僕のヒロインは逃げ出さない
「大丈夫。私はもう手遅れだけど、彼女は「こちら側」に必ず連れ戻しましょう」
僕の机から腰を上げ、丁寧に乱れたプリーツを直しながら零前院ユキは言う。
「手遅れって‥‥」
「本当のことなの。さあ、大事な私の義妹ちゃんを助けに行くわよ、ワタナベくん」
***
「お兄ちゃんから離れて!この黒髪清楚系アバズレビッチ!」
「すごい言い草ね、貧乳まな板ロリちゃん」
僕の背中に当たるのは、柔らかく温かいふたつの肉まんのようなアレ。僕の腹に押し付けられるのは、柔らかく温かい小ぶりなふたつの肉まんのようなアレ。
今、僕は背後から零前院ユキに羽交い締めにされ、正面から妹の春香に思いきり抱き着かれている。
どうしてこんなことになったのかと言うと。
中等部中庭。僕と違い、妹には大勢の友人がいる。昨夜の出来事は夢だったかのように、妹はいつもの元気な笑顔を振りまき、同級生の女子数人と弁当を広げているところだった。
「ちょっと顔、貸してくれる?」
僕の制止も聞かず妹の前に立ちはだかった零前院ユキの手により、瞬く間に妹は庭の外れへと強制連行されてしまったのである。
喚く妹と嘲る彼女の交戦の末、なぜかこんな状態の僕が仕上がっていた。
「勝負よ、ハルカちゃん。今からこのワタナベくんをより気持ちよくさせた方が勝ちとしましょう。そのための手段は問わないわ」
「望むところよ!」
「ふたりとも、ちょっと待った!」
渾身の力で美少女達を振りほどく。
「零前院さん、ここに来た目的を思い出すんだ。春香を助けるとか何とか言ってたのはどこの誰なんだ」
腕を組み、じっと零前院ユキを睨み付けていた春香の肩が、ぴくりと跳ねた。
「お兄ちゃん‥‥この人にあたしのこと、話したの?」
僕は拳を握り、絞り出すように呟いた。
「話したよ」
裏切られたような失意の波紋が、徐々に春香の顔に広がっていった‥‥かと思えば、予想した反応とは大きく異なるものが返ってきた。
「そっか、この人も昨日屋上で手首、やろうとしてたよね。お兄ちゃんの、目の前で。お兄ちゃん、優しいから。こういう人ならあたしのこと、理解出来るんじゃないかって考えたんだよね。お兄ちゃん、春香のこと、ずっと悩んでいたもんね」
春香が僕に、笑顔を向けた。その辺の男なら、皆とろけてしまいそうな満面の美少女スマイル。
が、僕は素早く妹から身を引いた。
「走るんだ!零前院さん」
セーラー服のポケットから、妹が赤のカッターナイフを取り出し握り、静かに目を閉じた。
左手首に当てた刃が妹の薄い肌を切り裂き、そこから勢いよく吹き出したのは真っ赤な血液‥‥ではなく。
「ワタナベくん‥‥彼女、完ペキ『あちら側』の人になってるじゃないの」
僕の悲鳴のように発した指示を無視し、零前院ユキは目の前の光景を冷静に受け止めていた。
妹の手首から飛び散ったのは、赤い血ではなく、どす黒い色をした、霧のような「何か」だった。
僕がこの「何か」を見たのは4度目で、その3度目というのがまさにあの昨夜の出来事だったのである。
黒い霧はやがて数本の長いリボンのような形を作り、地面へと零れ落ちる。しばらくずるずると中庭の敷石の上を這ったかと思えば、突如意思を持ったかのように猛スピードで「標的」へと迫っていった。
「何か」が向かう先にあったのは、零前院ユキの華奢なローファーの脚だった。
「零前院さん!頼むから逃げてくれ!」
零前院ユキは逃げ出さない。
怯え震えるどころか、挑発的とも取れる微笑をその唇に浮かべ、こう言い放ったのである。
「義妹ちゃんは『こちら側』に必ず連れ戻すって、私約束したじゃない。例えその正体が、メンヘラのバケモノだったとしてもね」
***
僕のヒロインは明日も死ねない、かもしれない。
「あちら側」を知っていた零前院ユキと、僕の妹のバケモノの正体。