第五話 『環状』
その日、俺は栄長燐と杉野目施廉の二人と、買い物に出かけていた。目的地を示されていないまま、街中であろうとお構いなしに俺に密着してくる杉野目に溜め息を吐きながら、栄長に先導される形で歩いていく。
「ねぇ、施廉ちゃん? あなた、ちょっと次元君に密着しすぎじゃない?」
「だから? 何か問題でも?」
「どう考えても問題しかないでしょ。真昼間からこんな街中で、女の子が男の子に抱きついているなんて。そういうのはね、彼氏彼女の関係にある人たちしかしちゃいけないのよ」
「ふーん……それじゃあ、なおのこと問題ない」
「どういう意味?」
「なぜなら、私は上垣外君のガールフレンドだからだ!」
「あー、はいはい。いつもの妄想ですね分かります」
「妄想じゃねぇよ! っていうか、嫉妬してんじゃねぇよ、屑長の分際で!」
「嫉妬? この私が? 次元君なんかに? 何を言っているのかしら、この子は」
俺を境界線にして左右に分かれている女の子二人は、今すぐにでも殴り合いの喧嘩を始めてしまいそうなほど、険悪なムードを漂わせていた。相手に対する嫌悪に染まった表情もさることながら、怒りに満ちた雰囲気がそれを感じ取らせるのを後押ししている。
それぞれの過去改変前もそうだったが、栄長と杉野目は相変わらず仲が悪い。犬猿の仲というか、水と油というか、まぁどっちでも意味は一緒だが、ようはそれくらい相容れない関係にあるというわけだ。その理由は様々だが、二人とも相手を徹底的に打ちのめさないと気が済まない性格な上、プライドが高いために負けを認めることもない。その結果、無意味な口論が果てしなく続けられてしまうという結果になっている。
過去改変前の二人の仲が悪かった大きな原因は、杉野目がとある科学結社に所属していたからだったはずだ。だが、過去改変後の今、杉野目は普通の女子高校生になっている。だから、多少はその関係に改善が見られると思っていた俺だったが……現実はそう簡単にはいかないらしい。
「二人とも、もうその辺でいいだろ。喧嘩したって、いいことなんて何もないぞ」
「チッ……上垣外君がそう言うなら」
「まだ色々と言い足りないけど、これ以上続けても次元君に迷惑をかけてしまうものね。仕方ない、ここは次元君に免じて、一旦休戦としましょう」
「それで栄長、話は変わるが、俺たちは今どこに向かっているんだ?」
「ん、アニメイトだけど、言ってなかったかしら?」
「あー……そうだ、そうだな、そうだった。確かに、そう言ってた気がする」
「何その三段活用……っとそれはさておきとして、次元君、あなた大丈夫?」
「何が?」
「『何が』って、さっきからずっとボーっとしてるみたいだったから」
「……そう見えるか?」
「そう見えていないのなら、わざわざこんなこと言わないわよ」
「……たぶん、それは栄長の勘違いだ。いや、正確には気のせいだ」
「そう? てっきり、湖晴ちゃんが出かけたまま帰ってこなくて、そのせいで落ち込んでるのかと思っていたのに」
「まぁ……そうだな」
「まったく、男の子なんだから、もうちょっとシャキってしなさい。次元君に元気がないと、音穏ちゃんや珠洲ちゃんが心配して夜も眠れなくなるんだから」
「……悪い」
「でもほら、いざとなれば私もいるし、あとは……阿燕ちゃんとか有藍ちゃんもいるんだから、ね?」
「阿燕……か……」
その名前を口にした瞬間、俺の脳裏にあの光景が思い出される。すぐ頭上にあった工事現場の運搬ミスで、高さ十数メートルから落下してきた鉄骨が頭部に直撃し、辺りに真っ赤な鮮血や頭蓋骨の破片を飛び散らして、まるで原型を留めていない見るも無残な姿で死亡した、一人の少女の姿を。
胃の底から、酸性の液体が逆流しそうになる。それを口から吐き出してしまう寸前、俺は半ば強引にそれを制御した。のどの内壁が焼けたような感覚に襲われ、酸っぱくて嫌な感触が残る。うぇ、気持ち悪い。
「……ところで、どうしてアニメイトに行くことになったんだ?」
「どうしても何も、アニメグッズとかを色々買いたいからに決まってるじゃない。というか、それ以外で何の目的があって行くと思ったの?」
「それもそうか。栄長の方は分かったとして、杉野目は?」
「そりゃもちろん、私は上垣外君がいるところ、それがたとえ、火の中水の中時空を超えたとしても――」
「お察しかもしれないけど、施廉ちゃんもオタク女子よ。それで、実は次元君よりも前に一緒に行こうって誘ってたってわけ」
この二人、何だかんだ言っても、実は結構仲が良いんじゃないか。安心安心。
「ふと疑問に思ったんだが、どうして俺は連れてこられたんだ? 別に二人で行ってもいいだろうに」
「分からない? 荷物持ちよ」
「……ういッス。喜んで引き受けさせていただきますッス」
栄長さんよ。確かテレポーターっていう空間移動装置持ってたよね。それを使ったらどうでしょうか。
平凡な日常の風景。どこにでもあるような、この世界の一部分。俺の大切な人たちは誰一人と死んでいない、誰も悲しむ必要のない世界。その現状に対して何も不満に思うことはなく、ましてやこれ以上を望むことなんてありはしない。それなのに、どうしてだろう。
また、こんな理不尽な結末が用意されているなんて。
俺たち三人が歩いていたグラヴィティ公園近くの街路一帯に、大きな銃声音が響き渡る。その数秒後、俺のすぐ隣で何かが倒れたような音が聞こえ、それまで感じられていた人の温もりが二つから一つに減る。俺の右半身は彼女の額から飛び散った鮮血で真っ赤に染まり、同様にして地面にも赤い水溜りが形成されていく。
見下ろしてみると、そこには赤髪ハーフアップの女の子が一人、額から血を流して死んでいた。
……。
…………。
……………………。
その日、俺は上垣外珠洲によって手足を椅子に縛られ、身動きが取れない状態にされていた。俺の目の前には頭からつま先まで真っ赤に染まった珠洲、そしてその足元には一面の死体。
「おにぃちゃん、そろそろ認めたらどう?」
「……何を――」
「ワタシはこの世界の何よりも、おにぃちゃんのことが好き。だからこうして、その愛情を真っ直ぐにぶつけてるんだよ。それなのに、どうしておにぃちゃんはワタシの気持ちに答えてくれないの? どうして、ワタシから目を背けるの?」
「珠洲……お前は、自分がやったことがどういうことなのか理解しているのか?」
「ワタシがやったこと? んーとね、おにぃちゃんの様子がおかしかったからワタシが慰めてあげたらおにぃちゃんが切れて、ワタシはおにぃちゃんを心配しているこの気持ちを分かってほしかったからおにぃちゃんにお説教することにして、とりあえず階段から突き落として気絶させて、逃げ出さないように椅子に括り付けて、お説教を始めて、しばらくするとおにぃちゃんを助けに来たとか言う不審者が家に入ってきたから全員殺して、おにぃちゃんへのお説教を再開して、今に至る……こんな感じだけど、どこかおかしいところあった?」
俺の目の前にいる珠洲はすでに、この世界での上垣外珠洲のあり方とは百八十度異なってしまっている。過去改変前はこんな感じだったが、過去改変後は清く正しい女子中学生へと更正したはずの珠洲。それが、どうしてこうなってしまったのか、自分がしたことにまるで罪悪感を感じていないサイコパスへと変貌を遂げた。
珠洲は、リビングの床に転がっている茶髪リボンの女の子の頭部を踏みつけた後、赤髪ハーフアップの女の子の体を蹴り飛ばし、再び俺の方を向いた。
「これ、邪魔だから埋めてきていい? 見てて気持ち悪いし、変な臭いするし」
「……………………」
「返事がないってことは、承諾したってことでいいよね。それじゃあ、ちょっと埋めてくるから待っててね」
「……………………」
「あ、でも、どこに埋めようかな。こんなのを家の庭に埋めたくないし、だからといって、近くの公園まで運ぶのは疲れるし……とりあえず、ゴミ袋に入れて物置に放り込んでおこうっと。その後はまた今度考えよう」
「……………………」
「ふぅ、やっと運び終わったよ。まったく、おにぃちゃんにお説教する最中なのに、ワタシにどれだけ時間を取らせたら気が済むのか。まぁいいや、もう終わったことだし。あとは、何かよく知らないけど床とか壁が赤くなっちゃってるから、その掃除もしないと。でも、大好きなおにぃちゃんのためなら、ワタシは何だってできるよ~」
「……………………」
「おにぃちゃん、掃除も終わったことだしお説教の続きをしたいんだけど、そろそろお腹空いたよね? トイレは……我慢できずに漏らしちゃったみたいだから着替えもしたいだろうし。でもね、全部ぜーんぶ、ワタシが管理してあげるから心配しないでね。ご飯はワタシが栄養重視で作って口移しで食べさせてあげるし、必要なら簡易トイレを持ってきてあげるし、体中を隅から隅まで綺麗にした上で着替えさせてあげるし、ふふっ……これで完璧、万事解決だね! これからは二人で心の底から愛し合って、子どもをいっぱい作って、幸せな家庭を築こうね、おにぃちゃん♪」
「……………………だ」
「え? おにぃちゃん、何か言った?」
聞き返してくる珠洲に対して、俺はわざと強調するように言った。
「こんな珠洲は、嫌いだ」
瞬間、それまで心の底から楽しそうにしていた珠洲の表情が凍った。そして、その顔から少しずつ楽しいという感情が消え失せ、代わりに後悔しているような絶望しているような色に染まっていく。まるで信じられないといった様子で両目の瞳孔が開き、口は半開きになったまま塞がる気配を見せない。
「ど、どうして……? ワタシ、おにぃちゃんに元気になってもらおうと思って慰めてただけなのに、おにぃちゃんにワタシのことを好きになってもらおうと思って頑張ってただけなのに……それなのに、どうしてそんな酷いこと言うの……?」
「たとえ俺と珠洲が義理の兄妹だとしても、それは俺が珠洲を恋人として好きになる理由にはならない。たとえ珠洲がどれほど俺のことを好きだと言っても、それは俺が珠洲を恋人として好きになる理由にはならない。ましてや、俺を監禁して、俺の大切な人を何人も殺して、それをおかしいことだと思えていない奴を、好きになれるわけがない」
「う、嘘だ……おにぃちゃんは、そんなこと、言わないよね……?」
「現実を見ろよ、殺人犯」
「あ……あぁ……ああああああああああああああああ!!!!」
微かに血の匂いが残るリビング中に、珠洲の咆哮が響き渡る。大粒の涙を零しながら、声が枯れてもなお叫び続ける珠洲の心境は、何となく分かる。でも、また俺に繰り返させる原因を作った殺人犯に、悲しみに暮れる権利はない。それがたとえ、最愛の妹である珠洲だとしても。
不意に、数分間発狂し続けていた珠洲がその咆哮をやめた。声は完全に枯れ、やや俯いている顔は涙で真っ赤に腫れている。珠洲はフラフラと重心が定まっていない状態で、ゆっくりと俺の顔を見上げた。
そして、ポケットから取り出した包丁を自分の首下に突き刺した。
堤防が決壊したかのように勢いよく血が噴き出し、尋常ではない量の血がリビング中に撒き散らされる。一瞬ごとに生気を失っていく珠洲の姿を眺めること十数秒後、一体の死体が出来上がった。後に残ったのは、両手両足を椅子に括り付けられた俺と、その目の前に倒れている黒髪サイドテールの女の子の死体だけだった。
……。
…………。
……………………。
騒ぎを聞きつけて、駅のホームで電車を待っていた人々が俺の近くに集まってくる。無論、彼らは俺を目的として集まっているのではなく、その目の前の惨状を一目見ようと集まっているに過ぎない。
まただ。また音穏が死んだ。事故死だ。車に轢かれたわけじゃない。電車に乗って、出かけることになって、駅に来て、足がもつれた音穏がホームから落ちて、直後電車が通過して、そのまま轢かれた。今は停車している目の前の電車が移動したら、その下にはどんな惨状が広がっているんだろう。想像したくもない。大勢の人の波に逆らって、俺は駅のホームから出ることにした。
俺は今まで何度も繰り返した。確か、これで三百四十三回目だ。
音穏が死に、それを助けると阿燕が死ぬ。
阿燕が死に、それを助けると栄長が死ぬ。
栄長が死に、それを助けると珠洲が死ぬ。
珠洲が死に、それを助けると須貝が死ぬ。
須貝が死に、それを助けると飴山が死ぬ。
飴山が死に、それを助けると杉野目が死ぬ。
杉野目が死に、それを助けると音穏が死ぬ。
それぞれ死因は様々だ。事故死が多かった気がするが、他殺や自殺など、そのバリエーションには驚かされるばかりだった。また、それぞれ死亡時刻も様々だった。俺が過去改変を終えて現在に帰ってきた後に死亡したり、俺が過去改変を終えて現在に帰ってきた段階ですでに死亡している扱いになっていたり、俺がまるで知らないところで死亡していてしばらく経ってからそれを知ったり、まるで規則性がない。
あの日、音穏が殺された十月九日から一ヶ月も経っていないのに、こんなにも多くの悲劇が起きてしまった。誰かを救えば誰かが死ぬ。途中からそんな法則が見え始めて半ば諦めかけながらも、挫けずにみんなを救っていった。それなのに、この世界は俺の意思などお構いなしといった様子で無意味で無慈悲な虐殺を繰り返す。
もう……終わりにしよう……きっと、音穏はどうやっても死なないといけない運命だったんだ。だから、この世界はそれを捻じ曲げようとした俺をこらしめようとして、他のみんなまで巻き込んだんだ。今過去改変をやめれば、音穏の死を回避させなければ、他のみんなが死の苦痛を感じる必要はなくなる。諦めたくはなかったけど、もうこれしか方法がないんだ――、
「やぁ、随分とお困りのようだね。助けてあげようか?」
駅の改札口を抜けたとき、ふとそんな声が聞こえてきた。ゆっくりと顔を上げてみると、そこには音穏そっくりだが少し違う女の子が一人立っていた。