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勿忘草を貴女に

作者:真宮傑
投稿済みの作品を改稿し、文学フリマ短編小説賞用に投稿させていただきました。
季節外れではありますが以前読まれた方にも、初めて読まれた方にも、何かしらの感動・感想を持って頂ける作品になっていればと思っています。
同タイトルの短編が前作…元の作品になります。読み比べて見てください。
 夜半に降りだした雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
 一面の白に反射した光が女の黒髪を照らしている。
 音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音を微かに鳴らす。
 男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、そっと抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。

 急がなければ――。

 力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。



      ☆… ✝ … ☆



 私と妻は、政略結婚だ。そこに両家の思惑はあっても、愛情はない。
 それでも妻が不倫、などという醜聞を作り敵に隙をみせることなどあってはならない。ならばどうすればいいのか。
 簡単だ。妻を家から出さなければいい。
 妻が望む物は一定の範囲内であれば全て与えるようにと、使用人に言いつけ。だが、決して一人では外に出すなと。外出の際は必ず私の許可を得てから、ということを特に強く言い含めておいた。
 そう。私は妻を最初から籠の中の鳥にしたのだ。己の、私が後を継いだシルビオ家の矜持を守るためだけに。

「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」

 会話らしい会話は、朝の見送りと夜の出迎えの言葉だけ。食事は別々にとり、仕事を理由に殆ど家にいない私と妻では接点がない。
 妻と複数の使用人に見送られながら、我がシルビオ家が所有する馬車に乗りこみ王城を目指す。

 侯爵家という位を先代の父から譲り受けたとき、私はその責務を全うし国のために生きようと決めた。そのためには結婚し妻をもつことで社交界でのツテを広げ情報収集も必要不可欠であり、跡継ぎも必要となってくる。仕事の一環として「結婚」という任も果たさなければならないが、妻が足手まといでは意味がない。様々な情報による精査の結果、伯爵位をもつジヴェルダー家の長女である今の妻エリザベスが妥当という判断を下した。

「アレはどうした」
「奥方様でございましたら、お部屋のほうにおられるかと」

 歩きながら上着を脱ぎ、窮屈な首元を緩め侍従に荷を持たせ自室へと向かう。

「アレに伝えておけ。来週末にモグエ伯爵家の夜会に出席することになった。適当にドレスなど見繕っておけと」
「かしこまりました」

 一礼し、足音もなく静かに退出する侍従を見ることなく椅子に身を沈め、深いため息を吐く。

(夜会だ茶会だと、腹の探り合いばかり)

 煩わしい駆け引き、足の引っ張り合い、貴族が故のしがらみ。権利を主張するための義務を果たすのは当然のこと。それにより発生する余計な付属物には辟易しても、義務に疑問を抱いたことはない。上流階級の煌びやかな世界に憧れ邁進する人々や、真っ当な為政者がいて纏め上げているからこそ得られる平穏な日々に安心している人々。その理想と現実を守るため私は、いや私たち一部の上流階級の人間は特権と引き換えにそれ以上に務めを果たさねばならない。

(利と益の差異すらもわからぬ連中が、目先の糸を掴むのばかりに必死になる姿はいっそのこと哀れか)

 元から己の欲を満たすためだけに、尽力するものもいたが。最初は高潔な思想を抱き、励んでいたものたちも富を得ていくうちにそれがあるのが当然という誤った考えに支配されていった。
 ある者はさらに増やそうと、己の手に負えぬ相手に手をだし破滅した。
 ある者は湯水のごとく使い、重税を負わせ民から反乱を起こされ破綻した。
 ある者は一人で抱え込み、疑心暗鬼に囚われ総てを破壊していった。


「お久しぶりです、モグエ伯爵。ご招待いただき、ありがとうございます」

 ちょうど人の空いた、開催者のモグエ伯爵の元まで歩みより声をかける。その声に私と私の隣に並ぶ妻をみて、少しばかり目を見開いた。

「おや、珍しい。今宵は侯爵夫人もお見えとは」
「ご無沙汰しております。モグエ伯爵」
「いやー、侯爵夫人は変わらずお美しい。これほどお美しい方と結婚されたシルビオ侯爵が羨ましい限りですな」

 ははは、と大きな声で笑うモグエ伯爵に無難に「ありがとうございます」とだけ返す。
 見目も武器となるこの世界において、ある程度整っている妻の容姿は武器の一つでもあり要らぬ厄介ごとの種ともなる諸刃の剣でもある。今も、妻を見るモグエ伯爵の目は獲物を狙う捕食者のソレに近い光を宿し、顔は下種のごとく醜く歪んでいる。

「申し訳ありませんが、他の方へのご挨拶もありますのでこれで失礼いたします」
「今宵は存分に楽しんでいかれるといい」
「ありがとうございます。では」

 その視界からさりげなく妻を外し、少し離れたところにいる知人の元へ向かう。
 その後も、幾人かの顔見知りと一言二言だけ言葉を交わし。特に得るものもなく、早々に会場を出た。

 仕事と、その合間に赴くパーティー。それ以外何もない生活に、ある日新たな報せがやってきた。

「おめでとうございます。ご懐妊されております」

 ここ数日、妻の顔色があまり良くなく食欲も落ちているようだったが。夕食の席で、侍医からそう告げられた。妻は悪阻で食欲がなく、自室で寝ているらしいが。これでまず一安心、というところだろう。産まれてくるのが男児か、女児か。それはその時にならねばわからぬが、「 子ができる 」という最初の不安材料はなくなった。

「そうか。後で祝いの品でも届けておこう」

 そしてその言葉を、後二回口にすることになるとはこの時思ってもいなかった。
 結婚してから、数年後かに長男が生まれ、長女、次男と子には恵まれ煩わしい側室を持つ必要性もなくこれといった変化もなく時間が過ぎていった。

 しかし……





 ××年後……。

勿忘草(ロースリー)病でございます……」
「――そうか」

 結婚してから早数十年。気がつけば子どもたちは次男をおいて二人とも結婚し、子宝にも恵まれた。私も歳をとり、今では長男に跡目を譲りそれを補佐する次男に必要なことを時たま教えるぐらいしかすることがなくなっていた。まだまだ詰めも甘く、完全に隠居するにはいかないが。それでも安心して任せられるようになった。
 結婚しても変わらず娘は子どもを連れ、時たま夫と共に我が家に訪れていた。戦争や王位争いなどもなく、落ち着いた時間を過せているのは幸せだろう。妻も孫の相手をしたり、趣味をしたりと楽しく過せているようだと報告を受けていた。時折、窓から孫と共に過すその姿を見ることもあった。
 全てが上手く回っている。そう思っていた。

 そんなある日、妻であるエリザベス…リサが倒れた。高熱を出し、三日三晩その熱は下がらず息子たちは毎日代わる代わる見舞いを欠かさなかった。娘も一時的に帰って身をおき、看病を手伝っていた。そして四日目の夕方、やっと回復の兆しが見え六日目には体を起こし少しではあるが食事も取れるようになった。熱も引き食事も細々ながら取れるようになった妻の姿に安心した娘は、夫と子どもの下へ後ろ髪を引かれながら帰って行った。
 このまま順調に回復する、そう誰もが思っていた。――しかし、それは一時の幻だった。


「――申し訳ありません、ヴォニカー様。ご迷惑をおかけしてしまって…」
「気にするな。お前のせいではない」

 相変わらず此方の心配ばかり。熱を出し、長い間寝込んでしまい迷惑をかけてしまったと、やっと体が起こし食事をとれるようになったばかりだというのに、そう謝る妻。まだ完全に治ったとはいえない妻に、気遣いの言葉ひとつかけるべきなのだろうがその一言が出てこない。今まで殆ど間接的にしか接してこなかった妻との距離感がつかめず、そっけない言葉しかでてこない。

「お前は何も気にしなくていい。自分の体のことだけ考えていろ。余計なことは考えるな」
「はい。ありがとうございます……」
「よく休め。また明日様子をみに来る」
「ヴォニカー様も、どうかご自愛下さいませ」

 妻の部屋を出て足早に向かったのは応接室。我が家の専属侍医を待たせている。

「待たせたな」
「とんでもございません」
「――それで、妻の病名は」
「―――大変申し上げ難いのですが…。ヴォニカー様、奥方様は勿忘草病にかかっております」
「そう、か……」

 ある程度予感はあった。今まで漏れ聞いた程度の情報と、妻の症状と、そうであってほしくはないという思いから必死に侍医に任せながらも己で似た症状の病はないのかと探していたが。

「治療法はない、のだったな」
「はい…。現在この病に関する治療法はわかっておりません」

 予感が確信に変わり、そして今、確定された。

 妻の熱がようやく下がり始め病状が落ち着いてきたと、これなら後はゆっくり養生し回復するのを待つばかりと誰もがそう思っていた。だが、妻は回復しているわけではなかった。熱は前兆でしかなく、誰もが気づかなかった予想していなかった病魔が忍びよってきていたのだ。
 妻は日ごと己の記憶を喪っていく、勿忘草病に罹っていた。
 最初にその異変に気がついたのは、次男だった。仕事もひと段落し、夕食前に妻の見舞いに部屋を訪れ、母である妻に話しかけると妻は己の息子に向かって「お仕事はもう終わられたのですか?」と言ったのだという。最初は次男も熱が下がったばかりでまだ意識がおぼつかないのだろう、そう思ったらしい。だが、熱が下がったのはもう数日も前。次男はすぐにその異変を私と兄に伝えるよう手配し、己は妻の傍から離れなかった。

「どうした!」

「――あら、ヴォニカー様? 今、ここにいらしたはず……まあ、ヴィンセント。貴方、いつの間にここへ?」

 私は息子二人に医師の手配などを任せ、代わりに傍で確認のため色々と話を聞いていた。
 熱が下がり始めた四日目から、多少の異変はあった。しかし、目の前にいる息子を私と見間違え私が来るまで話していたがそれでも息子だと気づくことなかった。

 そして今、医師から病名が宣告された。

『 勿忘草病 』

 時間の経過とともに記憶を少しずつ喪い、最後には生への執着も消え、記憶が自覚のないまま消えるように静かにその命さえまるでなかったかのように喪われていく病。
 奇病の一つで、効果的な治療法は未だ発見されていない。個人差はあれど必ず死に至る病であると同時に、周囲の人は忘れられるという悲しみや憤り、やるせなさに支配される。人によってはどこか遠くの別荘や、協会に寄付金とともに預け、その事実から目を逸らそうとする者も少なくない。また、この病が貴族及びに一部の富裕層にのみ起こることから貴族病とも言われている。

「急に呼び立ててすまなかった。夜遅くまで悪かったな。馬車を手配するのでそれに乗って帰ってくれ」
「――お役に立てず、申し訳ございません。また、必要となりましたらいつでもお呼び立て下さい」
「ああ、そうする」

 侍医を見送るよう言いつけた後、しばらく一人にするよう伝えた。

「ふう…………」

 応接室に置かれたひと目で高級な品だとわかるソファに身を沈める。今まで殆ど使ったことなどなかったしれは、重たい体も心も優しく包みこんでくれるようで。こんなにもこのソファがあったことに感謝の念を抱いたのは、半世紀以上生きていて初めてだった。それほどに、この事実に打ちのめされているのだと気づかされた。
 医師にも打つ手がなく、効く薬もない。ど素人の自分にできることなど皆無と言ってもいい。どこかやるせなさに包まれなはらも、このまま何もしないわけにはいかない。だが、何をどうすればいいのかさえわからない。
 そんなどうしようもない思いばかりが頭の中を巡り続ける。

「――伝えなければならないな」

 子どもたちは妻のことを愛している。父親らしいことなど何一つしてこなかった私とは違い、妻は乳母に子どもを預けることなく自分の手で子どもたちを育てた。妻が熱を出したと文を出しただけで飛んで帰るような娘だ。この事実を報せたとき、倒れ夫や子どもたちに心配をかけないか不安ではあるが。それでも報せないわけにはいかない。
 私は今までで一番重いペンを持ち、憂鬱な気分のまま娘宛に手紙を書き始める。


      ☆… ✝ … ☆


 妻の病がロースリー病と判ってから早いもので三ヶ月が経っていた。季節は初秋から冬へと変わり、寒さが厳しい日々が続いていた。雪はほぼ毎日降り続き、外は一面の白と暗い灰色の二色に支配されている。
 妻の病はゆるやかに、だが確実に進行している。まだ家族ことは時々間違うものの、比較的覚えているようではあったがそれも時間の問題だろう。娘は一度自身の家へ帰ったが、今は夫の後押しもあり荷物をまとめこちらにずっと滞在している。孫らも勉学で忙しいだろうに、週末の休みはほぼ必ずこちらに足をのばしている。
 妻は自分が記憶を喪っているという自覚があるのかはわからないが、たまにとても悲しそうな、寂しそうな表情(かお)をするときがある。私はといえば、妻との距離感をはかりかねているのを見かねた周囲に半ば強引に妻の傍にいるようにして過していた。

 そんなある日―――……。

 ロースリー病について何か手がかりがないのかと、あらゆる文献を取り寄せ書斎に篭り調べていると、扉の向こうが突如として騒々しくなった。慌しい足音が近づいてきたかと思うと、急くような荒いノックとともに扉が開かれ侍従長が息を乱した様子で入ってきた。

「大旦那様!!」
「何事だ」

 若かりし頃からずっと我が家に勤めていた冷静沈着なこの男らしくもない、取り乱した様子に心臓がいやな音を立てる。

「お、奥方様が――!!」

 その口から発せられた言葉に、思わず椅子を蹴倒し立ち上がっていた。

「リサがどうしたというのだ!」

 私の怒気をはらんだ、詰問のような言葉にも侍従長は怯むことなく、ただただ狼狽していた。

「お、奥方様のお姿が……、どこにも見当たりませんっ」
「――――――!!」

 その言葉は、すぐには正しく頭に入ってこなかった。

「だ、旦那さま!?」
その意味が理解できたとき私は侍従長の叫びを気に留める暇もなく、近くに掛けてあったマントだけを引っ掴み飛び出していた。
 荒れ狂っていた吹雪は治まっていたものの、暗い闇が支配する夜。雪はゆっくりと舞い続け、音と熱を奪っている。世界は痛いほどの静寂に包まれ、己の発する荒い息づかいだけが嫌に鼓膜を震わす。
 妻の行先に心あたりはなかった。
 しかし、頭の中で必死に何か手がかりとなる記憶がないか考え、考え、考えて。
 そして唯一つだけ、見つけた。

 私は今己が振り絞れる力の限り己の身体を鼓舞し、ある場所へと向かった。



      ☆… ✝ … ☆



 夜半に振りだした雪は、眠るように横たわる一人の女の上へまるで薄衣を掛けたかのようにうっすらつもっていく。一面の白に反射した月光が彼女の黒髪を柔らかく照らし出している。
 音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づき女の傍らに屈み込んだ。それに合わせ、装身具が冷たく硬い音を微かに鳴らす。
 男は、――ヴォニカーは己のまだ整わぬ荒い呼吸、嵐のような鼓動も気にならず、やっと見つけた妻、エリザベスの息を確認する。顔は青白く血の気はないが、微かに呼気がある。少なくともまだ、生きている。急がなければ、淡雪にさえ溶け消えてゆきそうなエリザベスの命の灯火が今、ここで儚く消えてしまう。せめて、せめて家族で過ごしたあの家で、温もりで包んでやりたい。ヴォニカーは己の着ていたマントでエリザベスを包み、気力を振り絞り腕に抱え家へと向かった。
 全神経を足に向け必死で雪道を駆け進む中、脳裏を過ぎるのはエリザベスと過ごした時間。死に際に走馬灯が駆け巡るというが、ヴォニカーの中では走馬灯らしきものが流れ続けていた。

 ――決して良い夫とは言えなかっただろう私に、文句の一つも言わなかった。

 決して華々しい表の世界で動くことはなかったが、陰で我がシルビオ家を支えてくれていた。気づけば傍にいるのが当たり前になり、いつか破綻の時がくると避けていたはずなのに。私は妻がいない、という日常が考えられなくなっていた。
 記憶を失い続けても、妻は家族のことは殆ど忘れなかった。息子や娘のことは当然だと思っていたが、何故か妻は殆ど顔を見合わせることもなかった私のことを一番覚えていた。息子を見間違うことはあっても、私のことは決して間違うことはなかった。
 ずっと不思議だった。家のことも、子どものことも、殆どを押し付け家に閉じ込めていたというのに。
 妻の病が発覚してからしばらくして、子どもらが全員揃った席で思わずそんなことを漏らしていた。すると子どもたちは顔を見合わせ、苦笑しながら次男、長男がこう言ってきた。

「――父上。それは、あまりにも鈍すぎますよ」
「まあ、父上はその可能性だけはないと思い込んでおりますからね。致し方ないのかもしれませんが」

 意味ありげな視線と言葉だが、私にはその真意に気づくことができなかった。困惑している私を見兼ねたのか、娘がこう切り出した。

「お父様。お母様にはずっと内緒にしておくように、と言われておりましたが。もう、時効だと思いますので僭越ながら同じ女性である私の口から申し上げさせて頂きます」

 娘の表情は改まった言い方に反して、とても穏やかで優しい、妻に良く似た笑みを浮かべている。

「お父様。お母様は、無表情で無口で無愛想で仕事人間で家族を顧みることのない、生粋の頑固頭で超がつくほどの鈍感人間なお父様のことを愛しております。誰よりも、私たちよりも―――お父様、貴方のことを心から、世界で一番愛しております」

 ――中々酷い言われようではあったが、そのどれもが最後の言葉で吹き飛んだ。

「――愛している? この、私を……?」
「はい。愛して色います。貴方のことを、誰よりも」

 娘はまっすぐ私の目をみつめ……というより見据えてキッパリそう言い切る。
 だが、私には少したりとも納得できない。そんなことは万が一にも、

「――――――ありえない」

 頭の中で呟いたつもりだたがどうやら声に出していたようで、子どもたちは揃って大きなため息をついた。娘のそれは一際大きく、いつもなら叱るところだがそれよりも早く娘が先に口を開いた。

「これだから男性は、いくつになっても全く頼りにならないのです」
「む……」

 娘の言葉に納得いかず厳つい顔になっただろうが、娘はやれやれと肩をすくめるばかりでどこ吹く風だ。ちなみに息子二人は娘の言葉に、ばつが悪そうな顔であちこち視線を彷徨わせている。――何か、心当たりでもあるのか。

「――いいですか、お父様。その仕事や立場や、色んなことで詰まりに詰まった心のお耳をよーーーく空けてお聞きになってくださいまし」
「……」

(怖い……)

 自分の娘にこんなことを思ったのは初めてだ。
 それほどまでに娘の目はギラつき、遠慮するものかと訴えてくる。

「お母様は政略結婚の相手である貴方に思慕の念を抱いております。恋しております。いいえ、そんな言葉では言い表せないほどに愛しております。それはもう、お父様以外の方にはバレバレなほどあからさまです」

 そんな風に言われても、納得いくわけがない、そもそもそんなにわかりやすいのなら、なぜ私が気づかない? 年老いたといえど、これでもまだキレ者として有名だというのに。まだまだ経験も足りぬ未熟な子どもたちでさえ気がつくというのに、この私が気づかないはずが――

「気づかないはずがない、のではなく気づかれていないのですよ、お父様。いい加減現実を見てください」
「……」

 なぜ、私の考えていることがわかったのだ。

「『なぜ、私の考えていることがわかったのだ』とお思いでしょうが、お父様。貴方も、ことお母様のことに関しては探るまでもなく判り易いのですよ」
「……」

 またもピタリと言い当てられ、私はもう黙って大人しく娘の言葉に耳を傾けることにした。

「お母様は昔、私たち兄弟にこうおっしゃりました」

“貴方たちのお父様であるヴォニカー様のことを、世界で一番愛しているの。私の一番は生涯死ぬまでヴォニカー様で、二番目は私の大切で愛おしい貴方たちよ。貴方たちにもいずれ、一番大切な人と、二番目に大切な人ができるわ。だから、お母様とお父様のことは何番目でもいい。忘れずにさえいてくれたら、私は満足だわ。だって貴方たちの母親であることには代わりないのだもの。私が貴方たちの母親でいられる限り、貴方たちが困っているときは手を差し伸べ、守ってあげられるから。だから、いつでも頼って我が家に帰ってきていいのよ”

「普通、という言葉は適切ではありませんが。殆どの場合において、子どもに面と向かって「二番目に愛している」という母親はまずいないでしょう。その上子どもたちの前で盛大に惚気る方も珍しいでしょう。まあ、確かに子ども心ながらあんなに無愛想で私たちやお母様のことなど殆ど気にもとめないお父様のどこがいいのか。と私たちよりも大切なのかと憤っていたころもありました。ですが、お父様のことを観察し成長し結婚した今ではお母様のお気持ちがわかったような気がします」
「…………」
「ねえ、お父様。貴方は確かに愛されております。ご自分は愛されていないのだと、そんな資格はないと思い込むのは自由ですが。お仕事を引退された今、ほんの少しぐらいその余裕ができたお心にお母様のことを入れてはいただけないでしょうか?」

 あんなにもギラついていた瞳は消え、その瞳には凪いだ水面のように静かで慈しみに溢れていた。

「お父様。あなたは愛の欠片もない相手に、家のためだからという理由だけで全てを諦め割り切ることができますか? 愛を知らぬ人が子どもたちに尊敬され、愛されると想いますか? お父様、あなたはお母様に愛されております。そして私たちの大好きなお母様が心から愛しているあなたのことを、私たちは心から敬愛しております」

 その言葉が不思議と今の私には心地よく、違和感なく受け止めることができた。

 そう、このとき初めて私は妻から愛されているかもしれない。そう思えるようになったのだ。



      ☆… ✝ … ☆



 途中、何度も止まりそうになる足を叱咤し。ただ、ただ、腕の中の温もりが消えぬようにと強く願いながら家を目指す。殆ど棒のような、役立たずになりかけている足を必死に動かし続ける。

 何一つ、夫らしいことなどしてこなかった。父としても、一人の男としても酷かっただろう。
 結婚したのだから私に従えと、そういった態度をとってきた。優しい言葉など、たったの一度もかけた覚えがない。最初の十年は、どうせ夜会や茶会だなんだと理由づけて外へ行きたがるだろうと思っていた。しかし妻は一切そういった行動はせず、最低限の茶会を催し。私が予め許可を出したパーティーにしかでなかった。常に私の傍から離れず、宝石やドレスを欲しがったことなどなかった。

 いつか、化けの皮が剥がれる。そう、思っていた。

 だが、そんな生活をはじめて十年も経ったことには妻を信じはじめていた。いつの間にか、その考えが、日常が当たり前となっていた。そしてその当たり前・・・・の中に、自分でも気づかぬうちに芽生えていた想いもあった。
 それは娘の指摘を受け、そして妻が私の目の前から突然消えたという事実に気づかされた。こうして腕に妻の体を抱いていると、満たされる想いが確かにあるということに。

すべての始まりから約四十年経ち、妻を喪いかけてから初めて気がついた。私は妻に、恋をしていたのだと。

 それを認めた時、まるで見計らったかのようにいつの間にか家の近くまできていた。あえて貴族街から少し離れたところに先々代が建てた我がシルビオ家所有の邸。門のところでは、複数の光と人影がいくつか落ち着きなく動いている。安心したせいか、急に力が抜け足元から崩れ落ちる。エリザベスを抱いているせいで重心が前にあり、このままではエリザベスを下敷きにしてしまう――――っ。

「――ご無事で、何よりです。父上」

 倒れ込む寸前。私はしっかりした腕に支えられ、倒れ込まずにすんでいた。そして頭上から降って来たのは、長男の安堵の声。

「母上を見つけて下さり、ありがとうございます」

 長男の後に続いてやってきた使用人たちと協力し、私を立たせようと息子がエリザベスを受け取ろうとしたが。私は無意識のうちに、決して離さないぞとでもいうように腕に力をこめていた。それに気がついた息子は柔らかな笑みを浮かべ、使用人に担架を持ってくるようにいいつけ。そこに私とエリザベスを横たえて邸に運び込む。運び込まれたのは、いつもより温度が少し低めの浴室。服のまま浴槽に二人一緒にいれられ、落ち着いてから服を脱がされた。

 エリザベスの顔に苦痛の色はなく、ただ穏やかだった。心配だった凍傷もなく、ゆっくり身体の芯から温まればきっと、まだ、後数日は生きてくれるだろう。

 風呂から上がり、寝室に運び込まれ。私に温かいスープが用意されており、それを少しだけ飲みエリザベスを抱きしめながら眠りについた。伝わる温もりと、微かな息づかいに深く、深く、安堵しながら…………。



      ☆… ✝ … ☆



 翌日目が覚めると、腕の中で妻が目を覚ましこちらをみていた。

「――起きたか」
「はい、おはようございます。ヴォニカー様」

 変わらぬ笑顔が愛おしいと、初めて思った。同時に、まだ失わずにすんだことに喜びが湧きあがる。

「ふふ……」
「む。どうした」

 喜びを噛みしめていると、突然妻が笑った。

「いえ……。幸せだな、と思いまして」
「そうか。それは良かった。私も幸せだ」

 そう。私は間違いなく、今、この世界中の誰よりも幸せだと断言できる。最愛の妻が私の腕の中で幸せだと、笑ってくれている。これ以上の幸福はない。

「なあ、エリザベス。明日は一緒に、勿忘草を見に行かないか。前に約束しただろう」
「本当ですか? とても嬉しいです」
「ああ、本当だ。一緒に行こう」

 妻を見つけたのは、結婚してしばらくしたとき。我が家の家紋にも描かれている、勿忘草を見て見たいと妻がこぼした何気ない一言。私は少し移動すれば、咲き乱れる場所があることもあり。確か、時間があればみにいくか、と答えたのだ。私はすっかり忘れていたが、妻は覚えていたのだろう。妻は、そこで倒れていたのだ。だが、今は殆どが枯れてしまい。見ることは叶わない。だが、その場所にこだわらなければ見ることは可能だ。



 そして私が妻を案内したのは、屋敷内に静かにたたずむ温室。代々当主のみに伝わるそれは、当主とその伴侶以外には入ることはおろか、知る事さえ制限されている。そこでは一年中、勿忘草が涸れることなく咲き続けている。

「――これが、勿忘草、なのですね」

 妻は一面に広がる勿忘草に、視線を奪われていた。その表情は、会ったばかりの無垢な笑顔と同じ。もしかしたら私は、初めて会った時から妻に一目惚れをしていたのかもしれない。

「とても、美しいですね」
「そうだな」

 勿忘草に目を奪われている妻に、私は目を、心を、奪われる。
 そして溢れてやまない想いを、自然と口にしていた。

「エリザベス。私はそなたに、恋をしているようだ」

 エリザベスは、キョトン、と。無防備な顔を私にみせる。

「――愛している。世界中の誰よりも、私は、ヴォニカー・シルビオは、我が妻。エリザベス・シルビオを、愛している」

 私は跪き、妻の手をとってそう言った。視線は愛しい妻の瞳から外さない。

「――ほ、ほんとうですか」

 妻の瞳からは、ほろほろ、と。水晶よりも綺麗な涙が零れ落ちる。

「今まで、すまなかった。私は自分のことしか考えられていなかった、狭量な男だ。そなたへの想いも、四十年近く経ってから気がつくような鈍感な男だ。愛想を尽かされてもおかしくない男だと自覚している。―――それでも、やり直せるチャンスをもらえるのなら。私はエリザベス。そなただけを愛し、そなただけを想い、そなたのために生きたい」

 この世に生を享けてから、もうすぐ七十年。こんなにも、緊張することはなかった。心臓など、壊れそうな程激しく高鳴っている。緊張からくる汗も、凄いことに……。

 ――手汗、酷くないだろうか。

 汗で湿った手など、ロマンチックの欠片もないどころか嫌われてもおかしくない。さっきまでとは別の意味で、嫌な汗が背中を伝う……。

「――も」

 そんなことを考えていると、せっかく妻が何かを言ってくれたというのに、聞き逃してしまった。

「す、すまない。もう一回、もう一回だけ、聞かせてはもらないだろうか」

 聞き逃すなど、何たる失態か――っ!!
 もし、もし、これで駄目だったらどうしたら………

「――私も」
「……」

 今度こそは決して聞き逃すまいと、全神経を耳に向ける。

「私も、愛しております。貴方のことを、ヴォニカー様のことを、心から愛しております」

 妻の答えは、聞き間違いでないのならとてつもなく幸せすぎるものだ。

「ほ、ほんとうか……?」
「はい」

 いくら娘らから聞いていたとはいえ、それはもう昔のこと。とうに愛想を尽かされていてもおかしくない。信じられぬ想いでいっぱいになりながら、妻に問い返せば。花のような笑顔を浮かべ、「はい」と答えが帰って来た。
 私は立ち上がり、妻を壊さぬように、だが、離さぬように抱きしめる。

「今まで、すまなかった。夫として、頼りないことばかりだと思うが。これから先の未来、共に歩もう」
「はい。こちらこそ、宜しくお願いします」

 こうして、約四十年経った今。私たちは、本当の意味で夫婦となった。そこには、切っても切り離せない〝愛〟がある。
 そしてこのことを子どもたちに伝えると、皆祝福をしてくれた。孫までもが、満面の笑みを浮かべて祝いの言葉を送ってくれた。








 想いを交わし合った、一月後。妻は周りの予想を超えて生きてくれ、そして家族に見守られながらその生涯を終えた。あと数日だろうと思っていたのが、一月も生きてくれた。
 葬儀は親しい者だけよび、こじんまりと。だが、温かな式だった。

 葬儀を終え、妻の体は妻の意向もあり。彼女の御国で行われているという、火葬をおこなった。残った骨は粉にし、花と共に我が敷地内の湖に流した。

 妻の墓標は、我がシルビオ家の者が代々眠る墓地にある。そしてそれとは別に、湖の周囲を守るかのように咲く勿忘草がもう一つの墓標でもあった。





 ――私はそなたと出逢えて、幸せだった。出逢ってくれて、愛してくれて、ありがとう。愛しているぞ。そなただけを。勿忘草に誓おう。

            我が生涯の唯一にして、最愛の妻。エリザベスへ。





 シルビオ家。第23代 当主  ヴォニカー 。




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