僕のヒロインは義妹は殺せない
その日の休憩時間、僕は初めて「寝たフリ」をしなかった。
なぜなら僕の机には、まるで以前からそうしていたかのように、零前院ユキのしなやかな身体が寄り掛かっていたからだ。
その格好があまりにも自然すぎて、初めはちらちらと物珍しそうに向けられていた好奇の目も、やがて気にならない程度に減っていった。
「寝不足かしら。目が腫れぼったいわよ、ワタナベくん」
「気にしないでください」
「気になるわよ。それと、私に敬語はもう使わないで」
結局、あんな事態に陥った昨夜は一睡も出来なかった。あまりの眠気と疲労感に、彼女が僕の机の上にその柔らかそうなお尻を預けたことも、組まれた形の良い脚も、もはやどうでも良くなっていた。
「妹さんのことでしょう」
「え?」
彼女のつるりとした黒髪が、僕の肩を緩く撫でた。
「昨日、見てしまったもの。妹さんの手首、私とお揃いね」
僕を覗き込む黒く大きな瞳の中に、彼女は決して心を現さない。零前院ユキに昨夜の春香の影を見て、気付けば僕は、彼女に昔話を始めていた。
***
一年前。
『痛くないか?』
『大丈夫』
僕は妹の傷付いた手首を消毒し、慎重に包帯を巻いている最中だった。
『お兄ちゃん、聞いて。あたしもうダメ。学校にもこのお家にも、あたしには、ハルカにはどこにも居場所がないの』
『うん‥‥』
『お兄ちゃんだけなの。ハルカにはお兄ちゃんだけなの。お兄ちゃんさえいればそれでいい、お兄ちゃん、ハルカを置いてどこにも行かないで』
包帯に緩みがないか検分し、救急箱の蓋を閉めた。
目の前には、顔面蒼白の僕の妹。
僕は、彼女の手を静かに握った。
『どこにも行かないで、って言われて思い出したんだけど‥‥兄ちゃん、今週の日曜に「きらシス」声優イベント行こうかなって』
『へ?』
『魔法マネージャー役の男性声優さんも登壇するらしいぞ』
『神〇ヒロシが!?』
『そう、神〇ヒロシが』
『あたしも行く、絶対行く!お兄ちゃん、連れてって!』
『じゃあまずは「きらシス」の復習から‥‥おっと、こんな場所に僕の作ったとっておきの「きらシス」布教用プレゼン資料が!』
精神不安定に陥った妹をこんな具合に落ち着かせ、彼女の心が「こちら側」に戻って来てくれるまで、僕はじっと手を握り続けた。
妹は、僕の本当の妹ではない。
僕の母の妹夫婦、つまり春香の両親は、車の事故に遭いこの世を去った。自分達が死んでしまったことに気付く暇もない、本当に一瞬の出来事だった。
奇跡的に一命を取り留めた春香は姉夫婦に迎えられ、彼女は僕の妹となる。
明るく可愛らしく気も強く、そんな彼女は時々壊れた。
僕に出来るのは、彼女の一時的な快復を辛抱強く待つこと。それだけだった。
***
「私のせいかしら」
零前院ユキと僕は、人気のない旧校舎側の自販機の前へと移動していた。僕が話をしている間、彼女は始終無言でミルクティーを飲んでいた。
「私が妹さんのスイッチを押してしまったんだわ」
「違うよ」
半分だけ空けたコーラの冷たさが、缶を握った手を通して、僕の全身を凍えさせるようだった。
「僕は結局、妹の抱える不安を今日まで放ったらかしにしてしまっていた。僕のせいなんだ」
不意に、凍えた身体を温かいものが柔らかく包み込んだ。
「ワタナベくんの妹なら、彼女は私の義妹ね」
頭を彼女の胸に抱き寄せられ、二つの丸い丘の間で、僕は情けなく呼吸を奪われた。
「大丈夫。私はもう手遅れだけど、彼女は「こちら側」に必ず連れ戻しましょう」
***
僕のヒロインは明日も死ねない、かもしれない。
僕の妹と彼女の間に、絆が芽生えたある日の記録。