刀を奪われた侍は、悪役令嬢として帝国を支配する
刀を奪われた侍は、悪役令嬢として帝国を支配する
刀を奪われるということは、侍にとって死ぬことと同じだと思っていた。
少なくとも、東雲一真はそう信じていた。
東雲家は、代々小さな藩に仕える家だった。大名家の重臣というほどではない。禄は少なく、屋敷も質素で、父はいつも金の心配をしていた。
それでも一真は、自分が武士であることを恥じたことはなかった。
一真が初めて刀を握ったのは、七歳のときだった。
父から譲り受けた古びた一振りだった。
名刀ではない。
刃には小さな傷があり、鞘にも何度も修理した跡があった。
それでも一真にとっては、何より大切なものだった。
「これは強い刀ではない」
父はそう言った。
「では、なぜ大切にするのですか?」
幼い一真が尋ねると、父は刀を眺めながら答えた。
「刀が人を強くするのではない。持つ人間が、自分の弱さを忘れないために持つものだ」
その言葉の意味を、一真が理解するまでには長い時間が必要だった。
父は一真に剣術だけを教えたわけではない。
農民に横柄な態度を取るな。
商人を馬鹿にするな。
戦で勝ったからといって、負けた者を踏みにじるな。
刀を抜く前に、抜かずに済む方法を考えろ。
「侍とは、人を斬る仕事ではない。自分より弱い者を守るために、他人より先に責任を背負う仕事だ」
それが父の口癖だった。
やがて一真は青年になり、藩に仕えるようになった。
だが、一真が生きた時代は、侍という存在そのものが終わりを迎えようとしていた。
戦はなくなり、身分制度は崩れ、国は新しい時代へ向かっていた。
藩は廃止され、主君もいなくなった。
かつては誇りだった刀が、今では危険な武器として扱われるようになった。
そしてある日、国から正式な命令が出された。
刀狩令。
武士だけでなく、一般人が帯刀することを禁じ、各地で刀を回収するというものだった。
一真にも分かっていた。
時代が変わったのだ。
父が死ぬ前にも、何度も言われていた。
「一真。刀にしがみつくな。時代が変われば、武士の役目も変わる」
それでも。
一真には、どうしても手放せなかった。
父から受け継いだ刀だけは、誰にも渡したくなかった。
雨の降る夕方。
一真は街道で役人たちに囲まれた。
「刀を置け」
役人の一人が言った。
「……断る」
一真は答えた。
「刀狩令に背くつもりか」
「この刀は父の形見だ」
「関係ない。国の命令だ」
一真は黙った。
頭では理解している。
国は変わった。
もう侍の時代ではない。
だが、心がついてこなかった。
「それを置いたら、俺には何が残る?」
誰に聞くでもなく、一真は呟いた。
「家もない。主君もいない。身分もない。だったらせめて、これだけは残してくれ」
役人は首を横に振った。
「抵抗するなら捕らえる」
一真は刀の柄に手を置いた。
「……そうか」
刀を抜く。
殺すつもりはなかった。
ただ逃げるつもりだった。
だが。
背後から聞こえた銃声が、その考えを終わらせた。
胸を撃ち抜かれた。
膝から力が抜ける。
雨に濡れた地面へ倒れる。
手から刀が滑り落ちた。
泥の中へ転がっていく。
「待て……」
一真は手を伸ばした。
届かない。
「それだけは……」
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、泥に汚れた刀だった。
――そのはずだった。
次に目を覚ましたとき、一真は自分が天蓋付きの巨大な寝台に寝ていることに気づいた。
「お嬢様!」
若い侍女が泣きそうな顔で覗き込んでいる。
「……ここは?」
声が妙に高い。
一真は眉をひそめた。
「私の部屋ですか?」
侍女が固まった。
「お、お嬢様……?」
「鏡を持ってこい」
「はい?」
侍女が慌てて鏡を持ってきた。
一真は鏡を見た。
そして、しばらく何も言えなかった。
そこに映っていたのは、銀色の長い髪を持つ美しい少女だった。
紫色の瞳。
白い肌。
細い首。
どう見ても男ではない。
「……誰だ、こいつ」
思わず呟く。
「お嬢様です」
「俺が?」
「……はい」
少女は震える手で鏡に触れた。
すると頭の中に、見知らぬ記憶が流れ込んできた。
アルヴェルディア帝国。
大陸最大の国家。
皇帝アウグスト・アルヴェルディア。
皇后セレネ。
帝国唯一の公爵家、アルヴェルディア公爵家。
そして、自分の名前。
リリアーナ・アルヴェルディア。
十七歳。
皇帝の娘。
公爵令嬢。
皇太子レオンハルトの婚約者。
そして――悪役令嬢。
この世界のことを知るにつれ、一真は頭を抱えた。
リリアーナは帝国貴族の中でも特に嫌われている少女だった。
高慢。
冷酷。
平民嫌い。
皇太子に近づく女性を片っ端から排除する。
学院では聖女候補のエミリアをいじめている。
そして半年後。
エミリアへの嫌がらせが決定的な問題となり、婚約破棄を言い渡される。
その後、リリアーナの父である皇帝までもが失脚し、アルヴェルディア家は没落。
リリアーナは反逆罪を着せられ、処刑される。
そこまで理解したところで、一真は深く息を吐いた。
「……最悪だ」
刀狩りで殺されたと思ったら、次は処刑される令嬢。
「俺は一体、何回死ねばいいんだ」
その呟きを聞いて、侍女が不安そうに首を傾げた。
「お嬢様……本当に大丈夫ですか?」
一真は彼女を見た。
怯えている。
おそらく、以前のリリアーナなら使用人にも厳しく当たっていたのだろう。
「名前は?」
「ミレイアです」
「そうか。ミレイア」
「はい」
「これから私が何か間違ったことを言ったら、遠慮なく教えてくれ」
「……え?」
ミレイアは目を丸くした。
一真は立ち上がった。
「まず、この家について教えてくれ。誰が味方で、誰が敵か。そして、帝国についても全部だ」
その日から、リリアーナの生活は変わった。
アルヴェルディア帝国は、三百年以上続く巨大国家だった。
初代皇帝アルヴェルディアが、東西に分裂していた七つの王国を統一して成立したとされている。
帝国の国土は大きく四つに分かれていた。
皇都を中心とした中央州。
魔鉱山が広がる北部。
大穀倉地帯を抱える東部。
そして海洋交易の中心である南部。
帝国の強さを支えているのは、三つの柱だった。
魔鉱石。
穀物。
そして軍事力。
魔鉱石は魔法文明を発展させた重要資源だった。
街灯。
暖房。
輸送車。
通信装置。
魔導兵器。
その多くが魔鉱石によって動いている。
帝国北部に存在する黒嶺山脈には巨大な魔鉱山があり、アルヴェルディア公爵家はその一部を所有していた。
つまり、リリアーナの家は帝国の富の一部を直接握っている。
さらにアルヴェルディア家は軍とのつながりも深かった。
歴代当主の多くが帝国軍の元帥を務めている。
皇族と並ぶほどの権力を持つ家。
それがアルヴェルディア公爵家だった。
だからこそ。
一真は最初の違和感に気づいた。
リリアーナは、どう考えても「ただの悪役令嬢」ではない。
なぜなら、彼女の失脚によって最も利益を得る人間が多すぎるからだ。
魔鉱山を狙う商人。
アルヴェルディア家の軍事力を削ぎたい貴族。
皇太子の後ろ盾を求める派閥。
そして、帝国の政治を裏から操っている者たち。
「……誰かが、リリアーナを悪役に仕立てている」
一真はそう考えた。
問題は、その証拠がないことだった。
そんなリリアーナのもとへ、一人の男がやってきた。
銀髪だった。
長く整えられた髪を後ろで束ね、黒を基調とした執事服を着ている。
年齢は二十代半ばほどに見える。
整った顔立ち。
切れ長の青い瞳。
無駄のない動作。
そして、妙に静かな雰囲気。
彼は深く頭を下げた。
「お呼びでしょうか、リリアーナ様」
その声を聞いた瞬間、一真は思った。
――こいつは強い。
剣を抜いていない。
それでも分かる。
立ち姿に隙がない。
「名前は?」
以前のリリアーナの記憶にはある。
だが、一真自身は初対面だった。
「セドリック・ヴァレンシュタインと申します。アルヴェルディア家に仕える執事でございます」
「……ヴァレンシュタイン?」
一真はその姓に反応した。
帝国軍の名門だった。
数年前まで北部国境軍を率いていた家系。
しかし現在は没落している。
「軍人の家だろう」
「はい」
「なぜ執事を?」
「父が戦死し、家が没落したためです」
「そうか」
それだけの会話だった。
だが、セドリックはリリアーナをじっと見ていた。
「何?」
一真が聞く。
「いえ」
「何か言いたそうだな」
「……以前のリリアーナ様とは、随分雰囲気が変わられましたので」
一真の心臓が跳ねた。
「そう?」
セドリックは笑った。
「はい。ただ、私は今の方が好きです」
一瞬、部屋が静かになった。
「……何?」
一真が聞き返す。
「失礼いたしました」
セドリックは何事もなかったように頭を下げた。
「紅茶をお持ちいたします」
彼はそのまま部屋を出ていった。
「……何なんだ、あいつ」
ミレイアが小さく笑った。
「セドリック様は昔からああいう方です」
「どういう意味だ?」
「何を考えているのか分からないのに、気づけば全部分かっている方です」
一真は扉を見る。
「……信用できるのか?」
「少なくとも、アルヴェルディア家を裏切ったことは一度もありません」
その言葉が、後になって一真の記憶に何度も残ることになる。
学院へ登校した初日。
予想通り、事件が起きた。
中庭に生徒たちが集まっている。
中心にいたのは、皇太子レオンハルト。
そして、その隣にいる少女。
エミリア。
平民出身でありながら強力な光魔法を持ち、「聖女」と呼ばれている少女だった。
「リリアーナ」
レオンハルトが冷たく言った。
「エミリアに謝れ」
一真は周囲を見た。
「何をした?」
エミリアのドレスに紅茶の染みがついている。
「あなたが紅茶をかけたのでしょう?」
レオンハルトが言う。
「私が?」
「そうだ」
「証拠は?」
レオンハルトは眉をひそめた。
「エミリアがそう言っている」
「彼女が嘘をつく理由がない」
「人間が嘘をつくのに理由が必要なのか?」
周囲がざわつく。
「以前の君なら謝っていた」
「以前の私は馬鹿だったんじゃないか?」
レオンハルトの顔が赤くなる。
「……何だと?」
一真はドレスを見る。
紅茶の染み。
床に落ちたカップ。
エミリアの立ち位置。
侍女。
そして、彼女の右手。
「エミリア」
「はい」
「右利きだな」
「……はい」
「ならば説明してもらおう」
一真は床を指差した。
「なぜカップの取っ手が左を向いている?」
エミリアが固まった。
「私が紅茶をかけたなら、カップを持っていたのは私だ。私は右利きだから、取っ手は右側を向くはずだ」
周囲がざわめく。
「それだけじゃない」
一真はドレスを見る。
「紅茶の染みが不自然だ。正面からかけられたなら、もっと中央に広がる。これは右側から少量だけかかった跡だ」
侍女の顔色が変わった。
「そして」
一真は彼女を見る。
「このカップ、割れていない。誰かが投げたわけじゃない。自分で倒したんじゃないのか?」
エミリアが青ざめる。
「違います!」
その瞬間。
後ろにいた侍女が膝をついた。
「申し訳ありません!」
エミリアが振り返る。
「あなた……!」
侍女は震えながら言った。
「エミリア様に命令されました。リリアーナ様が紅茶をかけたように見せろと……!」
静寂が落ちた。
一真はレオンハルトを見る。
「どうする?」
レオンハルトは何も言えなかった。
一真はエミリアへ近づいた。
「私はお前を憎んでいるわけではない」
「……」
エミリアが顔を上げる。
「だが、私を敵に回すなら、それ相応の覚悟をしろ」
その瞬間。
エミリアの瞳が一瞬だけ光った。
一真は見逃さなかった。
彼女の光魔法。
その光の中に、黒い影が混じっていた。
その日の夜。
一真は屋敷の書庫に籠もった。
帝国の財政資料を読み漁る。
税収。
軍事費。
魔鉱石輸出量。
港湾使用料。
道路整備費。
地方税。
数字を並べていく。
そして気づいた。
帝国は表向きは豊かだ。
しかし、国庫に入るはずの金が異常なほど少ない。
「……誰かが抜いている」
特におかしいのが魔鉱石だった。
輸出量と税収が一致しない。
さらに輸送費が異常に高い。
鉱山から港まで運ぶだけなのに、実際の費用の三倍以上が計上されている。
その輸送を独占しているのが、金獅子商会。
レオンハルトの最大支援者だった。
「なるほど」
一真は紙に書く。
『皇太子の後ろに商会がいる』
さらに調べる。
金獅子商会の裏には複数の貴族がいる。
その貴族たちは帝国議会の中でも強い派閥を形成している。
そして、その中心にいる人物の名前を見つけたとき。
一真は手を止めた。
「……宰相?」
帝国宰相。
ヴァルター・グランツ。
皇帝の側近であり、帝国の実務を長年取り仕切ってきた男だった。
だが。
一真は別の資料を見つけた。
二十年前。
ヴァルターはまだ地方官僚だった。
その頃、東方の小国が滅亡している。
国名はアカツキ王国。
奇妙なことに、その滅亡には帝国が関わっていた。
さらにその年。
現在の皇后セレネが外交使節として東方へ赴いていた。
一真は背筋に冷たいものを感じた。
偶然ではない。
何かがつながっている。
翌日。
一真は皇帝アウグストに会った。
「父上」
「どうした、リリアーナ」
「帝国の財政について話があります」
皇帝は目を細めた。
一真は資料を差し出した。
「魔鉱石の税収が不自然です」
「……誰がこれを調べた?」
皇帝は驚いた。
「私です」
「お前が?」
皇帝は長い間、娘を見つめた。
「リリアーナ。お前は本当に……」
言いかけて、口を閉じた。
「何ですか?」
皇帝は答えなかった。
「財政調査を許可する」
「ありがとうございます」
「ただし、気をつけろ」
「何に?」
皇帝は窓の外を見た。
「帝国には、皇帝にも触れられない場所がある」
一真はその言葉を覚えていた。
改革が始まった。
まず商業税を引き下げた。
次に港湾税を統一した。
道路整備を進め、魔鉱石輸送の独占を廃止した。
貴族からすれば突然の改革だった。
当然、反発も起きた。
しかし一真は真正面から権力を奪おうとはしなかった。
利益を与えながら制度を変えた。
商人には税率を下げる代わりに正確な帳簿を義務付けた。
貴族には新規事業への投資枠を与えた。
地方領主には道路整備によって増える交易利益を提示した。
「人間は、損をする改革には反発する。でも、得をする改革なら自分から参加する」
それは一真が侍だった頃に学べなかったことだった。
刀を持っているだけでは、人は動かせない。
半年。
帝国の税収は増えた。
魔鉱石の密輸は減った。
商人たちは帝都へ集まり始めた。
農村にも金が流れ始めた。
一真の評判は変わった。
「悪役令嬢?」
「誰の話だ?」
「最近では『帝国一の才女』と呼ばれているぞ」
噂は広がった。
だが。
一真は知っていた。
これは始まりにすぎない。
ある夜。
父である皇帝が倒れた。
「父上!」
寝室へ駆け込む。
医師が慌ただしく動いている。
「毒です」
医師が呟いた。
「微量ですが、間違いありません」
一真は拳を握った。
誰かが皇帝を殺そうとした。
そして。
父は薄く目を開いた。
「……リリアーナ」
「ここにいます」
「書庫の……奥を……」
「何があるのですか?」
「赤い……本を……」
そこで父は意識を失った。
一真はすぐに書庫へ向かった。
奥。
普段使われていない棚。
赤い革表紙の本。
開く。
中には。
一振りの刀が描かれていた。
黒い鞘。
赤い柄。
そして。
その鍔に刻まれていた紋章。
一真は息を呑んだ。
それは。
前世の父から譲られた刀と同じ紋章だった。
その翌日。
皇帝は亡くなった。
帝国全土に喪が広がった。
だが悲しみに浸る時間はなかった。
皇帝の死と同時に、帝国議会で皇位継承争いが始まった。
レオンハルトが名乗りを上げた。
「帝国の皇帝は私だ」
だが一真は認めなかった。
レオンハルトの背後には金獅子商会。
そして、その背後には宰相ヴァルター。
帝国の財政を支配する男。
さらに数日後。
隣国から大量の兵士が国境へ集結しているとの報告が入った。
「戦争を起こすつもりか」
セドリックが地図を見る。
「違います」
彼は静かに答えた。
「起こさせるつもりです」
一真が振り返る。
「誰が?」
セドリックは答えた。
「帝国内部の人間が」
そして一真は気づいた。
今まで敵だと思っていたレオンハルトは、ただの駒だった。
エミリアも。
金獅子商会も。
彼らを動かしている人物がいる。
だが、その正体を知る前に。
帝都が包囲された。
レオンハルトは十万の兵を率いて帝都へ迫った。
城壁の上から一真は敵軍を見下ろす。
「皇位を渡せ!」
レオンハルトが叫ぶ。
「断る」
一真は答えた。
「お前に皇帝になる資格はない」
「では戦争だ!」
戦闘が始まった。
だが三日後。
敵軍の補給が止まった。
四日後。
傭兵の一部が撤退した。
五日後。
敵軍の兵士が大量に投降した。
理由は単純だった。
一真は戦争が始まる前に、敵国の商人たちへ融資していた。
敵軍の食料を輸送している企業にも資金を流していた。
戦争をすればするほど、敵国の経済が傷つく仕組みにしていた。
「戦争は戦場だけで起きるものじゃない」
一真は呟いた。
「金庫でも起きる」
レオンハルトは敗北した。
捕らえられた彼は、最後まで自分が皇帝になると信じていた。
「なぜだ……なぜ俺が負ける!」
一真は答えた。
「お前は、人を支配することしか考えなかったからだ」
レオンハルトは連行された。
だが。
一真は知っていた。
これで終わりではない。
エミリアが一真の前に現れた。
「リリアーナ様」
「何?」
「謝りたいことがあります」
エミリアは涙を浮かべていた。
「私は、本当の聖女ではありません」
「知っている」
「え?」
一真は彼女の魔力を見る。
「お前の中には別の魔力がある」
「……はい」
エミリアは話した。
幼い頃から神殿に育てられたこと。
聖女として帝国を支配するために利用されていたこと。
そして、彼女自身も知らなかったこと。
「神殿は、あなたのことを知っています」
「私を?」
「はい。あなたが生まれる前から」
一真の背中に寒気が走る。
「どういう意味?」
エミリアは震えながら答えた。
「リリアーナ様は、初めてこの世界に生まれた人ではないそうです」
その夜。
一真はセドリックを問い詰めた。
「全部話せ」
セドリックは静かに立っていた。
「いつか話すつもりでした」
「今だ」
「……分かりました」
セドリックは執事服の上着を脱いだ。
その胸には古い軍服の跡があった。
「私はヴァレンシュタイン家の最後の生き残りです」
「それは知っている」
「違います」
セドリックは言った。
「私は、あなたを守るために生まれた家の人間です」
一真は眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
セドリックは一冊の古い記録を差し出した。
『魂環計画』
それは数百年前、初代皇帝が作った計画だった。
帝国はかつて、滅亡寸前だった。
魔物の大侵攻。
飢饉。
内乱。
そこで初代皇帝は、異世界から「知識を持つ魂」を呼び込む禁術を使った。
だが魂は一度では定着しなかった。
そこで、同じ魂を何度も転生させる仕組みが作られた。
それが魂環。
つまり。
一真は、この世界を救うために何度も転生していた。
だが、ここで一真は一つの疑問に気づく。
「……おかしい」
「何がでしょう?」
一真は記録を見る。
「俺が何度も転生したなら、なぜ前世では日本にいた?」
セドリックは黙った。
「答えろ」
「……あなたは、この世界から逃げたのです」
一真の記憶が蘇った。
かつてこの世界で何度も政治を変えようとして失敗したこと。
最後の人生では、すべてを諦めて異世界へ逃げたこと。
そして日本で侍になったこと。
だが。
最後に刀を奪われたことで、再びこちらへ戻された。
偶然ではなかった。
刀そのものに魂環の鍵が刻まれていたのだ。
「じゃあ、刀狩りも……」
「あなたを戻すために仕組まれたものではありません」
セドリックが答えた。
「ですが、あなたが戻るきっかけにはなりました」
一真は黙った。
さらに恐ろしい事実があった。
魂環計画を作ったのは初代皇帝。
しかし、それを現在まで維持していたのは神殿だった。
神殿は歴代の転生者を監視していた。
だが、前の転生者たちは全員失敗した。
なぜなら、国を変えることより「自分が国を救う」ことに執着したからだ。
そこで一真は理解した。
自分が今まで何度も失敗した理由を。
刀で戦い。
権力で押さえつけ。
反乱を鎮圧し。
敵を倒した。
それでも国は変わらなかった。
「……俺は、ずっと同じことをしていたんだな」
一真は笑った。
「敵を倒せば、国が良くなると思っていた」
セドリックは静かに言った。
「だから、あなたが今世で政治を始めたとき、私は驚きました」
「なぜ?」
「あなたが初めて、人を倒すのではなく、人を動かそうとしたからです」
だが最後の謎が残っていた。
皇帝アウグストはなぜ一真を守っていたのか。
そして、なぜリリアーナとして生まれさせたのか。
一真は皇帝の遺した手紙を見つけた。
『リリアーナへ』
そこにはこう書かれていた。
『お前は私の実の娘ではない。だが、私はお前を娘として愛した。それだけは嘘ではない』
そして続く。
『帝国を変える者に必要なのは、皇帝の血ではない。民から選ばれる力だ』
一真は手紙を握り締めた。
父は最初から知っていた。
自分がいつか帝国を変える存在になることを。
そして、自分を皇帝にするためではなく。
自分が皇帝にならなくても国が変わるように、制度を変えようとしていた。
しかし。
皇帝の死後、一真は決断した。
皇帝になる。
理由は権力が欲しいからではない。
権力を一か所に集めたままでは、また同じことが起こるからだ。
だからこそ。
自分が最後の独裁者になる。
皇帝の権限を使って帝国を改革し、その後、その権限を分散させる。
「私が帝国を支配する」
議会で一真は宣言した。
「だが、私の次の皇帝が同じことをできるとは限らない」
貴族たちがざわめく。
「だから法律を変える。皇帝の権限を制限する。地方議会を作る。税制を公開する。軍の予算を監査する。皇帝自身も法に従う」
一真は玉座を見た。
「私はこの玉座を使って、玉座そのものを弱くする」
誰も言葉を返せなかった。
それから十年。
帝国は変わった。
貴族の特権は整理され、地方自治制度が整備された。
教育制度が全国へ広がり、平民出身の官僚も増えた。
魔鉱石の利益は国庫へ入り、その一部は学校や医療へ回された。
軍は強くなったが、軍人が政治を支配することはなくなった。
皇帝は絶対的な支配者ではなく、国民と議会の代表として位置づけられた。
そして。
リリアーナ・アルヴェルディアは正式に皇帝となった。
即位式の日。
彼女の腰には一本の刀があった。
泥に汚れた記憶の中にあった刀。
前世で奪われた刀と同じ意匠を持つ刀。
だが、彼女はそれを抜かなかった。
隣には銀髪の執事、セドリックが立っている。
「緊張していますか、陛下?」
セドリックが聞く。
「少しな」
「意外です」
「私だって人間だ」
「以前より随分、人間らしくなりましたね」
「どういう意味だ?」
「昔のあなたは、何でも一人で背負おうとしていましたから」
リリアーナは笑った。
「今は違う」
「はい」
セドリックも微笑む。
「だから私は、あなたについていくことにしました」
リリアーナは彼を見る。
「執事として?」
「もちろん」
「……それだけ?」
セドリックは一瞬だけ目を細めた。
「それ以外の意味が必要ですか?」
リリアーナは答えなかった。
だが、その頬はわずかに赤くなっていた。
そして最後に。
リリアーナは父の墓へ向かった。
墓前には、一本の刀が置かれている。
銘はない。
名刀でもない。
古びた鞘。
傷だらけの柄。
そして鍔には、奇妙な紋章が刻まれている。
リリアーナは刀に触れた。
前世の自分は、刀を奪われたことで敗北したと思っていた。
だが違った。
刀を失ったからこそ、自分は刀以外の力を知ることができた。
政治。
経済。
法律。
教育。
そして人間。
刀は人を斬ることができる。
しかし、国を変えることはできない。
国を変えるのは、人間だ。
「父上」
返事はない。
「ようやく分かりました」
風が吹く。
銀髪が揺れる。
「刀を持つ者が強いんじゃない」
リリアーナは静かに笑った。
「守るものがある人間が、強いんだ」
背後から声がした。
「その言葉、初代皇帝の記録にも残っています」
セドリックだった。
「本当か?」
「はい」
「なら、もっと早く教えろ」
「申し訳ありません」
「……まあいい」
二人は並んで歩き出した。
帝都では鐘が鳴っている。
市場では商人が声を上げ、学校では子どもたちが走り、工房では職人が魔導具を作っている。
かつて腐敗していた帝国は、少しずつ別の国へ変わっていた。
だが、リリアーナは知っている。
国は一度変えれば終わりではない。
人間がいる限り、腐敗は生まれる。
権力は集中する。
欲望は膨らむ。
だからこそ。
皇帝である自分が、誰よりもそれを監視しなければならない。
「セドリック」
「はい」
「明日から新しい議会制度を始める」
「承知しました」
「それから、北部の鉱山法も改正する」
「承知しました」
「南部の港湾税も見直す」
「……陛下」
「何だ?」
「少しは休まれてはいかがですか」
「嫌だ」
「即答ですか」
「国を支配するのは忙しいんだ」
「支配、ですか」
セドリックは微笑んだ。
「昔より、その言葉の意味が変わりましたね」
「そうだな」
リリアーナは帝都を見下ろした。
「昔は、人を従わせることだと思っていた」
一歩、歩く。
「今は違う」
もう一歩。
「自分一人では何もできないと知ることだ」
セドリックは静かに頭を下げた。
「では、これからもお仕えします」
「頼む」
二人は皇宮へ戻っていった。
後世の歴史家たちは、リリアーナ・アルヴェルディアを様々な名で呼んだ。
帝国中興の女帝。
改革の皇帝。
銀髪の暴君。
慈愛の女帝。
そして、一部の古い記録には、こう記されている。
『刀を奪われた侍が、異世界の少女として生まれ変わり、帝国そのものを変えた』
だが。
その記録を読んだ者のほとんどは、それをただの伝説だと思った。
侍が異世界から転生してきたなど、誰が信じるだろう。
まして、その侍が悪役令嬢として生きたなど。
けれど。
帝国歴三百八十二年。
リリアーナの墓に一本の刀が供えられた。
銘はない。
名刀でもない。
古びた鞘。
傷だらけの柄。
そして鍔には、奇妙な紋章が刻まれている。
その刀を見た者は知らない。
かつて一人の侍が、雨の中でその刀を奪われて死んだことを。
知らない。
その男が別の世界で生き、再びこの世界へ戻ってきたことを。
知らない。
その男が一人の悪役令嬢として帝国を救ったことを。
そして。
墓の前に花を供える銀髪の男の存在も。
セドリック・ヴァレンシュタイン。
彼は生涯、リリアーナの側を離れなかったという。
皇帝の最も忠実な執事として。
最も危険な護衛として。
そして。
誰よりも彼女の秘密を知る男として。
ただ一つだけ。
後世にも残らなかった秘密がある。
リリアーナが死ぬ直前。
彼女はセドリックにこう言ったという。
「もし次があるなら」
「はい」
「今度は皇帝じゃなくてもいい」
「……はい」
「普通の女として生きてみたい」
セドリックは微笑んだ。
「では、そのときも私が執事になります」
リリアーナは笑った。
「……本当に、どこまでもついてくるな」
その言葉を最後に。
二人の姿は歴史から消えた。
けれど。
帝国は残った。
彼女が作った法律も。
学校も。
道路も。
議会も。
商業制度も。
そして、人々の暮らしも。
刀を奪われた侍が最後に残したものは、刀ではなかった。
国だった。
人だった。
未来だった。
だから彼女は、最後まで自分を英雄とは呼ばなかった。
ただ一人の皇帝として。
自分の選んだ国を、自分の選んだ人々と共に守り続けた。
雨の日に刀を奪われて死んだ侍、東雲一真。
その魂が再び目を覚ましたとき、そこには剣よりも強い力があった。
人を動かす言葉。
国を動かす制度。
未来を選ぶ意思。
そして。
隣に立ってくれる一人の男。
帝国の歴史は、そこで初めて変わった。
これは、悪役令嬢と呼ばれた少女が、皇帝となるまでの物語である。
そして同時に。
刀を奪われた一人の侍が、ようやく「刀がなくても守れるものがある」と知るまでの物語でもあった。




