第12話: スタート
夜が明けた。ついさっきまで、夫と話していて、そう経っていない。
『愚か』とは、私のためにある言葉だろう。なんと、愚かな人間だろうか? こんなにも私を愛してくれる人を、私はずっと傷つけて生きてきたのだ。
傷つけるのが怖くて、もう私の中で限界だったから、どうしようもなく好きな彼に別れを告げたはずなのに、その事実すら空虚なものに変わりつつあった。
私が生きている価値は、やはり無かったのではないだろうか? あのとき・・・そう、一度目の離婚をしたときに、自分よりも大切な娘を失ったときに思った「生きる価値のない奴」のまま、私は生きてきてしまっただけなのではないだろうか?
もう、思考能力は完全になくなっていた。
世の中は普通に夜が明けた。私たちにとっては、翌日になったというよりも、時間が過ぎただけだ。 寝ていないのだから。 その朝、彼からメールが入った。
「一晩考えたよ。答えが出そうなんだ。 今日も、遅くなるけど、会えないかな?」とだけのメッセージだった。
私は・・・思考能力を失いつつ、「うん、じゃぁ、昨日と同じ場所で」と、返信した。 子を持つ私が連日家を空けるのは、とても躊躇するところだったが、今はそんなことを言っている場合ではないと思い、そう返信した。
「おはよう」寝てもいないのに、自分の部屋からリビングに降りてきた夫は私に声をかけてくれた。いつもの朝と何も変わらないかのように。
「おはよう。ごめんね、今日も仕事なのに。」
「いいんだよ。こういう日もあるんじゃない?」
いつも優しい夫だ。そんな優しい夫に、私はどれだけ助けられて来たのだろう。 言い尽くせないほどの愛情をもらってきた。 そして、私は、今日もわがままをすることを告げた。
「今日の夜、あなたが帰ってきてからちょっと出てきます。」
「わかったよ。自分の気持ちに嘘だけはついちゃだめだよ。」笑顔でそう言い、夫は身支度を整えて、そのまま会社へと向かった。
考えようにも、どうにもならなかった。
もう、無力な、非力な、何もない人間になってしまったかのようだった。
どうすればみんな幸せになるのか? それだけをなんとか考えようとしていた。
気がつくと、子供が帰ってくる時間だった。 子供が帰宅してから、いつものように時間が過ぎて、入浴、夕食、二人での団欒、就寝。 子供が眠りに就いた。 可愛い寝顔で。天使のような寝顔で。 観ていたら、また涙が溢れてきた。 こんなママでごめんね、って言いながら。
「ただいま」そうこうすると、夫が帰ってきた。
そして、夫が入浴中に夕食の支度をし、私がすべきことを終えてから、
「じゃぁ、行ってくるね。」
「うん、気をつけてね。」
そう会話をした後、彼の元へ向かった。
向かう電車の中で、彼からメールが届いた。
「今、いつものところに向かっています」って。
「私も、向かっています。」と、返信した。
数分で着くその駅から、5分もすれば到着する昨日のバーに向かった。 彼に会えることは、こんな状況でも・・・幸せだった。 私は悪魔のような人間だ。 こんなときでさえ、別れさえ切り出したくせに、それでも、彼に会うことが幸せなのだ。
ドアを開けると、先に彼がカウンターに座っていた。
「よっ!」
明るく彼は言った。
「よっ!!」空元気を、私も装った。 いや、空元気でもなく、装ったわけでもなく、彼の顔を見ると自然にそうなってしまうのかもしれない。
また、昨日のことも忘れてしまったかのように、他愛のない会話をして、時間が過ぎていった。 変な二人だな・・・って私は思ったけど、彼はどうだったのだろう。
もう、会えた時間も遅かったので、少し飲んだだけで終電には間に合わない時間になっていた。
「出ようか?」
「そうだね」
そう言って、外に出た。
彼は、歩きながら、無言で昨日愛し合った場所に歩き出した。 私も・・・付いて行ったんだ。
無言のまま、その場所に入ると、二人ソファーに座り、どちらともなく言葉を発した。
「あの・・・」
そのタイミングに、二人とも爆笑してしまった。 そんな場合じゃないのにも関わらず。
彼が口火を切った。
「俺、彼女と別れるよ。でも、あみさんは家族と別れなくていい。俺のこと忘れてくれていいよ。でも、俺・・・・きっと、愛し始めてるんだと思う。好きだ、っていうだけじゃないって気づいてしまったんだ。 だとしたら、長く付き合ってるからっていって、彼女のことを愛してるっていうのは違うって思ったんだ。」
言葉が・・・出なかった。 そんな答えを、考えてもいなかったからだ。 そんな意味で、愛について言ったわけじゃなかった。
「ただ、あみさんといたい。 そう思ってた。今も思ってるんだ。 だけど、それが苦しめることになるなら、俺はその方が辛いって思うことが、昨日一晩いろいろ考えてみて、わかったんだ。だから、一緒にずっといたいけど、それはもう考えないって思ったんだ。 あみさんが・・・別れを決めるのならば、それでいいって。 でも・・・彼女のことを、同時に愛してるか?って言ったら、それは違うんだ、って自分に気づいてしまった。 そう思うと、もう、一緒にいることのほうが、酷いことじゃないかな?って。」
頭を、テレビのお笑いに出てくるような、大きいハンマーで、しかも、おもちゃのようなものじゃなくて、重い重いハンマーで叩かれたような気がした。 夫と、同じようなこと、この人一晩考えていたんだ、って。
そして、私も思った。
夫を、子供を思ってるといいながら、実は、とてつもなく酷いことをしていたのかもしれない、って。愛という名前を借りて。
愛は、嘘ではない。 でも、現に私は夫を傷つけている。 それのどこが愛なのか? 正直に生きることだけが愛でもない。 だけど、嘘をつき続けることは、もっと重罪なのかもしれない、って。
「夫と同じようなことを言った。」
やっとの思いで言った。
「え?」
「夫は、あなたと一緒にいたほうがいい、って言ってた。」
「え!?」
「何もかもわかっていたみたい。その上で、感情に嘘をつかないほうがいい、って。」
「深いね。 あみさん、愛されているんだね・・・」
「・・・・・・」
沈黙が続いた。
そして、私が言った。
「いられる限り、いてくれる? あなたが・・・もし、私を必要としなくなったとき、そのときを別れにしてくれる? 私は、夫が別れると言ったなら、別れるし、夫が、子供が理解できるときまで、って言ったら籍はそのままなのかもしれない。それでもいい?」
そんな勝手な言い分に、何も答えずに、彼は私を引き寄せてくれた。 そして、優しいキスをしてくれて、そのまま、ひとつになった。 いろんな意味で、ひとつになったんだ。
私は、とてつもなく勝手な人間だ。 もう、戒めも何もない。 酷い酷い人間だ。
でも・・・嘘だけはつくまい。
嘘をついて生きてはいけない。 大馬鹿野郎だ。 女だけど、大馬鹿野郎だ。
だけど、真実は、ひとつだ。
彼を・・・愛してる。 もう、そう言える時が来たんだ。
全身全霊で、彼を愛している。
その気持ちに、嘘だけはつくまい。 この先はわからない。 今のこの感情だけで。 今は、彼といよう。 どんな形であっても、彼といよう。