1.賑やかな将軍家【改稿済み】
「母上! 僕の休みの日くらいリーナを解放してください」
ハルフォーフ家の長男ディルクが、妻のリーナを後ろに庇いながら母親に詰め寄っている。
四人の息子に恵まれた前ハルフォーフ将軍夫妻だが、とうとう娘を得ることはなかった。
母はかつて戦乙女と恐れられ、前将軍と結婚後も戦場を駆け巡るような武人ではあるが、実は可愛いものや美しいものが大好きな女性である。
娘が産まれたら着せ替え人形のようにかわいいドレスを着せたいと思っていたが、その夢は叶うことはないと諦めていた。
そんな中、ハルフォーフ将軍を継いだディルクが初恋の女性リーナと結婚したのだ。
まだ十八歳のリーナはプラチナブロンドの髪を持つとても美しい女性である。素顔は年相応でかわいらしいが、少しきつめの化粧を施すと冴え渡るような美女に変わる。リーナはまさに母の好みにぴったりの女性だった。
「東の国から民族衣装の献上があったのよ。それを王妃陛下より賜ったのだけど、スカート部分には膝上まで切れ込みが入っていて、体の線がはっきりとわかるほど身にぴったりなドレスなの。とても色っぽいわよ。しかも色は青碧。リーナさんにとても似合うと思うのだけど」
そんな母の言葉を聞き、ディルクは顔を真っ赤にした。扇情的なドレスを着たリーナを想像してしまったらしい。そして、無言で何度も頷いている。
三男のヴァルターは呆れたように首を振った。どうせ母に勝てないのだから、おとなしくリーナを差し出せばいいのにと思っていた。
「でも、そんなドレスを着たリーナを他の男には見せないから」
ディルクは兄弟にだって許せない。
「わかっているわよ。用意ができたら呼んであげるから、ここでおとなしく待ってなさい。さぁ、リーナさん行きましょう」
リーナも見たこともないドレスに少し興味があった。それに、男装した格好良い義母も大好きだったので、素直についていくことにする。
母に促されてリーナが出ていくと、賑やかだった談話室が急に静かになった。ディルクは母親の言いつけ通りに椅子に座っておとなしく待つつもりのようだ。顔が思い切り緩んでいる長兄を、ヴァルターは複雑な思いで見ていた。
五年前、大国ブランデスは新興国カラタユートに攻め込まれた。宣戦布告もない卑怯な侵略戦争である。
兵を率いて迎え撃つ前ハルフォーフ将軍と共に、母と四男以外の息子が参戦した。長男であるディルクが十八歳。次男のツェーザルが十六歳。そして、三男ヴァルターはまだ十三歳であった。
開戦から一年後、正々堂々と戦っていた前ハルフォーフ将軍は、カラタユートの卑怯な作戦で暗殺され、大国ブランデスは最大の危機に陥ってしまった。そんな中で、長男ディルクが将軍職を引き継ぎ、国を守るため悲壮なまでの覚悟で戦った。
ディルクは前将軍の部下であった部隊長たちに権限を与えて、どのような手を使ってでも勝てと命じた。そして、自らは派手な青碧の鎧をまとって囮として戦い、騎士道を頑なに守ろうとした父の名誉のため、汚名を一身に被って死のうとしていた。
戦場は綺麗事では決して勝つことができないほどの地獄だった。逃げることも壊れることも許されず戦い続ける偉大な長兄と、ひたすら兄を補佐する次兄のツェーザルを見て、ヴァルターはとても彼らのようになることはできなと思いつめた。そして、戦場から逃げてしまいたいと思ってしまった。
たった十四歳の少年にとってそれは当然のことである。しかし、ヴァルターは武で名高いハルフォーフ家の男であった。逃げるという許されざる思いを抱いてしまったことは、未だに彼の心の中で燻っている。
一年半前、カラタユートとの戦争が完全勝利で終結し平和が訪れても、ヴァルターの心はどこか壊れたままだった。
ディルクが終戦後に遅い初恋を経験し、紆余曲折を経て結婚したのは喜ばしいと思うヴァルターだが、リーナがどれほど大切か常々語っているディルクの気持が理解できない。そして、そのような感情を持つようなことは、今後もないだろうと考えていた。
「兄様、母様、いませんか!」
突然、玄関ホールから四男マリオンの声が響き渡った。
何ごとかと驚いたディルクとヴァルターが、慌てて玄関ホールへと向かう。
「あ、ディルク兄様、ヴァルター兄様。僕、このエルゼさんと婚約するから」
エルゼと呼ばれた女性の手を引いて、頬を真っ赤に染めながら、天使のような四男マリオンがそんなことを言い出した。手を引かれているエルゼの頬も赤い。
「マリオン、僕の耳がおかしくなったみたいだ。もう一回言ってくれないか?」
末の弟が婚約すると言ったようだが、聞き間違いかもしれないとディルクは思ってしまった。
マリオンはまだ十三歳で社交界へのデビューも済んでいない。そんな騎士見習いの彼に、かなり年上らしいエルゼと知り合う機会があったとはとても思えないディルクだった。
「だから、僕は彼女と婚約する」
マリオンは理解できていないような兄に焦れて、きっぱりと言い切った。
「本気か?」
まだ疑いの目で見ているディルク。ヴァルターも驚いてエルゼを見ていた。
「当たり前だろう。冗談で婚約するなんて失礼なこと言うはずはない。僕は見習いとはいえ騎士だから」
マリオンが胸を張る。戦争に行かなかった彼は優しくて穏やかなディルクしか知らない。そして、そんな兄が大好きであり、見習いたいと思っていた。
ヴァルターは、一途にディルクを尊敬しているマリオンのことが羨ましいと思っていた。ヴァルターにとって、ディルクは憧れることさえ許されないあまりにも偉大な存在である。
「あの、貴女は?」
戸惑いながらディルクはエルゼに訊いた。彼はほとんど社交界に顔を出さないので、令嬢の顔もろくに知らない。
「私はアスムス子爵の長女エルゼと申します。ハルフォーフ将軍閣下、突然申し訳ございません」
エルゼは慌てて熟女の礼をとる。彼女はディルクの顔を知っていたのでとても緊張していた。
兄がいるのに将来子爵位を継ぐとマリオンが言っていたので、複数の爵位を持つ高位貴族の令息かもしれないと思っていたが、まさか、国を救った英雄の弟だとは思ってもみなかった。
「そんなに緊張しないで」
震えるほどに緊張しているエルゼを見て、申し訳なく思いディルクはそう声をかける。
「でも、青碧の闘神様ですよね」
見上げるほどに大きいディルクであるが、顔は柔和で恐ろしい雰囲気は微塵もない。
「それ、ちょっと恥ずかしいから、止めてもらっていいかな」
ディルクは恥ずかしそうに俯く。
周辺諸国への威嚇のためと、部下の卑怯な作戦を隠蔽するため、ディルクには仰々しい二つ名がいくつも付けられている。そして、恐ろしげな伝説がまことしやかに流布されていた。
戦場で直にディルクを見たヴァルターなどは、その伝説が決して大げさではないと感じていたが、戦場でのディルクを知らない者は素顔との落差に戸惑ってしまう。
「それで、エルゼ嬢も冗談ではないと?」
ディルクに任せておけば話が進まないと感じたヴァルターは、自分が主導して話を進めようとした。
「は、はい。もちろん、結婚はマリオンさんが成人するまで待ちますが、婚約していただけると嬉しいです」
エルゼには先日まで七歳上の婚約者がいた。しかし、十三歳の少年との婚約を嫌った十五歳の侯爵令嬢に婚約者を奪われ、その少年との婚約を押し付けられそうになっていた。
実はその押し付けられそうになっている婚約者がマリオンであるが、元婚約者との婚約解消が衝撃すぎて詳しいことを聞いていないエルゼは、そのことを知らない。
見ず知らずの少年と政略結婚するくらいなら、優しくて強いマリオンと一生を共にしたいとエルゼは考えている。
燃え上がるような恋ではないかもしれないが、共に過ごしたいと思う信頼が確かにあった。
「困ったな。母上がマリオンとの婚約を打診している令嬢がいるらしい」
マリオンの婚約者として、母親好みの美少女である十五歳の司法局長令嬢に打診したところ、彼女は別の男性と婚約してしまい、代わりに十八歳の女性との婚約を勧められていることは、当主としてディルクも聞いていた。
「そんな、僕は絶対に嫌だから! 僕だってディルク兄様みたいに初恋の人と結婚するんだ」
ディルクを尊敬しているマリオンは、ディルクのように初恋を絶対実らせたいと思っている。
「わかっている。僕はマリオンの味方だから。母上と闘ってもマリオンの初恋を成就させてやる。初恋は本当に貴いからな」
尊敬する兄の言葉に嬉しそうに笑うマリオン。
ヴァルターは五歳も下のマリオンにも置いていかれるような焦りを感じていた。