠くまで見通せた。徐々に涼しくなりつつある晩夏の夜風が、彼らの汗をそよと撫でていく。
起伏の少ない平坦な街道を走りながら、ラーズは隣のジュールに訊いた。
「はぁ、はぁ、ジュール、はぁ、そろそろ変わるか、背負うの……?」
「いや、俺はまだ体力的に余裕がある」
「そうか、はぁ、なら、もうちょい、頼むわ……というか、なんやねん、その、雑に頑丈で疲れ知らずの身体は……前世が馬とか、鹿とか、そういうことかいな……」
「どれだけ辛くても悪態は欠かさないのか、お前も律義だな」
「はぁ、うるせぇわ、ぼけぇ……」
「おっ、そろそろ見えてきたんじゃないか、あれだろ?」
「どれやねん……お前の視力と一緒にするなや……ハッカも何微妙に笑っとんねん」
「り、律義だなって……くふふっ」
「おいこらジュール、病人笑わせてどないすんねん」
「笑うのは健康にいいとも聞くぞ。というか、俺が悪いのか今の?」
三人が馬鹿を言い合っている間にも、目的の町には着実に近づいていた。
ラーズにもようやく見えてきた町は、ジュールやハッカの村に比べてずっと大きく、人の行き来も盛んな場所だった。最近はこういう大きな町を訪れる回数も増えている。
ペテンの魔王の情報を追っていると、人の出入りの盛んな場所を目指すことになるからだ。
それに従い、彼らの旅も次第に内海側へと近づきつつあった。
日付が変わるか、変わらないかというところで、ジュールたちは町に着いた。
川沿いに石造りの倉庫や商店が立ち並ぶ、交易の町である。とはいえ、流石に真夜中にもなると通りに人の往来はなかった。川のせせらぎが聞こえるばかりだ。
「よっしゃ、とりあえず……まずは……医者に……」
ラーズは膝に手を着き、息を切らしつつ言った。
それにジュールが「待て」と応じる。
ラーズが「あん?」と首を傾げた。
「何か聞こえる、ヤツらかもしれん」
「着いて早々、怪物退治……かいな……俺にはなんも、聞こえんけど……」
「いや、弦音だ。確かに聞こえた。誰か戦っているな。ラーズ、ハッカを頼む」
「アホ抜かせ、俺も……やれるで……」
「いや、ハッカを見ていてくれ。手こずるようなら、火薬で合図を出す」
ジュールはそう言い残すと、ラーズにハッカと荷物を預ける。そして、勇者の剣とハッカの用意した火薬だけ持って、弦音の方角に走り出した。
◇
女がひとり、川沿いに並ぶ倉庫の上で弓を構えていた。
栄光の白港から来た弓使い、アウロラだ。
鎖帷子の上から軽い革鎧を纏い、左手に短弓を持っている。腰には矢を入れる筒が下げてあり、そして今、彼女は片目を押さえて呻いていた。
「また外したというのか、この私がッ」
弓の名手である彼女にとって耐えがたい屈辱だ。
しかし、外すのも無理のない状態だった。
怪物と遭遇した出会い頭、怪物からタコ墨のような黒い液体を吹き付けられていたのだ。そのタコ墨のせいで右目の視野が利いていない。
加えてタコのような触手と頭を持った怪物は、体色を自由に変化させて、夜の町並みに同化してくる。視界を制限された状態で、これを射貫くのは難しい。
「ようやく見つけた怪物だぞ。取り逃がしては、リピュア様に合わせる顔がない」
アウロラは怪物を見失わないよう、不安定な屋根瓦の上を駆ける。
タコ型の怪物は、触手の吸盤を使って倉庫の屋根や壁を自由に這い回った。
そのうねうねと動く様子は、アウロラの目を嘲笑っているかのようだ。
「怪物風情がいい気になるなッ」
アウロラが三度矢を放つ。
短弓にも拘わらず、石壁を穿つほどの強弓だ。
それはついに怪物の触手の一本を捕らえた。
矢は触手を貫通し、倉庫の壁まで食い込む。
怪物は釘付けになり、ジタバタともがいた。
「はっ、これでいい的だ」
アウロラは矢筒に手を伸ばし、次の矢を番えようとして瞠目する。
タコ型の怪物が、射貫かれた触手だけ残して消えたのだ。
タコやトカゲが持っている能力――自切である。身体の一部を切り離して敵から逃げる動物たちの技だ。そしてまた体色を変化させて闇に紛れる。
「このッ、小癪なタコめ……」
アウロラは霞む目を細めて、首をあちこちに振る。
そのとき、彼女の足首にぬるりと触手が巻き付いた。アウロラが気づいたときにはもう、怪物の触手が彼女の腰まで伸び、革鎧の隙間から内側にまで這い入っている。
触手はそのまま鎖帷子の下にまで潜り込むと、内側から鎖を引きちぎり、アウロラの鍛えられた肌にヌメヌメと絡みつき、這い回り、巻きついて絞め上げた。
アウロラは反撃しようと矢を抜いたが、その右手も怪物の触手に封じられる。
「このタコ、どこをまさぐってッ――――くぅっ!」
「ゲエッ、ゲエッ、ゲエッ」
「このッ、下衆がッ」
怪物は黒い嘴じみた口で笑うと、さらにアウロラを絞めにかかる。
触手が幾本も彼女の革鎧の下に潜り込み、彼女の引き締まった肌の上を這いずった。
臓腑と気管が絞まり、アウロラが呻き声を漏らすと、怪物はにたりと目を細めて、触手が笑うように脈打つ。
アウロラが、ついにキレた。
「お前だけは絶対ッ、ぶち殺してやるからなッ!」
アウロラは力づくで右腕を引き抜きに掛かる。
「なッ、くぅッッ、あああああああああああ!」
右肩が軽く脱臼した。
しかし、それと引き換えに腕を引き抜くことはできた。激痛を堪えながら、アウロラは口で矢を番える。
硬い弦を腕と顎の力で強引に引き絞った。
怪物はその矢も取り上げようと触手を這わせるが、わずかに遅い。
――カンッ!
という鋭い風切りの音。
それと同時に、アウロラの矢は怪物の片目に突き刺さった。
「キュキュイ~~~ッッッ」
「はっ、ザマァミロ」
アウロラが勝ち誇った瞬間、彼女の身体は宙を舞った。怒った怪物が、絡んでいた触手を振るって彼女を投げ飛ばしたのだ。
二階建ての屋根から落下。
向かう先は硬い石畳の上だ。
片腕の動かせないこの状況、投げ出された無理な態勢――受け身の取りようがなかった。
彼女の脳裏に最悪の未来予想が過ぎる。
けれど、屋根から投げ出された直後、彼女の首根っこを掴んで引き戻す男がいた。
その男――ジュールは猛烈に走り、アウロラを屋根の上に引き戻す。
そして、その猟犬のごとき勢いを維持して怪物に突っ込んでいく。
アウロラは尻餅を着いて、その男を見た。
勇者の剣を抜き放ったジュールは、珍しく怒りを露わにしていた。
双眸をぎらつかせながら、黙って剣を振り被る。
「…………」
普段の名乗りすらせず、ジュールは怪物に肉薄した。怪物は即座に触手を振るうが、ジュールは近づいたものから輪切りにする。
怪物は怯んだように一歩下がった。
ジュールが無言で三歩詰める。
「…………」
ジュールの踏み込みが屋根瓦を砕き、勇者の剣が風と共に唸る。
「ゲェッ、ゲェッ!」
タコの怪物は触手をさらに自切して、ジュールの一撃を空振りさせた。そして、素早く体色を変化させると、闇に紛れながら屋根の外へと飛び出す。
飛び出した先には運河があった。川に逃げ込むつもりだ。
「逃がすものか」
そのとき、ジュールが火薬を打ち上げた。
ハッカの作った合図用の火薬だ。
その火薬は空に飛び上がると、花火のように一時眩しく輝いた。
その輝きが怪物の姿を夜の闇から浮かび上がらせる。
ジュールは怪物を追い、寸分も躊躇わずに屋根の縁を蹴った。怪物は苦し紛れに墨を吹きかけたが、ジュールは瞬き一つせずに勇者の剣を振り上げる。
「ドオオオオオッッッせえええああああッッッ!」
そして、ジュールは怪物が着水するより早くその頭蓋を真っ二つに叩き切ると、馬鹿でかい水柱を立てながら川に落っこちた。
ちなみにジュールは金槌だったので、合図で駆けつけたラーズとハッカに引き上げられるまで、ひとしきりバシャバシャしていた。




