序章・魔法の世界より
小説を書いてみよう――。
そんな風に初めて思ったのはいつのことだったでしょうか。
昔から自分の中で息づいている登場人物達を、描いてあげたいなと思って始めた作品です。
まだ顛末までは全然見えておりませんが、少しずつでもお付き合い頂けたら幸いです。
森の中。
地を這うような唸り声。
それと共に駆ける、一つの獣の姿があった。
狼のような強靭な四肢。靡く毛並みはくすんだ赤色で、瞳も同じく炎を宿す。時折ちろちろと牙の間から零れ出るのは、木の根が爆ぜる時に舞うような火の粉。それは、魔獣と呼ばれるその生物にとって、狩りの最中であることの証左だ。尋常な生物でないことは、その両肩からも窺える。そこには何か、不純物が混じった鉱石めいたものが突き出ており、その鋭い印象をより強いものとしていた。
鬱蒼と茂る木々により、連日の晴天を経てなお適度な湿度を含む地面を蹴立てて、鋭利な牙を剥き出しにしたそれは、瞬く間に定めた獲物と距離を詰める。襲われる獲物から見れば、小さな黒点であった彼方より、はっきりとその凶暴な貌を露わにするまで、要した時間は僅か四と半秒。
狩りの対象――それと相対するのは、一人の少年。
彼は樹勢が及んでいない、森では幾らか開けた場所に立ち、緊張した面持ちで、粘着く唾液を嚥下する。
当然だ。客観的にその光景を見れば、控えめに言っても、少年の生命の危機。恐れず、より直截的に判断するなら、死は限りなく必然であった。
少年の容貌はまだ十分な幼さを残し、年の頃は十五に届くかどうか。まだ四肢も伸びきっていない、未熟で、無力なその姿。それが野を駆ける獣の前に放り出されているのだから、その命運を推し量るは、容易いこと。
「――――」
少年が、小声で何かを呟いた。
それは声にならない恐怖の叫びか、はたまた幼い身に降り掛かった不運の嘆きか。
尤も――仮に。そこにいたのが大人であったとしても、然程立場に影響はないだろう。
人類は、あくまで知性によって生物の頂点に立ったのだ。人の身など、傷つけるには薄紙一枚あれば事足りる。爪は薄く柔らかで、突き立てる牙も持たないその身で、獣に太刀打ちなどできようはずもないのだから。
せめて、その手に剣の一振りでもあったなら、一筋の望みを託すこともできただろう。しかし実際に少年の手に握られているものはあろうことか、楽団を指揮する為に持つような、木製の棒だった。せいぜい物差しにでもなろうかというそれは、ことこの場に置いては何の意味も持たない――或いは、少年の命の灯火を差し測る役目を果たしたとは、言えるのかもしれないが。
そして終に、獣は少年の眼前へ迫る。
少年へ肉薄すべく、大地を踏みしめ――。
「"嘆くは大地、破壊を顕し敵を砕け。<岩崩えの鎚>"」
少年が、何かを呟き終えた次の瞬間に。その大地は、爆散した。
獣は刹那、前方へ強く押し出さんとした身体を転じ、その凶暴で鋭利な外見に反して靭やかに飛び退った。飛散する飛礫と、朦々とした土埃が舞う中、必死と思われた少年の姿が現れる。表情は険しく呼吸も荒いが、手傷を負っているわけではないようだ。獣の疾走を押し留めたものは、果たして何であったのか。
間もなく砂塵の中から、その正体が晒される。
それは地面に突き立った、巨大な岩塊――否。形状から察するに、巨大な鎚とでも言うべきものだった。
モノを打ち叩くための頭部の大きさは、直径一メートルはあるだろう。比して持ち手は細いが、数倍する長さである。光沢を持ったその材質は不明だが、打ち付けられた地面の無残な様子を見る限り、相当な重量であることは明らかである。どれほどの巨漢であれば振るえるというのだろうか、おおよそ人の身で扱える代物ではない。突然の現出といい、明らかに異質な物体であった。
それを間近で目にした少年の表情には、けれど。
緊張こそあれ、驚きの色はない。
そして、そこにあるのは恐慌でも、ましてや諦念でもない。
「……っ」
少年は、力を込めるように息を詰めると、その手に携えた木製の棒を振るう。
すると、どうしたことだろう。
少年の背丈に倍する全長を持つ岩鎚が、質量を感じさせない滑らかな動きで浮かび上がったではないか。
「はぁ!」
少年が腕を振り下ろす動きに合わせるようにして、岩鎚は再び大地を穿つ。獣は押し潰される前に再度飛び退り、牙を剥く。しかし、先程のように勢い良く飛び込んでくることはしない。再び浮かび上がった巨鎚を警戒しているのだ。
そう、少年の顔に浮かんでいたものは。
希望と期待に、少しの依存――信頼の表情だ。
もう、その背丈を遥かに上回る鎚を操る者が少年であることは明らかだった。
指揮棒、というのは、言い得て妙であったかもしれない。
超常を従える少年の様は、さながら旋律を操る指揮者
岩槌は導かれるようにして、少年に寄り添う。
――先に下された評価は、概ね妥当だ。
少年は、切り裂く爪も突き立てる牙もなければ、斬り払う刃も持たず。
その姿は、幼く未熟。
しかし、たった一つだけ。
訂正を加えるとするならば。
少年は、けして無力ではない、というコトだった。
その身一つで、超自然的現象をも繰る。
彼のような超常の力を振るう者を、古来より人々はこう呼んだ。
即ち――『魔法使い』、と。
従える巨大な岩鎚を振るい、少年は牽制する。獣へ向けて叩きつけたそれは、土の塊を撒き散らしながら、大地を穿つ。超重量武器の鈍重さなど微塵もない一撃。それでも獣は驚異的な反応速度でそれを躱す。飛散した飛礫も当然、獣に何の痛痒も与えなかったが、度重なる破壊を目のあたりにすることは、獣に進行を躊躇わせる程度の効果を持っていたようだ。それは俊敏な動きで距離を取った。苛立ちを表すかのように唸り、牙を剥き出しにして口角を震わせた。
鎚で自身の視界まで奪っていては危険と判断し、すぐに引き戻しながら少年は再び呟く――魔法の詠唱だ。
一度横薙ぎに槌を振るい、跳び込む機会を窺っている獣へと警戒も忘れない。横合いから飛び込もうと身体をしならせた獣は、再びたたらを踏む。
「"秘めたる力の発現を。弾けよ地塊。〈岩燕〉"」
新たな魔法が顕れる。その魔法は前方へ昏い紅色の、金属的な球体を生み出す。少年が、魔法を使うための杖を持つのとは逆の拳を突き出すと、球体は宙を裂いて、高速で獣へと疾走った。それを獣が回避しようとする刹那を狙って、伸ばした腕の拳を勢いよく開く。
「ギャウッ!?」
獣が初めて、獲物を脅かすためではない声を上げた。
それを引き起こしたのは、全身へと襲いかかった無数の鋭利な棘。
打ち出された岩塊は、開かれた拳と呼応するかのように散じ、獣を貫かんとする。いくつかの外れた散弾は地面へ深く突き立つ。それは罠として用いられる、撒菱のようでもあった。
「……っ!? そんなっ!」
しかし、間髪入れず、次は少年が驚愕の声上げることになる。
何故なら、並の岩石であれば充分深くまで突き立つほどのその散弾は、少年の予想に反して獣の表皮を裂くに留まったからだ。それでも唯一、その瞼に突き立った棘は貫通してその片方の視界を破壊しているのだから、幸運と評するべきなのだろうが。
予想もしていなかったであろう痛撃を受けた獣は、先ほどまでとは違う背筋の寒くなるような唸り声を上げる。静かだが、一層の脅威を感じさせる低い振動。
それは少年に、周囲の空気の震えを幻視させた。
怒りを表すかのように口角を益々鋭くする獣。潰れた片目から滴る血がその牙を濡らし、更に下顎を伝って一雫、地に落ちた。
獣の様子に変化が現れたのは、その時だった。
自らの血で濡れる毛並みから、煙が立ち昇る。間近で見れば、それは血液が蒸発する様だと気付くだろう。獣の肩から突き出る半透明な鉱石は、まるで炉に放り込まれ、赤熱した鉄のような輝きを放ち始めた。
明らかに、超自然的な現象。
そう、魔の名を冠するのは獣も同じ。
魔獣と呼ばれ、人々から恐れられる種の中で、その獣は火狼という固有名を持つ。
その名の故を。その性質を。
少年は知識として、何の予兆であるかを知っていた。
「"希求せしは地気の護り〈地障壁>"」
三度目の詠唱。それを紡いだ声は、今までのものよりも強く、早い。
だからこそ、そこに孕まれたものは少年の焦りと恐怖であることを、暗に示してしまっている。
焦燥を押し殺すようにして唱えられた魔法は、少年の眼前の地面を隆起させるようにして、堅牢な岩壁を形成した。矮躯を覆い隠して守らんとするそれに身を隠すと、更に少年はそれで留まらず、杖を付き出す。すると複雑な紋様を描く透明な膜のようなものが現れ――害意から術者を守る、魔法障壁と呼ばれるそれを、全力で展開する。来たる衝撃に備えて腰を落とし、構える。
直後に、轟音。
「う…くっ……!」
獣が咆哮とともに吐き出したものは、火焔の砲弾。
螺旋を描くように、幾条もの火の線を撒き散らしながら、それは身に秘めた威力の尽くを対象へと叩きつけた。
少年を守り包んだ、大地へ根ざす頑強な岩壁は、今や致命的な大穴を晒している。
からりからりと、石片が地面を叩く。
岩壁は最早これ以上その役目を果たすことは叶わず、崩れていく。直撃を受けた箇所は一瞬で水分を根こそぎ奪われ、砂礫として風に浚われた。
――それでも、大地の盾はその本懐を遂げたと言えるのだろう。
炎弾の破壊力の名残、火勢は球体を維持できずに解けて尚、焔の性質を違えない。押し寄せる波濤のような炎によって、少年の魔法障壁は舐めるようにして余さず炙られる。今では崩壊を待つだけの岩壁が、その身を賭して炎弾の威力を減殺してくれなければ、少年は今頃手酷い傷を負っていただろう。
一瞬後には我が身が焼かれるかもしれない。その恐ろしさに少年は目を閉じてしまいそうになるが、歯を食いしばって耐えた。実際にはほんの数秒。けれどとても長く視界を埋め尽くしていたように思われた赤色もやがて、途切れる。
少年はどうにか受けきれたことを確認すると、即座に再度の呪文詠唱。
土埃が舞い、岩壁の残骸が降り注ぐ中、少年は疾駆する獣の姿を垣間見る。距離を詰めてくるその獣に対して、再度岩鎚を振るうが、獣は驚異的な跳躍力でそれを躱して跳び上がった。
ともすれば周りの樹高にも届こうかという跳躍は頂点に達し、自然、落下へと転ずる。
放物線を描くその姿の終点は――正確に少年の身体を捉えていた。
「グルアァァアッ!」
咆哮。
その鋭利な爪に、片目を潰された怒りを込めるかのように、獣はその前足を振り上げた。
だが、それと同時。
少年の詠唱が、完成する。
「"覚醒めよ大地、吾は汝が諦念を否定する。仇成すものを刺し貫くは地神の子なり。〈地祗の槍〉"」
獣の爪は、振り下ろされた。
獣が獲物を狩るために要求される動作はそれのみなのだから、それに要求される時もまた一瞬。
閃く、四条の軌跡はまるで刃。その切っ先を以ってすれば、人の柔肌など貫き、裂くのは造作も無い。
そう、仮に触れることさえ出来ていれば、間違いなくそうなっていただろう。
だがその軌跡に、生命の零れ落ちる色が、温かな緋色が添えられることはなかった。
凶爪の侵攻は、少年の振り上げた手に従うようにして瞬時に地表から突き出した、大地の槍が迎え撃ったからだ。
少年の傍らから伸びるそれは、鋭利な先端に反して、根本は大人が抱えても余りあるほどの太さを持つ。
そこには儀礼用に用いられる武器が持つような、優美さなどは欠片もない。
無骨で、なればこそ、その本質に迫る、心胆寒からしめる一撃。
重力に引かれ加速した獣の身体は、突き出たそれに、深くまで貫かれた。
もう、あの唸り声も聞こえない。
火を操る魔獣は、その体に大穴を作り出し、末期というものを経ることなく、即死した。
「はっ、はっ……」
獣へ向けて開いた手を突き出したその格好のままに、少年は瞬きも忘れて固まっている。今にも失われた獣の瞳に光が戻るのではないかと恐れているのか。
どうやら本当に斃せたらしい――そう確信するまでたっぷりと、一分ほども時間を使った後で、少年は膝から崩折れた。
「……やっ、た……!」
中空に控えていた岩鎚が、溶けるように消える。少年は快哉を口の端に添えた。
叫ぶことが出来ないのは、もう体力が限界に近いことによる。火狼との戦いは僅か数分。使った魔法も数えるほどだというのに、少年の身体はひたすらに呼吸だけを求める。
それも無理のないことだ。
少年は魔獣との戦いにはけして慣れていない。
討伐に際して援護にあたることはあっても、実際に一人で魔獣を打ち倒したのはこれが初めてなのだから、精神の疲弊は肉体に対しても、平時を遥かに上回る疲労を課す。そんな中でも毅然と魔物に相対し、打ち克った少年は称賛に値するだろう。
しかしここで一つだけ――悲しいかな、少年は気付いていないことがある。
それは、今にも仰向けに倒れこんでしまいそうなその背後には、先の火狼の唸り声が呼び寄せたのか、同種の魔獣の影が三つ、迫ってきているということ。魔獣を倒しきれたことによる油断と、自らの荒い呼吸。そして距離はあるものの同じ森の中で時折聞こえる戦闘音に紛れて、けれど確かな速度でそれらの影は距離を詰める。
その気配に気付くことが出来たのは、獣がほんの十数メートルの距離まで近付いてからだった。少年が反応し、向き直ると共に駈け出した火狼達は一瞬で最高速に達する。彼らの脚力を持ってすれば、その程度の距離はあってないようなものだ。
詠唱する時間などなく、無詠唱での魔法など扱えない少年に出来る事は、残された魔力をすべて魔法障壁に回して耐えることだけ。
次の瞬間の衝撃に体制を整える暇もない。救援を求める光球を打ち上げる余裕もない。
そこには、只々、恐慌だけがあった。
今度は堪えることもできず、目を閉じる。
「"〈雪笹〉"」
――凍てついた。
どういうわけだろう。
世界には時間という連続性がある。
過去と現在、未来の間には須らく整合性が無くてはならない。
それにも拘らず。
あとから振り返ってみると。
その一言が、その場における真実。
何よりも一番初めにあったことなのだ、と少年は確信していた。
だから、これはただの事実。
頭上から降ってきた声は唐突で。
少年に訪れたのは、想像した衝撃ではなくそんな言葉と、汗の流れる肌が一瞬で鳥肌に覆われるほどの冷気。
その墜ちてきた言葉が魔法を顕すものであることに気付いて目を開けた時には、目の前に迫っていた火狼は三体とも、氷像と化していた。
「ぼーっとしちゃ、ダメだよ」
再び、背後から声。
その方へ向き直ると、そこには人の姿があった。
生命の危機にあって極限状態だった頭は未だに何が起こったのかよく理解が出来ず、少しの間固まってしまう。
その人は苦笑して、少年が落ち着くのを待っている様子だった。やっと正常に動き始めた頭で、どうにか口を動かす。
「桐夜…先輩……」
そこに立っていたのは、柔和な笑顔を浮かべた少年だ。
少し目にかかる位の、癖のない黒髪。年嵩を示す呼称で呼ばれはしたものの、傍から見れば座り込む少年よりも幼く見えるかもしれない。
きりや、と呼ばれたその少年の右手にも、同じく杖が握られている。まるで水晶を削りだしたような美しいそれは、彼もまた魔法使いであることを示していた。この現象を引き起こしたのはどうやら彼であるらしい。
もうひとつ、わかることがあるとすれば。
彼は左手には箒を持っていて、先の声は頭上から降ってきたのだ。
そうなると、きっと空でも飛んできたのだろう。
なにしろ、魔法使いが空を飛ぶのに必要な物は――箒と相場が決まっている。
「おつかれさま、頑張ったね」
少年に手を差し伸べて、その魔法使いはにこりと微笑んだ。