第二話 『回避』
俺はそれを拾い上げ、近くにあった椅子に腰掛けた。
「ははっ……何でプロトタイプがこんなところにあるんだ……?」
掠れる声でそう呟いた後、俺はすぐに思い出した。あぁ……そうか、そうだった。湖晴が去った後、残された俺は手元にあるプロトタイプを念のため保管しておこうと思って、そのままにしていたんだった。
とはいっても、入院中は家に帰れていなかったから、当然手入れなんかできていない。退院した次の日に音穏が殺されて、実感が沸かないまま葬式とか色々が済まされて、それから俺はずっと部屋に引き篭もっていた。だから、これの存在すらすっかり忘れていた。
まだこんなものがあったなんて。珠洲にでも頼んで、処分してもらおうか。きっと、そうすれば湖晴の意思を尊重できるだろうし、今さらこんなものを使う機会もない……本当にそうか? もしかして、これを使えば、音穏を助けられるんじゃないか?
瞬間、腐り切った俺の脳が覚醒し始めたのを感じた。
十月九日午前八時四分、場所はグラヴィティ公園前の通り。そこに行って、登校中の俺たちをどこか別のところに避難させたら、音穏を助けられるんじゃないか?
駄目だ。言うまでもなくこれをできるのは俺しかいないが、現在の俺と過去の俺が出会ってしまえば、何が起きるか分からない。以前、湖晴が話していたような気がするタイムパラドックスが起きるかもしれない。まぁ、散々過去改変してきて、今さら心配するようなことでもないかもしれないが。
だったら、俺が犯人を撃退して、警察に突き出してしまえばいいんじゃないだろうか。朝っぱらから素顔を隠してナイフを持ち歩いていたとなると、警察も放ってはおけないはずだ。少なくとも、不審者として数日間は行動を制限してくれることだろう。よし、これなら現在の俺が過去の俺に会う必要はないし、タイムパラドックスが起きる心配もない。
そこまで考えた後、俺はすぐに別の問題に直面した。
待て、待て待て。音穏を死なせないようにする方法は分かったが、そもそも俺はタイム・イーターの操作方法なんて知らないぞ? 湖晴や玉虫先生から教えられた記憶はないし、たとえ教えられたことがあっても、この数日間で忘れた。湖晴がタイム・イーターを操作している光景なら思い出せるが、具体的にどう操作していたのかまでは覚えていない。
俺は手に持っているフリスビーくらいの大きさの円盤を確認した。大中小のダイヤルがそれぞれ一つずつ、重なるようにして連続に並んでいる。そのダイヤルと円盤の側面には無数のボタンやスイッチがあり、中央部分には懐かしい『◇』のような形の鍵が埋め込まれている。さて、どう操作すれば正常に作動するのか、皆目見当もつかない。
俺は手に持っていたタイム・イーターを床に叩きつけた。部屋中に大きな音が響き、軽く眩暈がした。
「畜生!」
せっかく……せっかく音穏を助けられるかもしれない、唯一の方法が目の前にあるというのに、操作方法が分からないんじゃどうしようもないじゃないか。一か八か、運任せでダイヤルをセットして、ボタンやスイッチを押してみるか? いや、下手なことをして、もっと良くない方向に物事が進んだらどうするつもりだ。
それ以前に、あのタイム・イーターには動力源が残っているのか? 確か電力で動いていたはずだが、俺はその充電風景を見たことがない。湖晴が勝手にうちの電力を使っていて、珠洲に叱られていたっけ。
莫大な電力を消費するであろうタイム・イーターの充電を家庭用のコンセントから補えるものなのか、たとえそれができたとしても、さっきタイム・イーターを調べてみた限りでは、充電用のコードの差込口は見当たらなかった。
まさか、玉虫先生がずっと保管していたこのプロトタイプは、湖晴が持たされていたタイム・イーターとはまったくの別物で、そういう細かい機能も異なるんじゃないだろうか。それなら辻褄が合うが、結局何も解決してくれない。
何だ。やっぱり無理じゃないか。結局俺は、たった一人の女の子でさえ、救うことができないんだ。
「お兄ちゃん!? お兄ちゃん大丈夫!? さっき何か大きな音が聞こえたけど!?」
隣の部屋から物音が聞こえたかと思うと、俺の部屋のドアを叩きながらそんな風に呼びかけてくる珠洲の声が聞こえてきた。大きな音って何だって思ったけど、さっき俺がタイム・イーターを床に叩きつけたときの音だろうとすぐに納得した。
「ごめん。寝惚けて椅子を蹴り飛ばしただけだ」
「そ、そうだったんだ……よかった……ワタシ、お兄ちゃんが自殺でもしたのかと思っちゃったよ……」
自殺か……俺は無神論者だが、死んだら音穏に会えるっていうのなら、ナントカ教に入ってやるのもいいかもしれない。いやいや、むしろ、いっそ、試しに死んでみようか。
「あ、ごめんね、夜中に騒いじゃって。それじゃあワタシ、明日も早いからもう寝るね。おやすみ」
珠洲はそう言うと、俺の部屋の隣にある自分の部屋に戻ったらしく、再び辺り一帯に静けさが帰ってきた。あの日からずっと部屋に引き篭もっている俺だが、この静けさの中にいると、少しずつ自分が何なのか分からなくなってくる。哲学的な話になりそうなので、これ以上続ける気はないが。
「そうだ……トイレに行きたいんだった」
タイム・イーターを見つけたことで忘れかけていたが、俺は自分がトイレに行く途中だったことを思い出した。もう尿意は催していないが(漏らしたわけじゃない)、せっかく思い出したことだし、とりあえず行っておこう。そう考えた俺はゆっくりと部屋のドアを開け、一階にあるトイレに向かった。
その帰り道、ふと、リビングにあるテーブルの上に読みかけの新聞が放置されているのを発見した。うちって、新聞取ってたっけ。まぁ、そんな細かいことはどうでもいい。たぶん、珠洲が買ってきたか何かなんだろう。
何気なくその新聞を見てみると、そこには例の通り魔事件の記事が書かれていた。
その記事の見出しのみを見た俺は、これ以上先を読み進めるべきなのか、一瞬だけ迷った。でも、俺の中の何がそうさせたのか、気づくと俺は無意識のうちにその記事を読み進めていた。
一人の女子高校生の命を奪った、通り魔事件。被害者の名前と顔写真、今朝逮捕されたという犯人の名前と顔写真が載っている。事件はなぜ起きたのか、被害者の遺族や友人たちへのインタビュー、犯人が殺人という行為に至った経緯。それ以外には、別の場所で起きたらしい同様の事件と関連づける記事まであった。しかし、そのどれもがまるで参考にならない、薄っぺらなことばかり書かれていた。
でも、でも、でも、でも――、
「こいつが、音穏を殺したんだ」
音穏を殺した通り魔事件の犯人。俺たちと無関係の見ず知らずの人物。俺からしてみれば、死刑程度で済まされない、どうしようもない罪人。その憎むべき対象の顔と名前なら、この新聞記事に書かれている。事件を起こす前、どこで何をしていたのか、凶器はナイフだけだったのか、その全てが書かれている。
別に、これは音穏のために復讐心を燃やしたわけじゃない。ただ、俺がそうしたいからするだけだ。俺は、犯人の顔写真に何本ものカッターが突き刺さっている新聞から視線を外し、そのまま台所へと向かった。
台所の流し台の下にある引き出しを開け、そこから無作為に一本の包丁を取り出す。
きっと、俺がこれからしようとしていることは、間違っていることなんだろう。でも、そもそも間違っていることって何なんだろうな。何もかも正しいことだけで世界を構成しないといけないのなら、何で音穏は死なないといけなかったのか。まさか、音穏の死こそがこの世界にとって正しいことだとは言うまい。あんな平凡な女の子の死が、正しいことなわけないのだから。
「お兄ちゃん。何してるの?」
右手に包丁を握り締めた俺はその場で硬直し、その声が聞こえた方向を見た。そこには、珠洲がいた。
「何でこんな夜中に、包丁を持っていこうとしてるの?」
「珠洲には関係ない」
「関係ないことないよ。ちゃんと説明して」
「どいてくれ」
「どかないよ。だって、ワタシはお兄ちゃんの妹だから。お兄ちゃんが危ないことをしようとしているのなら、それを止めないと――」
珠洲はそう言いかけると、突然床に倒れた。
何で突然倒れたかって? それはもちろん、俺が珠洲の腹部に包丁を突き刺したからだ。
ある目的のために行動しようとしている俺を、珠洲は止めようとした。それはつまり、珠洲は彼女を見殺しにしても構わないと言っているのと同義だ。俺が珠洲の腹部に包丁を突き刺し、それを捻じ込むようにして傷口を広げ、勢いよく引き抜く理由は、それだけで充分だった。
華奢な体に開いた大きな傷口から、真っ赤な鮮血が溢れ出る。それは少しずつ床に広がっていき、珠洲の周りに血の水溜りを形成していく。自分の足が汚れることになど気にも留めず、俺はその血の水溜りを踏みながら、二階へと上がった。倒れた珠洲は俺を止めようとせず、一言も声を発しなかった。
全部、全部全部、やり直せばいいんだ。過去に行って、音穏を助ければ、それでみんな救われる。
自分の部屋に戻った俺は考えた。タイム・イーターで過去に行くとして、その先で何をすれば過去改変ができるのかはもう考え終わったことだ。それなら、どうやってタイム・イーターを起動させればいいのか。その答えは至極簡単なものだった。考え始めて、たぶん数秒で閃いた。操作方法なんて、教わる必要なんかなかったんだ。
湖晴の過去を改変するときもそうだった。俺はその操作方法を教えられていなくても、難なく時空転移できていたじゃないか。しかも、大怪我を負って指一本動かせない状態でも、タイム・イーターは勝手に俺を別の過去に飛ばしてくれた。それなら、今回もそうすればいい。
そういう風に設定されているのなら、俺はそれを見つけるだけでいい。
「なぁ……頼むよ。俺を、あの日に飛ばしてくれよ」
機械に話しかけたところで、何かが起こるとは思っていない。これは、俺自身の気持ちの問題だ。ただ、自分の気持ちを整理したいという一心で、そうしているだけ。
「俺はな、どうしても音穏を助けなくちゃいけないんだ。音穏は、俺なんかよりももっと多くの人たちに幸福をもたらしてくれる、可愛らしい女の子なんだ。そんな、まだ十六年と数ヶ月しか生きていない彼女が、こんなにあっさり死んでいいわけないじゃないか。タイム・イーター、頼むよ。俺の願いを聞き入れてくれるのなら、俺の命でさえ差し出してしまってもいい。だから、どうか、俺を、十月九日に起きたあの事件を回避させるために、時空転移させてくれ」
瞬間、明かりが点いていないはずの俺の部屋が、黒一色から白一色へと変わった。そのあまりの眩しさに、俺はとっさに目を瞑った。
機械に人間の言葉が理解できるわけがない。
動力源がないのに起動するわけがない。
それなのに、これはいったい何だ。この眩い閃光は、タイム・イーターが時空転移するときに発せられるものだ。これではまるで、タイム・イーターが俺を時空転移させようとしているみたいじゃないか。
もう取り返しのつかないところまできてしまった。そのことに、とっくに気づいていたのに、俺は本当にやり直せるんじゃないだろうか。でも、どうやったんだ。これが、奇跡ってやつなのか。何だ、無理だと分かっていても、やってみれば案外できるじゃないか。
しかし、当然のことながら、このときの俺はその『奇跡』の正体を知る由もなかった。
同時に、これから起こる惨劇と、奇跡の対価なんて、これっぽっちも考えもしなかった。
「お……兄……ちゃん」
眩い閃光の向こう側、一面真っ白に塗り潰されたどこかから、そんな声が聞こえてくる。その声は俺の義理の妹の珠洲のものであり、それはもう辛そうな声だった。
「駄目だよ、お兄ちゃん……こんなことをしても、何も――」
珠洲の台詞を最後まで聞き届けられないまま、俺の意識は途切れ――、
……。
…………。
……………………。
ふと目が覚めたとき、俺はどこかの草むらの中にいた。木と土の匂いが辺り一帯に充満し、鼻を刺激する。加えて、久し振りに感じられた太陽光が、俺の両目を焼き焦がそうとする。運動不足極まりない体はギシギシと軋み、思うように動いてくれない。数分かかって、やっと体を起こすことに成功する。
俺の右手には、真っ赤な液体が滴る包丁が。そして、俺の左手には、プロトタイプが掴まれていた。