推しが教えてくれたこと
第一部 月宮ひより
私の推しは、天堂真一先生だ。
入学式の日、壇上で話す先生の声を聞いた瞬間、心が跳ねた。
落ち着いていて、優しくて、でもどこか寂しそうな声。体育館に響くその声が、なぜか胸に染みた。
隣に座っていた橘瑠夏が「あの先生、イケオジだね」って囁いてきたけど、私が惹かれたのは見た目じゃない……
——声だった。そして、時々見せる少しだけ遠くを見るような、寂しげな表情。
何かを抱えているのかな。そう思った瞬間、心臓がキュッとなった。
——この人が、私の推しだ。そう思った。
推しって言葉、お母さんは笑うけど、私にとっては真剣だ。好きなアイドルを応援するみたいに、天堂先生の毎日が少しでも明るくなるように、私は頑張りたい。それが私にとっての活力にもなる。
だから、毎朝校門で「おはようございます!」って声をかける。先生が少しだけ笑ってくれるから。
推し活ノートには、先生の言葉を書き留めている。ほんの些細な言葉ばかり。
だけど、先生が言うと特別に聞こえる。瑠夏は「ひより、それ恋じゃない?」って言うけど、ちょっと違う……と思う。
私はただ、先生を推すだけ。
——そう、思ってた。
四月の中頃の授業で、先生は話してた。
「今日は、『恋』という言葉について考えてみよう」
先生がそう言った瞬間、胸がドキドキした。私のための授業だと思ってしまった。自意識過剰だけど。
「恋は、下心に従うと書く。つまり、心が下に引っ張られる状態だ。理性では抑えられない感情——それが、恋だ」
今の私のことかなと考えると、余計に心臓が痛くなる。この音が聞こえないようにと願う。
先生の声が、いつもより少しだけ低く聞こえた。
「でも、恋には愛とは違う、切なさがある。届かないかもしれない。叶わないかもしれない。それでも、人は恋をする」
私は先生をじっと見ていた。聞き入ってしまった。その声でそのセリフは反則だ。先生は黒板に向かっていて、こちらを見ていない。背中がとても遠く感じ、寂しくなった。そして、その気持ちが、私を現実に戻してしまう。
嫌な想像をしてしまった……先生、誰かに恋してるのかな。独身だし、恋人がいてもおかしくないよね。
そう思った瞬間、胸が痛くなった。苦しくなった。その気持ちが先生に伝わらなければいいと思った。
先生の授業は毎回楽しみだ。けど今回は素直に楽しめなかった。それを瑠夏に突っ込まれる。
「ねえ、ひよりって天堂先生のこと、本当に好きだよね」
「うん! 推しだもん!」
「いや、そうじゃなくて……恋、してない?」
恋……いや、そうじゃない。
「……してないよ。先生と生徒だよ?」
「それが、恋ってもんじゃない?」
瑠夏の言葉が刺さった。
じゃあ、私が毎朝校門で先生に会いたいって思うのは何だろう。授業中、先生の声をずっと聞いていたいって思うのは何だろう。
先生が笑うと、世界が明るくなる気がするのは、どういう気持ちなんだろう。
これって……
その日から、自分の気持ちが分からなくなった。
翌朝、いつものように校門で先生に会えた。
「おはようございます、天堂せんせー!」
先生は、いつも通りに手を上げてくれた。でも、なぜか目が合わない。
「……走るな。危ないぞ」
いつもの注意。でも、声が少しだけ遠い気がした。私、何かしちゃったのかな。
教室に入ると、瑠夏が言った。
「ひより、顔赤いよ」
「え、そう?」
「今日も先生に会えた?」
「……うん」
「幸せそうだねー」
瑠夏はニヤニヤしながら言った。
「ひより、完全に恋してるよ。天堂先生に」
恋——
その言葉が、頭の中でぐるぐる回った。
授業中、先生と目が合った。
一瞬だけ、先生の目が優しく細められた気がした。それだけでドキドキして、思わず小さくガッツポーズ。
——やった。今日も先生、見てくれた。
でも、すぐに先生は視線を外した。なんでって思ったけど、普通のことだ。先生はみんなの先生なんだから。
そうだよね、先生。
その日の放課後、私は図書室で考えてみる。沢山の言葉に囲まれていたら、先生に近づけると思ったから。
推しと、恋の違い。
推しは、相手の幸せを願うこと。恋は、相手と一緒にいたいと思うこと。
じゃあ、私は……答えは私の中にあるはずなのに、分からない。それがもどかしい。
先生の幸せを願ってる。先生と話したい。先生に、もっと笑ってほしい。そして——先生の隣にいたい。
……あ。
気づいてしまった。
見ているだけでは、もう、足りなかった。簡単で単純なこと。
私、先生のこと……
恋、してる。
家に帰ると、お母さんが夕飯を作っていた。
この家には、お母さんと二人だけ。お父さんとは、仕事の都合で離れて暮らしている。
だからかもしれない。私、大人の人の「寂しさ」に、敏感なのかも。
お母さんも、時々寂しそうな顔をする。天堂先生の表情が、どこかそれに似てた。
「ねえ、お母さん。推しと恋って、どう違うの?」
お母さんは、洗い物をしながら笑った。
「ひより、私には推しってのがよく分からないわ」
「そうだよね……」
「でも、恋なら分かる。悲しくなったり、寂しくなったり……」
「うん」
「決して、楽しいだけのものではないわ」
お母さんの言葉に、ハッとした。
そうだ。
先生が最近、私を避けてる気がして、悲しかった。目が合わなくなって、寂しかった。最初の頃とは違い、幸せな気持ちだけじゃない。
「お母さん……私、どうしたらいい?」
「ひよりの気持ち次第よ」
「……そうだよね」
お母さんは、優しく頭を撫でてくれた。
「でもね、ひより。恋をするって、素敵なことよ。たとえ、叶わなくても」
その夜、ベッドで天井を見ながら考えた。
私、天堂先生に恋をしてる。
でも、先生は大人で、私は生徒。年も、二十歳以上離れてる。
こんなの、叶うわけない。
——でも。
それでも、先生のことが好き。気づいてしまったら、もう止められない。
先生の声が好き。
先生の横顔が好き。
先生の、少しだけ寂しそうな笑顔が好き。
推し活ノートを開いた。先生の言葉が、たくさん書いてある。
「言葉は、心を映す鏡だ」
じゃあ、私の心は言葉に何を映すのだろう。
——好きです。
でも、それは言えない。先生を困らせたくない。
じゃあ、私は何を伝えられるの。
「先生、いつもありがとうございます」
それなら、言える。
次の日、校門で先生を待った。
「おはようございます、天堂せんせー!」
いつもの挨拶が、今は少し苦しい。顔が火照る。
気持ちを隠さなきゃ。
この恋心がバレないように、どうか伝わりませんようにと祈る。
だから、いつも以上に明るく振るまう。
先生は、少し驚いた顔をした。
「……ああ、おはよう」
いつもより、声が小さい。でも、私は笑顔で言った。
「先生、いつもありがとうございます!」
先生は、一瞬だけ目を見開いた。そして、ほんのわずかに——困ったような顔をした。
「……何のことだ?」
「えっと、授業とか、いろいろです!」
本当は、もっと伝えたいことがあった。
先生の声が好きです。
先生の優しい笑顔が好きです。
先生のことが——
でも、それを言ったら、先生を困らせてしまう気がした。
だから——
先生は困ったような顔をして、それから小さく笑った。
「……そうか」
その笑顔を見た瞬間、心が温かくなった。
——やっぱり、私は先生が好きだ。
でも、この気持ちは、言わない。先生には、きっと大切な人がいる。私みたいな子供に、振り向いてもらえるわけない。
それでもいい。
私はただ遠くから、応援し続ける。
それが、私の愛し方だから。
五月の終わり頃、先生の様子が変わった。校門で会っても、前よりも視線を合わせてくれない。授業中も、私の方を見る回数が減った気がする。
先生、私のこと、嫌いになっちゃったのかな。
でも、違う気がする。
先生は、優しいから。私が恋をしてることに、もしかしたら気づいてるのかもしれない。
だから、距離を置いてるんだ。先生なりに、私を守ろうとしてくれてる。
——ありがとう、先生。
私、気づいてます。先生が、どれだけ優しいか。どれだけ生徒のことを考えてくれてるか。
だから、私も頑張る。
先生を困らせないように。先生の負担にならないように。
ただ、遠くから——先生の笑顔を、守りたい。
推し活ノートの最後のページに、私は書いた。
「天堂先生へ。
私の推しは、先生です。
これからも、ずっと。
先生が笑顔でいてくれるなら、私は、それだけで幸せです。
先生のことが……あなたのことが好きです。
——月宮ひより」
このノート、先生には絶対に見せない。
でも、書かずにはいられなかった。この想いを、どこかに残しておきたかった。
いつか——
大人になって、また先生に会えたら、この気持ちを、伝えられるかな。
その時、先生は笑ってくれるかな。
——無理だろうな。
先生にとって私は、ただの生徒の一人。数年後には、名前すら忘れているかもしれない。
それでもいい。
私は先生を、ずっと好きでいると決めた。
それが私の選んだ道だから。
第二部 天堂真一
——これは、俺にとっての罰だと思った。
校門の前で、俺はずっと彼女の笑顔を待っていた。四十代半ばの男が、十六歳に恋をする。教師として、超えてはならない一線の向こう側にいる少女。
だが、気づいた時にはもう遅かった。
俺は、彼女に恋をしていた。
全ては、入学式から始まっていた。
壇上から新入生を見下ろした時、一人だけ、まっすぐにこちらを見ている少女がいた。
他の生徒は緊張した面持ちで俯いていたり、友人と小声で話していたりする中、彼女だけが——真っ直ぐに、俺を見ていた。
月宮ひより。
名簿で確認した名前が、その瞬間、ただの文字以上の意味を持った。
——俺の中で何かが動いた。
胸の奥で、長い間眠っていた何かが。
その時はまだ、それが何なのか分からなかった。分かりたくなかった。
だが今なら、はっきりと言える。
あの瞬間から、俺の罰は始まっていた。
だが、その時の俺はまだ気づいていなかった。この感情がどれほど危険なのかを。
——四月。
新年度の始まりは、いつも同じようでいて、どこか落ち着かない。入学式を終えてから約一ヶ月、俺は校門に立っていた。
生徒指導という名の、形式的な役割。制服、髪型、挨拶。やることは毎年変わらない。新入生は緊張した顔で門をくぐり、在校生は慣れた足取りで通り過ぎていく。
そのはずだった。
「おはようございます、天堂せんせー!」
まだ校門の向こう、少し離れた場所から声が飛んできた。反射的に顔を上げる。一人の女子生徒が、こちらに向かって走ってきていた。
まだ新しい制服。少し大きめの鞄。結ばれていない、綺麗な長い髪が揺れている。
——月宮ひより。
名簿で確認したばかりの名前が、即座に浮かんだ。彼女は校門の前で立ち止まり、軽く息を切らしながらも、満面の笑みを向けてきた。
「間に合いました! セーフですよね?」
その無邪気さに、思考が一瞬止まった。
——この笑顔を、毎朝見たい。
その衝動が、一瞬だけ頭をよぎった。危険だ。そう思いながらも、口を開いていた。
「……走るな。危ないぞ」
いつも通りの注意のつもりだった。だが、声が少しだけ柔らかくなっていたことに、自分で気づいてしまった。
「はーい!」
素直な返事だった。そして彼女は、何の躊躇もなく言った。
「先生、入学式のときから思ってたんですけど、声、すごく落ち着きますね!さすが、私の推し!」
彼女はそう言いながら、少し頬を赤らめた。そして鞄から小さなメモ帳を取り出して、何かを書き込んでいる。
「……何を書いているんだ?」
「え? あ、これ推し活ノートです! 先生の名言集!」
無邪気に笑う彼女を前に、俺は言葉を失った。名言集——俺が何か名言を残したとでも思っているのか。
そして……推し。
初めて聞いた言葉だった。近づこうとしない。距離を越えない。ただ、好意をそのまま口にしている。
それが、どれほど危険か。
彼女は気づいていない。だが、俺は気づいてしまった。この純粋な好意が、俺の心を揺らしていることに。
「そういうことは、軽々しく言うな」
教師としての正しさで、そう返したつもりだった。だが、本当は——
もっと聞いていたかった。お前の声を、お前の言葉を。
彼女は一瞬だけきょとんとして、それから笑った。
「でも、好きなものは好きって言ったほうがいいって思ってます!」
そう言って、深く頭を下げてから、教室へ向かっていった。
その背中を見つめることしか出来ない。朝の空気が、妙に静かになった気がした。
——違う、これは違う。
その感情に名前を付ける前に、理性が警鐘を鳴らす。
彼女は、ただの新入生だ。距離感を知らないだけだ。毎年こういう生徒は必ずいる。そう自分に言い聞かせた。
だが翌日も、月宮は同じように現れた。走ってきて、笑って、名前を呼ぶ。
「天堂せんせー! 今日も現国ありますよね?」
校門で交わす会話はほんの数秒だ。それなのに、その数秒を無意識に待っている自分がいた。
三日目。
四日目。
一週間。
彼女は変わらなかった。真っ直ぐで、天真爛漫で、こちらを疑わない。
授業中、月宮は前を見ていた。板書を必死に写すわけでもない。ただ、言葉を聞いている。
ふと目が合った。彼女はまるで何かを見つけたように、パッと顔を輝かせた。そして、小さくガッツポーズをする。
——何が嬉しいんだ。
理解できないまま、俺は視線を外した。だが、心臓が——少しだけ、跳ねていた。
ある朝、ふと気づいた。校門に立ちながら、彼女の姿を探している自分に。
——いつからだ。
帰宅後、誰もいない部屋でネクタイを外しながら、理由を考えてしまった自分が、ひどく嫌だった。
思い出すのは、最後までいつも笑顔だった妻。
「あなたは……前を向いて、生きて……」
病室でそう言い遺した彼女。ふと、病室での最後の会話を思い出す。
「ねえ、あなた。また誰かを好きになったら……それでいいのよ」
「何を言ってるんだ」
「私、あなたが一人で寂しそうにしてるの、嫌だから」
そう言って、彼女は笑った。あの時の笑顔が——月宮の笑顔と、重なる。
妻の写真を、俺は見ることができない。携帯に残ったデータも、全て消した。記憶の中で、笑顔だけが少しずつ輪郭を失っていく。
それでいいと、思っていた。忘れることが、前に進むことだと、思っていた。
——月宮ひよりに、出逢うまでは。
月宮のまっすぐな笑顔は……妻に少し似ていた。同じではない。比べること自体、間違っている。
それでも、胸の奥の柔らかい部分を不用意に揺らされた。
——ごめん。
心の中で、妻に謝った。
お前は「それでいい」と言ってくれた。でも、俺には許せない。月宮は、生徒なんだ。
——三週目。
校門で月宮が転びそうになり、思わず手を伸ばした。触れてはいない。だが、その瞬間——守りたいと思ってしまった。
その日、はっきりと理解した。
俺は月宮に惹かれている。しかも、一目惚れに近い。いや、もう出逢った瞬間に、恋に落ちていたのだ。それを自分でも認めたくなかっただけなのだ。
入学して、まだ一か月も経っていない。それなのに月宮ひよりという存在が、確実に心の奥に入り込んでいる。
しかし彼女は、推しとして応援しているだけだ。年齢も二回り以上離れている。
だが、その純粋さに惹かれている時点で、俺はもう、教師として越えてはいけない場所に足を踏み入れていた。
四月の中頃、授業で「恋」について話した。
「恋は、下心に従うと書く。つまり、心が下に引っ張られる状態だ。理性では抑えられない感情——それが、恋だ」
そう説明しながら、俺は月宮を見ないように必死だった。
でも、彼女の視線が、痛いほど分かった。真っ直ぐに、こちらを見ている。
「でも、恋には愛とは違う、切なさがある。届かないかもしれない。叶わないかもしれない。それでも、人は恋をする」
——届いてはいけない。叶えてはいけない。
俺は、自分に言い聞かせるように、その言葉を口にした。彼女はどう感じただろうか。
ある朝、月宮が校門で言った。
「先生、いつもありがとうございます!」
いつもと違う言葉に、俺は戸惑った。
「……何のことだ?」
「えっと、授業とか、いろいろです!」
彼女は笑顔で答えたが、その目が——揺れていた気がした。
——まさか。
彼女に気づかれてしまったのか。俺の気持ちを。その可能性が、俺を恐怖させた。
このままではいけない。
五月——
五月の終わり頃、俺は決めた。
これ以上、月宮に近づいてはいけない。
最近、彼女の様子が変わった。いや——変わったのは、俺も一緒だ。
彼女はおそらく、俺の気持ちに気づいてる。俺を見る目が以前と違う気がする。それがどんな感情かは分からない。
どちらにしても、これ以上近づいてはいけない。
校門指導の担当を外してもらった。授業では、できるだけ彼女の方を見ないようにした。
彼女を守るために。いや——俺が、これ以上惹かれないために。
——だからこそ、俺は決めた。
この感情は隠す。誰にも悟られないように。彼女が生徒でいる間も、その後も……
過ぎゆく時の中で失っていく妻の記憶。薄れていく悲しみ。今はもう涙も出ない。
俺はまだ、悲しみ続けなければならないはずなのに。
それなのに月宮の存在が、俺に光を差す。悲しみを、孤独を薄めてしまう。
触れてはならない。
知られてはならない。
彼女に伝えてはならない。
月宮は可能性の塊だ。それを閉ざしてはならない。彼女の隣にふさわしいのは、俺ではない。
彼女は蕾だ——それを折ってはならない。
彼女は知らないだろう。俺がどれほど、その髪や頬や耳に触れたいと思っているかを。
彼女は気付かないだろう。俺がどれほど、愛しさで胸を満たしているかを。
また、明日も彼女の声が校門で響くだろう。いや——もう、俺は校門に立たない。
彼女の進路が決まったら……お別れだ。
だから、せめてそれまでは——
その無邪気な笑顔を、遠くから守りたい。何もしない、何も言わない。ただ、心の中で——
月宮ひより。
お前の「推し」は、お前に救われていたんだ。
——ありがとう。
彼女はいずれ、俺のことなど忘れてしまうだろう。俺は、その孤独を抱えて生きていく。
それが、忘れてはいけない妻を、忘れていく俺への——罰だ。
月宮ひよりは、俺に教えてくれた。
人は、何度でも人を好きになれることを。でも、好きだからこそ、近づかない選択もあることを。
守るということは、時に、距離を置くことなんだと。
春が過ぎて、夏が来る。秋が来て、冬が来る。そして、また春が来る。
月宮ひよりは、その度に少しずつ大人になっていく。俺は、その度に少しずつ遠ざかっていく。
それでも、今だけは——
この、誰にも知られない想いを、胸に抱いていたい。
それが、俺の選んだ孤独だ。
そして、俺への——罰なのだと思った。
第三部 月宮ひより
先生が、校門に立たなくなったと気づいたのは六月頃だった。
毎朝、先生に会えることを楽しみに学校に来ていた。でも、先生はもうそこにいない。
——寂しい。
だけど先生は、私のために距離を置いてくれたんだと思う。私の気持ちに、気づいてしまったから。
優しい先生だから。生徒想いの先生だから。授業でも、前より目が合わなくなった気がする。
でも、ある日——
廊下ですれ違った時、先生の目が私を捉えた。
その目には、寂しさと、優しさと、そして——何か、言葉にならない想いが、込められていた気がした。
そんなはずない……
そう思おうとした。でも、胸の奥がざわついた。それが消えなかった。
もしかしたら、先生も——
それからの時間は静かに流れた。授業では、先生の声を聞く。廊下で、時々すれ違う。
でも、それ以上は何もない。
先生も、私も——何も言わない。何もしない。それでも時間だけは進んでいく。
二年生になって、瑠夏が言った。
「ひより、まだ天堂先生のこと好きなの?」
「……うん」
「諦めないの?」
「諦めるとか、そういうんじゃないの」
私は、ただ先生を想っている。それだけで、十分なはずだった。
三年生になって、進路を考え始めた時、先生が声をかけてくれた。
「月宮、進路は決まったか?」
「はい。文学部を目指してます」
「……そうか。頑張れ」
先生の声が、少しだけ震えた気がした。
——卒業したら、お別れなんだ。
そう思ったら、涙が出そうになった。でも、我慢した。先生の前で、泣いちゃいけない。
卒業式の日。
先生は、壇上から卒業生を見下ろしていた。入学式と同じように。
私は、先生を見た。先生も、私を見ていた。
その目が……赤かった。
——先生。
心の中で、呼びかけた。
ありがとう。そして——待っていてください。
私、大人になったら、また会いに来ます。その時まで——
私は大学生になった。
新しい環境。新しい友達。新しい日々。でも、先生のことは、忘れなかった。
推し活ノートは、今も持っている。時々開いて、先生の言葉を読み返す。
そして、いつも思う。
——先生、元気かな。
誰か、好きな人ができたかな。幸せにしてるかな。
大学二年生の冬、同じ学科の男子に告白された。優しくて、面白くて、いい人だった。
でも——
「ごめんなさい。好きな人がいるんです」
そう答えた。
その人は、笑って言った。
「その人と、幸せにね」
——そうだといいな。
その人に、私の気持ちは届いてないかもしれないけど。
でも、いつか——いつか、届けたい。
成人式の案内が届いた時、私は決めた。
——会いに行こう。
大人になった私を、先生に見せに行こう。
成人式の日。
振袖を着た私は、式が終わった後、一人で学校へ向かった。懐かしい校門。懐かしい校舎。
何も変わっていない。でも、私は変わった。
もう、十六歳の女子高生じゃない。二十歳の大人だ。
職員室へ向かう。ドアをノックして開ける。
「あの……天堂先生、いらっしゃいますか?」
若い先生が、驚いた顔で答えた。
「天堂先生? ああ、今、図書室にいると思いますよ」
——図書室。
心臓が止まりそう。図書室へ向かう廊下は、とても長く感じた。
ドアを開けると——先生がいた。会いたかった気持ちが溢れる。
窓際の席で、本を読んでいる。卒業式の時から、変わらない横顔。少しだけ白髪が増えた気がする。
私はしばらく、先生を見つめていた。
「……先生」
声をかけると、先生が顔を上げた。一瞬、驚いたように目を見開いて——それから、小さく笑った。
「月宮……か」
「はい」
先生は、ゆっくりと立ち上がった。
「成人式、だったな」
「はい。振袖、似合ってますか?」
そう聞くと、先生は昔みたいに、少しだけ困ったような顔をして——
「……ああ。よく似合ってる」
その声が体に染み込んできた。
「先生」
私は、一歩前に出た。
「私、ずっと先生のことが好きでした」
先生の目が、驚いたように見開かれる。
「月宮……」
「ずっと……ずっと伝えたかった。やっと、言えました」
先生は、何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめている。
「先生は……私のこと、どう思ってますか?」
長い沈黙の後、窓の外を見た。それから——
「……俺は、教師として、超えてはいけない線を守ってきた」
その言葉に、胸が痛くなった。
「それが正しいことだからだ」
やっぱりダメか。どこか諦めの気持ちで、次の言葉を待つ。
「だが……」
先生が、ゆっくりとこちらを向いた。
「お前が卒業してから……ずっと気にかけていた」
——それだけで……嬉しいよ。
「俺は……待っていたのかもな」
「何を、ですか……」
「お前が、大人になるのを」
——え。
「……先生?」
「月宮」
先生が、私の名前を呼んだ。優しい声で。愛しそうな声で。
「俺は——お前を忘れられない。それだけのことを認めるのに、時間がかかってしまった……」
——まさか。
そうかもしれないと。そうだったらいいと願っていたこと。
でも、こうして言葉にしてもらえると——嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。
「先生」
私は、涙を拭いて、笑った。
「私はずっと先生のことが好きでした。これからも、ずっと好きです」
先生は、少しだけ困ったような顔をして——それから、優しく笑った。
「……ありがとう」
そして、先生は言った。
「月宮——いや」
先生が私を呼んでくれる。
「ひより」
初めてのその言葉が、胸に染みた。
「俺は駄目な教師だ。だが……俺はもう耐えられそうにない」
「何に、ですか?」
「お前がいない生活に」
先生の本音を聞いて、愛おしくてたまらなかった。
「だから、俺と……一緒に歩んでくれるか?」
——はい。
何度でも言える。心の底から。
「はい!」
先生は私に近づき、手を取ってくれた。温かい手。ずっと触れたかった手。
そして深く息を吐き、私の目を真っ直ぐに見た。
「俺は、お前を——ひよりを愛している」
私の推しは、天堂真一先生だった。
推しが恋を教えてくれた。苦しくて、悲しいけど、愛おしい恋。
そして今——天堂真一さんは、私に愛を教えてくれた。
ずっと待っていた言葉。先生の隣に、ようやく立てた。そして、今から同じ歩幅で歩んでいくことができる。
私が選んだ道は、あなたに通じていた。
これからは、二人の道を選んでいきたい。




