第一話 『残酷』
どこか遠くの方から、ニュースキャスターの声が聞こえてくる。
『――続いてのニュースは、先日起きた通り魔事件についてです。事件は十月九日午前八時頃、黒のパーカーを着た男が登校中の高校生数名にナイフを突きつけ、そのうちの一人の命を奪うという悲惨な結果となりました。被害者の名前は、地元の高校に通う××××さん。犯人は昨晩まで逃走を続けていましたが、今朝未明、「刃物を持った男が徘徊している」という通報を受けた警察が現場に向かったところ、目撃証言と合致する人物を発見し、その身柄を拘束しました。殺人の疑いで指名手配されていた男は――』
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不意に、トントンとドアを叩く音が聞こえてくる。
「……お兄ちゃん、入っていい?」
かれこれ十年くらい聞き続けている馴染み深いその声に、俺は返事をしなかった。返事をしなかったというよりは、返事をする気がなかった。いや、返事をする気力すら起こらなかった。
その声の主は俺の意図を察したのか、しばらくしても部屋に入ってくることはなかった。そして、数十秒間の沈黙の後、ドア越しで俺に話しかけてきた。
「××さんを殺した犯人、捕まったって」
俺は返事をしなかった。
「その……えっと……ワタシから言うのも何だけど……もう××さんのことは忘れない……? ××さんがお兄ちゃんにとって大切な人だったっていうのは分かってるし、ワタシも親しくしてもらってたから、亡くなったって聞いたときは本当に悲しかった……でも、お兄ちゃんの妹であるワタシからしてみれば、そのことでお兄ちゃんが辛そうにしていたり、苦しそうにしている姿を見ている方が辛いんだよ……? それに、××さんだって、そんなお兄ちゃんの姿は望んでないと思う。だから――」
俺は返事をしなかった。
「ごめん……ワタシがどうこう言っても、お兄ちゃんの気持ちが急に変わったりはしないよね……ワタシ、もう一階に行くから。朝ご飯は部屋の前に置いておけばいい?」
俺は返事をしなかった。
「うん、分かった……それじゃあ、あとで置いておくね。食欲がなかったら、残してくれてもいいから。あと、学校は……今日も休みますって連絡しておいた方がよさそう……だね」
俺は返事をしなかった。
「燐さんたちも心配してるだろうし、体調がよくなったらワタシに言ってね。そういえば昨日、燐さんたちが『明日も来る』って行ってたけど、まだ会えそうにない?」
俺は返事をしなかった。
「そう……だよね。今は、誰にも会いたくないよね……ごめん。ワタシ、もう戻るから」
俺は返事をしなかった。
「……お兄ちゃん……何で、何でこんなことになっちゃったんだろうね……昔みたいに、誰にでも優しい、あのときのお兄ちゃんに……戻ってよ……」
ドアの向こう側から、グスングスンと泣き声が聞こえてくる。そして、その声の主が階段を降りていく音が聞こえ、それに従って泣き声が遠くなっていく。最終的に泣き声も階段を降りていく音も聞こえなくなった。
今はいつだっただろうか。何年何月何日の何時何分何秒だっただろうか。皆目検討がつかない。それ以前に、もはやそんなことになど、興味も沸かない。心底どうでもいい。
おそらく、三日前……いや、一週間前だったか……それとも、一ヶ月前だったか。その日、俺は大切な人を失った。この俺がとある白衣の少女を救い、彼女がタイム・イーターと呼ばれる時空転移装置を回収する旅に出かけ、しばらくしてから俺が退院した、次の日。それは突然に起きた。
俺の幼馴染である野依音穏が、通り魔に殺された。
……。
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カーテンの隙間から微かに光が差し込んでくる薄暗い部屋の中、布団に包まりながら眠っていた俺は、ふと目を覚ました。何だか、部屋の外が騒がしい。寝起き特有の、生きているのか死んでいるのかはっきりとしない意識の中、俺は部屋の外から聞こえてくる声を聞いた。
「珠洲ちゃん。次元君、まだ立ち直れてない感じ?」
「はい……今日も、昨日と同じような感じです。せっかく来てくれたのにすみません、燐さん」
「ううん、珠洲ちゃんが謝ることじゃないよ。もちろん、次元君に非があるわけじゃないけどね」
「お兄ちゃん、音穏さんとは昔から凄く仲が良かったですから、やっぱりショックだったんだと思います。ワタシが用意したご飯も、ほとんど手をつけてないみたいでしたし」
「私が言えたことじゃないけど、このままだといつ栄養失調で倒れるか分からないわね……でも、どうやって元気付けたらいいのか……」
「……燐さんは、どうやって立ち直ったんですか?」
「え、私? うーん……実のところ、事件からしばらく経った今でも、あんまり実感が沸いてないのよね。ついこの前まで普通に生活していた音穏ちゃんが、こんなに突然死んじゃうなんて、思いもしなかったから。それに、次元君があんな調子だったら、音穏ちゃんにも申し訳ないでしょ? だから、せめて私だけでもしっかりしないとっていう思いがあったから、かな」
「そうですか……ワタシも燐さんと同じように、音穏さんの死についてまだ実感がありません。音穏さんが殺された瞬間はその場にいませんでしたけど、お葬式などには参列させて頂きましたし、音穏さんの死をとっくに理解しているはずなのに……どうしても、その実感が……」
「とにかく今は、何が何でも次元君に立ち直ってもらわないと。私や珠洲ちゃんをこんなに心配させて、学校のみんなも心配してくれてるのに、いつまでもくよくよされたら困るからね。このままだと、私自身、音穏ちゃんに会わせる顔がないし」
「あの、すみません……今日はもう、お兄ちゃんの部屋には行かないであげてもらえませんか……?」
「……どうして?」
「たぶん……あくまでワタシの推測なんですけど、お兄ちゃんは××さんが来ない限り、前みたいには……音穏さんが亡くなる前みたいには戻らないと思うんです」
「××ちゃんって……今はどこか遠いところに行ってるんだよね?」
「どこに行ったのか、いつ帰ってくるのかは分かりませんが、そう聞いています。あ、そうだ。燐さん、××さんの連絡先って知ってますか?」
「一応、電話番号なら交換したんだけど……連絡が取れないのよ」
「え?」
「珠洲ちゃんに言われるよりも前に、もしかしたら××ちゃんを会わせれば次元君も立ち直るんじゃないかって思って、私から××ちゃんに電話をかけたことがあるの。でも、何度かけても、結局繋がらなかった。あと、メールを送ってみても、返事が帰ってくる気配もなかったの」
「そうだったんですか……お兄ちゃん、音穏さんと同じくらい××さんのことを大切に思っていたみたいですから、××さんが来てくれれば絶対立ち直るって思ったんですけど……××さんが来れないとなると、どうしたら……」
「……それじゃあ、私はもう帰るね。また家に帰ったら、色々と××ちゃんについて調べてみるから、何か分かったら連絡する」
「はい……宜しくお願いします」
その台詞を最後にして、世界は再び沈黙する。
俺の恋人、俺の最愛の女の子、照沼湖晴もまた、ここにはいない。
……。
…………。
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この俺、上垣外次元はロングスリーパーであり、平凡主義者の高校二年生だ。平凡・普通・平均を理想とし、大きな変化を好まない。今のままの状態、ありのままの自分。そんな世界を幸福なものだと思い込み、十六年と数ヶ月の人生を歩んできた。
はずだった。
一ヶ月前、そんな俺の人生は、突如として現れた白衣の美少女照沼湖晴により、劇的な変貌を遂げた。いや、その変貌とは予め定められた必然以外の何物でもなく、俺はただ、そのことを忘れていただけだった。正確には、そうなるようになっており、俺はそのことを知らなかった。
俺は湖晴とともに、幼馴染の野依音穏、同級生の豊岡阿燕、科学結社所属の栄長燐、義理の妹の上垣外珠洲、アイドルの須貝輝瑠、後輩の飴山有藍という六人の少女の凄惨な過去を改変し、現在で起きた重犯罪事件が起きないように導いた。
飴山の過去改変の頃、俺と湖晴はお互いのことを異性として意識し始めた。そして、俺にとって六回目の過去改変が終わった後、湖晴に告白された俺は、その晩に湖晴を抱いた。
それから、杉野目施廉の要求もあって、玉虫哲先生のところに行くことになった俺は、そこで全ての真相を知ることになる。
俺の身の回りで起きたことは全て、最初の世界で俺が湖晴を救おうとしていたことによってもたらされたものであり、今までの俺はその流れを少しばかり変えていただけに過ぎなかったことを知った。最初の世界の俺が言葉通りの意味で命をかけて、玉虫先生とともにそれぞれの大切な人を救おうとしていることも知った。
そして、何度も何度も時空転移して、様々な過去に飛んで、ようやく俺は湖晴を救うことに成功した。でも、湖晴はタイム・イーターを作ったことを覚えていないこの世界の玉虫先生の代わりに、放置されているタイム・イーターを回収する必要があると言って、俺の下から去っていってしまった。
やっと、やっと助けられたのに、こんなにも早くに分かれなければいけないなんて、思いもしなかった。でも、俺は湖晴の台詞を信じて、湖晴が笑顔で俺のところに帰ってきてくれるその日を待ち続けようと決意した。
この世界は俺がよく知る平凡で平和なものになり、俺もそれでいいと思っていた。
それなのにそれなのにそれなのにそれなのに、それでよかったのにそれでよかったのにそれでよかったのにそれでよかったのに、この世界はまたしても、俺を拒んだ。
音穏が殺された。
俺の幼馴染で、湖晴を除けば俺の一番近くで、最も長い時間俺のことを支え続けてくれた、あの活発少女が殺された。笑顔が可愛くて、感情の起伏が激しくて、何となくからかってみると暴力を振るわれて、それが思いのほか痛くて、何気ない一言を言うと顔を真っ赤に染めたりして、そういうところも俺は好きで、どこか放っておけない女の子で、他にも一杯――、
音穏は、俺を庇って殺されたんだ。
数多に拡張された世界が湖晴を救ったことによって一つに収束し、それによってこの世界は本来の姿を取り戻すはずだった。そのはずだったのに、実際はそんなことはなかった。何も変わってなんかいなかった。この世界にとって異端の存在である……いわゆる特異点のような存在である俺は、またしてもこの世界に拒まれた。だから、よりにもよってあんな日に、無差別の通り魔なんかに狙われたんだ。
それを、音穏が身代わりになった。
もう一度俺を湖晴に会わせるために、こういうときに限って自分の身を投げ打って、こんなどうしようもない俺のために殺された。
「何で……何で、俺なんかを庇ったんだよ……音穏……」
ふと気がつくと、俺は泣いていた。もうこれ以上出てくる涙なんてないと思っていたのに、涙はどんどん溢れ出てくる。ぼろぼろと大粒の涙が滴り落ちていく。体中の水分が涙となり、両目から外界へと逃げていく。
俺がどれだけ後悔したところで、音穏は帰ってこない。
通り魔の犯人が捕まったところで、音穏は帰ってこない。
誰が何をしたところで、野依音穏はもう、あの可愛らしい笑顔を見せてはくれない。
いつまでもこうしているわけにはいかない。そんなこと、とっくの昔に理解できていた。でも、湖晴がいない今、音穏さえも失ってしまった俺は、どうすることもできなかった。
俺がこうして一日中部屋に引き篭もっていることで、みんなに迷惑をかけていることは分かっている。特に、同じ屋根の下に住む珠洲には心配をかけているし、事件以来毎日お見舞いに来てくれる栄長には申し訳ないと思っている。
分かってる、分かってるよ。分かっていてもできないから、人間なんだ。分かっていて何でもできるなら、それはもう人間じゃない。人間の姿形をした、別の何かだ。
だとしたら、俺はいったい何なんだろうな。俺は、人間だと思うけど。正しいかどうかは分からない。
それ以前に、俺が今までやってきたことって、いったい何の意味があったんだろうな。
「……トイレ行こう……」
深夜二時。珠洲はとっくに夢の中だろうか。何もかもが暗闇と静寂に包まれている世界で、俺はそう呟いた。俺はおよそ二十四時間ぶりに自分の部屋の外に出ようと、布団からゆっくりと立ち上がった。
もう何日も外に出ていないからなのか、元々貧弱な足腰がさらに弱くなってきている。黒一色の景色の中、俺はふらふらと足をおぼつかせながら、手探りで机や棚にもたれかかり、何とか体勢を整えようとする。
そのときだった。
俺のつま先に何かが当たり、ゴロンという音とともにそれが床に倒れたのが分かった。
「……これは……」
次第に暗闇に慣れてきた目を凝らし、それを確認する。
そこには『Time:Eater-prototype』という、全ての元凶であり、全てを解決した、あの時空転移装置が転がっていた。集合体として『タイム・イーター』と呼ばれる時空転移装置の、原型となるものが。