第9話: 真実
何度も何度も彼の優しに触れた後、彼と別れなければならない時間が来た。
まだ、白んでいない夜空のまま、私たちは離れることにした。寂しいけど、今日はそうした方がいいと二人で話し合った結果だった。
それでも、彼とずっといたい。 湧き出る気持ちに、なんとかブレーキをかけて、私たちは手を振った。
これから先、もう二度と会わないことにしようとも、また会おうとも、何も約束もせずに、手を振った。
私は、何もなかったかのように、家に帰れるのだろうか。果たして、そうすることが良いことなのだろうか? 何も答えは出なかった。 ただただ、困惑した頭のまま、彼と一緒にいたい、という我侭な気持ちだけははっきりとした感情を持ち、それでも反面子供と夫のことを考える自分がいた。 全て自分が蒔いた種だ。 誰も悪くない。 悪いの私だけだ。
深夜、タクシーで家に着くと、玄関の明かりが点いていた。夫が、私の帰りを危惧して点けておいてくれたのだろう。 鍵を開け、ドアを開けると、そこには夫が立っていた。
「無事で良かったよ。心配したよ。どこかで倒れてるんじゃないかと思って。」寝ることもできずに、疲れて待っていただろう顔の夫がそこにいた。
・・・自分の不甲斐なさに、涙が溢れそうだった。 そのまま、涙を見せたくない私は、階段を駆け上がって、自分の部屋のベッドに伏せた。 心が、限界だった。
この先、この気持ちをどうすればいいのだろう。 心配してくれる夫を裏切り続けることなど、私にはできない。
だけど、何もなかったかのように、また家族が仲良くしていけたら、それがみんな幸せになるのではないだろうか?
頭の中を、様々な思いが行き交っていた。 何を選び、どうすれば良いのか、全く判断できなくなっていた。
わかっていることは、今でも夫と子供を誰よりも愛していることだ。 そして、彼を大好きなことも、だ。
この先、私はどうすれば良いのだろう。真実とは、なんなのだろう。 どうしても、考えつかないでいた。
翌日、彼からメールが入った。「大丈夫でしたか?」私はその返信に、「大丈夫だよ」とだけ送った。きっと、いろんなことを心配したのだろう。
例えば、夫に知られてしまったなら、とか。 そのほかにも、無事に帰ったかな?ということもあったかもしれない。
私も、彼女とのことが壊れてしまうことをとても恐れていたので、本当は心配しているけど、触れることはできなかった。
時間だけ過ぎる。思いだけ募る。迷いが膨らむ。苦しい。
心が苦しいという感覚を、私はどれだけ忘れていたのだろう。 例えば、兄が、早くに亡くなったときは、心が張り裂けそうなぐらい苦しかった。 例えば、父が、闘病の末亡くなったときもまた、言い表せないぐらいの心の苦しさを感じた。 まだ、数年前の話だ。
でも、それらとは、全く種類の違う苦しさ。 やっぱり、『恋』なのだろう。 それ以外、表現できない苦しみだった。
私が愛と恋を分けるのは、自分を優先するか否か、ということだ。 私が、夫を愛している、と言い切れる理由は、彼が幸せならばそれでいいと思えるからだ。 娘二人も、彼女たちが健康で幸せならば、それ以上のことを望まないでいられる。 そういうことだ。 無条件で、その3人の幸せだけを望めるのだ。
だけど、彼に対しては違う。 何故ならば、私は感情を抑えきれないからだ。 「会いたい」とか、「そばに居て欲しい」とか、私の感情がそのまま反映されてしまうのだ。 それは、恋以外有り得ないと思う。 愛、であるならば、彼だけの幸せを祈るだろう。 ただただ、彼女との行き先を、幸せを祈るだろう。
でも、今の私はそうではない。 『私』が、彼と居たいのだ。 顔を見て、手を触れて、唇を重ねて、そして、全身で私を愛して欲しいと願ってしまう。
・・・そんな自分が、とてつもなく許せなかった。 動物的で、もう、二度と恋愛などしないと誓ったはずなのに、簡単にそれを覆してしまった自分が。いい加減な自分が。
だけど、その感情は、決して悪いことではないだろう。 私が、結婚もしてなければ、子供もいなかったならば。 だから、答えなど、そう簡単に出るはずもないのだ。 まずは、これから過ぎる時間を、彼と会えないことに慣れなければならないんだ。
せっかくそう自分を戒めていたときに、メールの受信音が鳴った。
「あみさん、今時間ありますか?」
すぐに、キーを押したかった。 「うん、あるよ!」って。
でも、ついさっき、会わない努力をしようと思ったばかりだ。 そういうわけにはいかないんだ。 ・・・我慢した。 次の日も、その次の日も。 もう、壊れてしまいそうだった。
そして、4日目、「会おう」とだけ、彼からメールが届いた。 もう、限界だったんだ。
私は、子供を夫に託し、なんとか言い訳をして家を飛び出した。 頭の中には、もう何もなかった。 彼のことだけ残して。
あの場所に、彼は佇んでいた。 会社のある駅の真ん中だ。 私は、どうしても口元が緩んでしまって、そして、涙腺までもが緩んでいた。
「会いたかったよ」そう言うと、いい大人が、駅のど真ん中で溢れる涙を拭きもせず泣き続けていた。
彼は、何も言わずに、ただぎゅっと抱きしめてくれた。
それだけで、私は幸せだったんだ。 何も考えずに、何も欲しいものなどなくて、ただただ彼の顔を見ることができて、彼と触れ合えることだけで。
会いたかった。会いたかった。会いたかった。 心の中で、言葉にならない言葉を叫んでいた。 泣きながら、ずっと。