僕の妹は彼女に殺されるかもしれない
「あいつは僕の妹なんです!」
放課後の屋上に響き渡る、悲鳴にも近い僕の訴え。
当の本人、ショートボブの小柄な女子生徒は透かさず僕をぎっと睨み付けた。
「渡辺春香、中等部2年B組。いかにもそこの殿方は私のお兄ちゃんよ、ご令嬢」
緩慢な動作で、零前院ユキはカッターナイフの刃を引っ込めた。風に吹かれる長い髪を片手で押さえながら、真っ直ぐに僕の妹を見据えている。
今ここに、ふたりの美少女の戦いの幕が切って降ろされた。そんなコピーでも入りそうな、この状況は何がどうしてこうなった。
***
「で、ワタナベくんの可愛らしい妹さん。なんで彼の恋人だなんて嘘をついたの?」
零前院ユキは瞬きひとつせず妹を見つめたまま。冷めた視線に物怖じもせず、春香は挑発的に腕を組む。
「本当のことだもの」
愛嬌と冷淡さが入り交じった春香の瞳。零前院ユキの眉がぴくりといかにも不快そうに動いた。
「あたし、お兄ちゃんのこと愛してるの。お兄ちゃんが16にもなって彼女のひとりも作れないのは、実の妹であるあたしを愛してしまっているからなの。零前院さん、何のつもりでお兄ちゃんとこんな場所に転がっていたのか知らないけど、あたしとお兄ちゃんの絆は絶対なの」
零前院ユキの纏う空気が一気にマイナスに冷え込んだ。僕は堪らず深い深い溜息を吐き出した。
「零前院さん、春香は極度のお兄ちゃんっ子なだけっていうか‥‥うちは両親共働きで、春香の面倒を見てた僕がちょっと甘やかしすぎたんだ。時々こんな変なこと言い出すんです」
「君の妹さん、別に変なことは言ってないわ。ワタナベくん」
静かに、どこか威厳さえ感じさせる声色で、彼女はそう呟いた。
そしてそのまま、白い上履きの冷たい足音と共に、僕の妹へと歩み寄ったのである。
「ワタナベくんの妹さん」
不意に彼女の白い手が、妹の肩にそっと触れた。腰を屈め、抱き寄せるようにそのまま小さな身体を引き寄せる。零前院ユキの、華奢な割には形良く盛り上がったブレザーの胸が、僕の妹の未発育のそこへ柔らかく押し付けられた。さすがの妹もそれにはたじろいだ様子で、そしてそんな光景を両目開いてガン見していた情けない兄をどうか許してやって欲しい。
「今日から私の恋敵ね、どうぞ宜しく」
「そしてこれは余計なことかもしれないけど‥‥最近の女子中学生は発育の良いイメージがあったのだけれど、あなたのこれは、お兄さまを誘惑するにはまだまだ可愛らしすぎるサイズだわ」
これが僕の気の強い妹の、完敗の瞬間である。
***
『ワタナベくん、明日から一緒に登校しましょう』
交換したLINEには、早々に零前院ユキからのメッセージが入っていた。
風呂上がりの僕はベッドへだらしなく倒れ込む。その画面を見つめたまま、こんなことになってしまった時系列を冷静に振り返る。
そして先程から僕に注がれる、ドアの隙間からの冷めた視線。
「入ってこいよ、春香」
「お兄ちゃん、あの人と付き合うの?」
ドアの向こうから微動だにしない彼女は淡々と、どこか責めるような口調で呟いた。
「僕のこと、きっとからかってるんだ。じゃなきゃ、あんな美人がなんで‥‥」
「お兄ちゃん!」
突然ドアが開け放たれた。思わず身を起こして見つめたその先にいたのは確かに僕の妹だけれど、その表情は、放課後のあの妹のそれとは別人のように異なっていた。
血色のいい頬は消え失せ、唇は酷く青い。ぽたり、ぽたりとインクのような液体が、その辺に投げっぱなしの「浅倉みおり」Tシャツの上に零れ落ちた。笑顔を浮かべたみおりの顔に、大きな赤い染みが広がる。
僕の心臓が、どくんと不穏な音を立てた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。あの人とお兄ちゃんのこと考えてたら、あたし‥‥また、しちゃった」
左手首には、紙で切ったような薄く長い傷。その傷の上下にも、同じものが幾つか痕になっている。
小刻みに震える右手が握り込んでいたのは、小ぶりな赤のカッターナイフ。零前院ユキのものとは違うメーカーの形。イラストは無く、シンプルなタイプ。
黙って妹の前に膝をつき、ゆっくりと指を開かせ、ナイフを静かに取り上げた。糸が切れたように妹は僕の肩へ崩れ落ち、僕はそっと両腕でその細い身体を抱き締めた。
前回のリストカットは一年前。衝動はとっくに治まったものだと思い込んでいたが、見抜けなかった自分を呪った。
「ダメなの。あたしやっぱり自分に自信が持てないの。お兄ちゃんがあたしを大切に想ってくれることだけが、あたしの最後の自信なの。そのお兄ちゃんをあんな人に奪われちゃったら」
「あたし、死んじゃうかも」
***
僕のヒロインは明日も死ねない、かもしれない。
次回は僕と、僕の妹の仄暗い過去の記憶。