届かない歌
森の奥深く、道なき道を行った先、獰猛な獣さえ寄りつかない場所にその泉は存在した。
透明な水面は穏やかな風の愛撫で揺らめき、燦々と陽光の恩恵を浴びて煌めく。光に満ち溢れ、周囲には可憐な花々が咲き、踏み荒らされることもなく、小動物達が踊り、まるで小さな楽園である。
大樹の木漏れ日の下、女が座っている。空を見上げる瞳はその色を閉じこめたかのようであり、長い白銀の髪がゆらゆらと風に靡く。美しくも、それ故に触れれば壊れてしまいそうな繊細さのある作り物のような女だ。
彼女は生ある者であることを証明するかのように歌を紡ぐ。それしか知らないかのように玲瓏な歌声が響き渡り、小鳥達の囀りが加わる。
女はいつからかこの場所にいて、歌っていた。
不意に歌が止む。定められた終わりではない。無粋な足音に合唱を楽しんでいた鳥達が飛び立ち、小さな踊り手達も茂みの中へと姿を消した。
なおも足音は近付き、やがて人間の男が姿を現す。まだ若く、顔には幼さが残っているような青年だ。
迷い込んだというよりも確かな足取りで踏み行ってきた様子の彼は狩人という風でもない。
しかしながら、歓迎すべき客人ではなく、女は射るような眼差しを送る。
「ここは人間が来るところではない」
警告のように女が発すれば青年は些か驚いたような顔をして頷くが、去ろうとする素振りも見せない。
「何をしに来たの?」
「歌が聞こえたから」
答えは実に簡潔で、彼はゆっくりと女に近付いたかと思えば隣へと座る。
「歌ってくれよ」
「人に聞かせるために歌っていたわけじゃない」
女は素っ気なく答える。
「だったら、なぜ歌っていた?」
「あなたには関係ない」
「そうか」
「あっさりしているのね」
彼はそれ以上問うわけでもない。けれど、立ち去る素振りもない。
「しつこい男は格好悪いだろ?」
彼は軽く笑う。そうね、と女も頷く。
「だから、俺はそれ以上言わないし、聞かない。でも、しばらくここで休んでいく。歩き続けて疲れたんだ」
「そう……」
その時、女はやっと青年の顔をまじまじと見た。
それは驚きを伴った。懐かしさや切なさ、色々なものが奔流となって流れ込んでくる。
だから、この男になら、と思うのだ。
あと、どれほど想いを歌にすれば風はあの人の元に届けてくれるだろうか。
伝えることのできなかった想いをただ届かせたくて歌にしてきた。
届かないとわかっているのに歌い続ける。欠片でも届くのなら、と紡ぎ続ける。
歌は女の願いだった。
女が再び歌う間、青年はただ黙ってその歌を聞いていた。目を閉じ、浸り込むように。
「良い歌だ」
歌が終わり、名残惜しげに青年が目を開け、呟く。たった一言だが、彼の心が込められていた。
「ありがとう……」
女はただ歌っていただけで、彼はただ聞いていただけだ。
しかし、女もまた心から感謝していた。
「……約束したわけでもないのに」
視線の下に落として、ぽつりと女は呟く。氷が溶けるように、心が解けて封印していた感情が溢れる
「あの人は戻ってこないってわかっているのに、ずっと待っているの。惨めな女よね」
またぽつりと自嘲の言葉が続く。
青年には女が泣いているように感じられた。実際、一滴も涙は浮かんでいない。それは遠い昔に枯れ果てたか、心の中で流れているものなのかもしれない。
「そんなことないさ。信じる者は必ず、どんな形でも救われる。俺はそう思う」
「そうかもしれない。現にあなたの言葉に救われているから」
零れるささやかな笑みは儚い。青年は首を傾げる。
「そうか?」
「あなたはあの人に似ている」
まるで、その人が戻ってきたように女に錯覚させる。初めはそんな風に感じもしなかったのに。
「だけど、あなたはあの人ではない、別の人」
「その人はどんな?」
「とても温かくて優しい心を持った人。名前も知らない。けれど、もう一度会いたかった」
女にもわからない感情だった。たった一度会っただけの男だ。ただそれだけの男にどうしてそう思うのか。
「きっと彼は幸せになった。そうでなければならない。それが私の願いだから」
だから、戻ってこないのだと、自分のことなど忘れているのだと思っていた。何を約束したわけでもないのに。
「本当は、悲しさや寂しさを忘れるために歌っていた。私にはもう歌しか残っていないから」
空虚の心のまま女は歌うことしかできずにいた。だが、元々空虚だったのだ。そこに光が灯されてしまったからだ。
「君は……幸せか?」
青年は少しばかりの躊躇いを見せる。しかし、その意味など女にわかるはずもない。
「幸せよ。心が満ち足りているから」
暖かいものが女の胸の内を満たしていた。ひどく穏やかな気持ちだ。
「君はあの人に戻ってきて欲しかったのか?」
「戻ってこなくても、思い出してくれなくても、ただ私という存在がこの世界に在ったことを忘れないで欲しかった。そんなことわからないのに……」
彼が来なければ、今の彼のように踏み行って来なければ誰とも出会うこともなかった。
「忘れてないさ」
青年は断言する。彼はあの人ではない。故に知るはずもないことだ。
「え……?」
「あの人は……」
彼は言いかけてやめる。しかし、言わんとしていることが女にも伝わってきた。
女の頬を涙がこぼれ落ちる。それは悲しみではない。
「良かった……」
安堵である。こうして彼の子孫に出会うことになるとは思いもしなかった。時の移ろいを感じるものだ。
「ねぇ、私の最後の歌、聞いてくれる……?」
「ああ、いくらでも聞いてやるよ」
青年は大きく頷く。それが自分の使命であるかのように。
「ありがとう……目を閉じて」
言われるまま彼は目を閉じる。耳に心地よい歌声が流れ込んでくる。
歌が終わり、青年が目を開けるとそこには誰もいなかった。
初めから自分以外には存在しないかというように、全て夢だったかのように。
だが、夢ではないのだと彼は思うのだ。女は確かにそこにいた。
きっとここよりも明るくて温かい場所に行ったのだ、と。やっと辿り着くことができただろう。
『ありがとう』
声が聞こえた気がして、青年は笑んで立ち上がる。そうして、もう一度女がいた木の根本を見やる。
「どういたしまして」
彼はそう呟いて立ち去る。
『迷い込んだ森の奥深くで、天使に会った。翼はなかったけど、とても綺麗で、寂しそうに歌っていたんだ』
青年は思い出す。幼い頃、父から聞いた話を。何かある度に語られた。
純粋に目を輝かせた次期もあった。作り話と笑った次期もあった。それでも今は事実であると言える。
森の奥には美しくも恐ろしい魔物がいる。誘い込んで、帰れないと言い伝えられている。
あれが実際、魔物だったのか、天使だったのか青年は知らない。しかしながら、やはり天使だと思うのだ。