第三話 『連鎖』
一瞬、今がどういう状況なのか理解できなかった俺は、周囲を見回した。
どこか見覚えのある光景。言うならば、木々が生い茂り、膨大な草むらに囲まれていることから、公園かそれに類する場所だということが分かる。
加えて、この明るさ。正確な時刻までは分からないが、少なくとも昼間だろう。それも、夜明け直後と夕方を除くと、およそ午前八時から午後四時くらいに絞られる。
公園……午前八時……まさか、本当に、俺は過去に来れたのか?
となると、ここはあの日の午前八時頃であり、広大な面積を誇るグラヴィティ公園のどこかにある草むらの中ということになる。いや、タイム・イーターが奇跡で俺を過去に飛ばしてくれたのなら、ここはあの事件が起きるすぐ近くのはずだ。そうであってほしい。
草むらから出ようとした直前、あることを思い出した俺は咄嗟に身を屈めた。それは、俺の右手に握り締められている、血のついた包丁だった。その血は、俺の体感時間でついさっき、珠洲を突き刺したときについた血に他ならない。
瞬間、俺の全身を強烈な寒気が襲った。
そういえば、何で俺は珠洲にあんなことをしてしまったんだろう。義理とはいえ、仮にも俺の妹なのに。いや、たとえそうじゃなくても、何の躊躇いもなく人に包丁を突き刺すなんて、人間として狂っている。ずっと自分の部屋に引き篭もって、時間の感覚すらなくなってしまっていたから、判断力や理性が正常に保たれていなかったのかもしれない。
でもまぁ、音穏を助ければ全ては元通りになるはずだから、心配することはない。音穏を助けて現在に帰れば、珠洲だって元通りになっているはずだ。
草むらに身を潜めながら、自分の格好を確認する。顔を覆い隠せるくらいのフードが付いた、全身真っ黒のジャージ。平日のこの時間帯なら、こんな格好で公園をジョギングしている人もいるから、さほど目立つようには思えない。まぁ、全身真っ黒となると、さすがにあまり見かけないが。
とりあえず、包丁についていた血はジャージの内側で拭き取っておいた。そして、包丁はそのままジャージの内側で隠すように持ち歩くことにした。いくらなんでも、街中で平然と包丁を持ち歩いていたら、俺の方が通報されかねないと思ったからだ。
珠洲に包丁を突き刺したときにジャージの表面に飛び散った血は、俺が身を潜めていた草むらから十数メートルのところにあった水飲み場で洗い流しておいた。誰にも見られていないことを用心深く確認しながら行動したから、たぶん目撃者はゼロのはずだ。
ついでに、少し遠いが、グラヴィティ公園にある時計塔を確認しておいた。色々と見覚えのある時計塔だったため、ここをグラヴィティ公園だと確信できた。また、現在時刻は七時五十三分だということも分かった。
ん、ちょっと待てよ。確かグラヴィティ公園は、かつて杉野目が前の世界からこの世界に来た際に発生した重力場の影響で、周辺に様々な異常現象が起き、それを知った前市長が改名したんじゃなかっただろうか。そして、そのときに記念として作られたのが、あの時計塔だったはず。
時空転移前に読んだ新聞記事には、事件はグラヴィティ公園前の通りで起きたって書かれていたし、今もこうして俺の目の前に時計塔は佇んでいる。うーん……どういうことだろう。
杉野目がタイムトラベラーではなくなった以上、この公園とその周辺で重力場による異常現象は起きないはず。つまり、前市長が公園を改名したり時計塔を作ったりするきっかけはないはずなんだが。
まぁ、今はそんなことはどうでもいい。移動時間も含めて、余計なことを考えていたせいで、随分と時間を食ってしまった。あと数十秒で八時になる。あの事件が起きてしまうまで、あと五分もない。
俺は少し焦りながら、あの事件が起きたグラヴィティ公園前の通りに急いだ。もちろん、その間も包丁はジャージの内側で隠しながら走っていたし、タイム・イーターも落とさないように掴んでいた。湖晴がしていたみたいに、首から提げれば済むだろうということに、このときは気づけなかった。
二分ほど走り続け、俺はようやくあの事件現場へと到着した。やっぱり運動不足が災いしたのか、今にも死んでしまいそうなほどしんどい。心臓は口から出てしまいそうなほど激しく鼓動しており、両足は取れてしまいそうなほどガクガク震えている。のどが焼け焦げてしまいそうなほど息は荒く、口の中は血の味で一杯だった。
ごく平凡でごく平和な街の風景に溶け込みながら、俺は目を凝らして遠くの方を見た。すると、青を基調としたデザインの制服を着た高校生くらいの男女数名が、向こう側からこちら側に歩いてくるのが確認できた。楽しそうに話しながら、これからの学校生活に希望を抱いている。そんな風に見えた。
間違いない。あれは十月九日の俺たちだ。無論、そこには、俺が知っている世界にはもう存在しないはずの女の子も含まれていた。
彼らに見つからないようにした方がいいと考えた俺はフードを深く被り、こそこそと場所を移動した。それと同時に、例の通り魔事件の犯人の姿を捜した。グラヴィティ公園の中、その手前の通り、少し離れたところにある商店街、横断歩道の向こう側、住宅街。八時四分に間に合うように事件現場に走ってこれる場所はくまなく確認したが、それらしい人物は見当たらない。
俺が読んだ新聞紙の記事に載っていた通り魔事件の犯人と合致する顔の人物はもちろんのこと、全身黒ずくめで顔を隠している人物は一人として見つからない。これはどういうことなのか、少し考えてみたが、結局よく分からなかった。
改めて、遠くの方にある時計塔を確認する。現在時刻は八時二分。遠くの方を歩いている彼らも、あと二分もあれば充分にここまで来られるだろう。
何もかも、何もかもが、俺が知っている通りに動いている。当然だ。この過去からしてみれば未来から来た俺は、これから起きることを全て知っているのだから。
でも、この感覚は何だ。今のところ、多少は未知の出来事が起きているが、大きな問題は起きていない。それなのに、この違和感は何なんだ。
不意に、俺はそれに気づいた。新聞記事に載っていた、通り魔事件の犯人と似ている顔の人物が、グラヴィティ公園前の通りを歩いている。フードを被って顔を隠しているわけではないし、全身黒ずくめとはほど遠い外見だったが、間違いない。
事件発生まで、あと三十秒のことだった。
意を決した俺は立ち上がり、グラヴィティ公園内からその手前の通りに向かって走った。そして、そこを歩いている『奴』に、全力でタックルした。
俺にタックルされた『奴』は俺と一緒に車道に吹っ飛び、体勢を崩して倒れ込んだ。頭でも打って気絶したのか、倒れてからしばらくしても動き出す気配はない。周囲がざわざわと騒がしくなったのをよそに、俺は下敷きになっている『奴』の体を探って、刃物を探した。しかし、ナイフ一本さえ見つからなかった。
そのときだった。俺の背後から、悲鳴のような声が聞こえてきた。振り返ってみると、そこには全身黒ずくめでフードを深く被って顔を隠している男が、手に持っているナイフを構えて、さっきの高校生数名に襲いかかろうとしている光景が見えた。
瞬間、俺は理解した。周囲がざわざわと騒がしくなったのは、俺が『奴』にタックルしたからではなく、向こうで繰り広げられている光景に人々が注目していたからだということを。そして、俺が通り魔事件の犯人だと思い込んでいた人物は間違いで、俺の下敷きになっている男性は『奴』ではなく、まったくの人違いだったということを。真犯人は、俺の背後で、その手を血に染めようとしていた。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
のどが潰れてしまいそうになっていることになど気にも留めず、俺は腹の底から、街全体に聞こえるような大声を発した。そして、ジャージの内側に隠していた包丁を取り出し、それ右手に握り締めて構えながら全力疾走をして、真犯人の背後に向かっていく。
火事場の馬鹿力とでもいうべきか、そのときの俺は本来の能力以上の力を発揮していた。どう考えても、普段の俺ならまず間に合うことがないということは明らかなのに、俺はそれを間に合わせることに成功した。それはつまり、真犯人が俺を庇った音穏にナイフを突き刺す前に、この俺が真犯人の背後一メートルの地点まで移動できたことを意味していた。
俺は躊躇うことなく、手に握り締めている包丁を真犯人の背中に突き出した。
……しかし、俺が突き出した包丁はそのまま空を切った。ついさっき、俺が大声を発したのを聞いていたのか、真犯人は俺の存在を認識していたらしい。そして、その俺が突き出した包丁を避けるため、瞬間的に真横に飛び退いたのだった。
真犯人が俺が知っているものと異なる行動をした以上、少なからず過去改変は行われるはずだ。加えて、真犯人が逃走したとなると、通り魔の犯人はいなくなったということになり、音穏が死ぬことはない。
やっと、音穏を救うことができた。だが、その俺の希望は、次の瞬間には絶望へと豹変する。
真犯人に突き刺そうとした包丁が空を切ったとなれば、それはどうなるのか。すなわち、全力疾走してきた俺の体はもはや制御不能であり、そのまま直進するしかない。その先にいるのは、誰か。
音穏だ。
まずい、まずいまずい、まずいまずいまずいまずい……! このままだと、俺が音穏を殺すことになってしまう……! 今の俺は上下黒のジャージを着ていて、フードを深く被って顔を隠している。このまま俺が音穏を突き刺してしまうなんてことがあれば、過去は何も変わらない。真犯人が音穏を殺したということになり、同一時間上で過去改変を行えない以上、もう二度と――、
そんなことになったら、俺は……後悔しても、仕切れない……!
俺が握り締めている包丁が、あと数ミリで音穏の腹部に突き刺さろうかというとき、一瞬だけ辺り一帯に眩い閃光が放たれた。次の瞬間、俺は意識を失い、現実と夢の境目が分からなくなった。
……。
…………。
……………………。
「――ちゃん、お兄ちゃん」
ふと気づいたとき、俺は自分の家のリビングにいた。椅子に座っている俺の目の前にあるテーブルには、色取り取りの美味しそうな料理が並んでいる。面子からして、朝ご飯だろうか。
「あ……れ……?」
「お兄ちゃん、大丈夫? さっきから、ずーっと心ここに在らずーって感じだけど」
「珠洲……」
テーブルを挟んで、俺の正面には珠洲が座っていた。珠洲は俺の顔を見ながらそんな台詞を言うと、ご飯を口に運んでいった。
まさか、さっきまで俺が過去に行っていたというのは、全て夢だったのか……? 俺は時空転移前に珠洲に大怪我を負わせてしまったが、見たところ、俺の目の前に座っている珠洲にその気配はない。いつも通りの、いたって健康的な珠洲そのものだ。
あれは夢だったのさと言われれば、そうだったような気もしてくる。だって、操作方法が分からず、動力源がないはずのタイム・イーターが、俺の願いを受け入れて勝手に起動するなんて、あまりにも都合が良すぎる。奇跡という一言で解釈しようにも、事が俺の思い通りに進みすぎていた。
つまり、昨晩俺は珠洲に包丁を突き刺したりはせず、時空転移して過去改変を行うこともなかった、ということになるのだろうか。それで、俺は無意識のうちに朝食の席に座り、こうして珠洲と朝ご飯を食べている、と。
何だ……結局、俺は何も変えられなかったんじゃないか。
「お兄ちゃん、そろそろ急いだ方がいいんじゃない?」
「え?」
不意に、珠洲がそんな台詞を言った。珠洲が言った台詞の意味を理解できなかった俺は、一瞬だけ呆気に取られた。そして、その台詞の意味を理解するために、珠洲に聞き返すことにした。
「急ぐって……何で? というか……何に?」
「え、お兄ちゃん、それはいくら何でも酷いんじゃない? ほら、今日はソフトボールの試合を見に行くって言ってたじゃん」
「俺が……? 俺、珠洲とそんな約束したのか……?」
「違う違う、ワタシじゃないよ。第一、受験生のワタシがソフトボールの試合を見に行く時間なんて取れると思う?」
「いや、そうは思わないが……だったら、俺は誰とその約束をしたんだ……?」
こんな朝っぱらからソフトボールの試合を見に行くということもそうだが、その約束を誰としたのか、まったく心当たりがない。考えることさえやめた俺は、珠洲の次の台詞を待った。
「お兄ちゃん、音穏さんと一緒にソフトボールの試合を見に行くんだーって言ってたじゃん」
そのとき、何かが変わった気がした。