何かが、少しだけ、おかしい世界で
何かが少しだけおかしい。
たとえば、紅茶じゃなくて緑茶だったり、中世ヨーロッパ風のドレスに下駄を合わせたり、トイレがコテコテの和式だったり。
どれもこれも些細なこと。
私の人生には、何一つとして影響しないくらいの……
おかしいことに気付いたのは十歳の時。
ふと甦った前世の記憶から、今世はとあるゲームの世界だと理解したからだ。
国の名前やその他諸々の設定から、私が転生したのは、前世でやり込んでいたRPGらしい。美しいグラフィックと、恋愛と神聖力が織り成す奥深いストーリーにハマっていたっけ。
にもかかわらず、自分がどのキャラに転生したのかは、全く分からなかった。
そこそこ裕福な貴族の家に生まれて、普通に大事にされて育った。
主要人物どころか脇役とすら接触していないし、多分令嬢1とか、そんな感じのモブ中のモブなのだろう。
────この世界はバグから生じたのではないか。
それが私の仮説だった。
だってあの美しいグラフィックで、緑茶……はまだしも、下駄とか和式トイレとかあり得ないし。
だとしたら、自分もバグから生まれた可能性が高い。……というか転生自体がバグみたいなものだし。
そんなモブだかバグだか分からない自分は、明日、生まれ育った家よりもっと裕福な貴族の元へ嫁ぐ予定だ。
夫となる婚約者はとても素敵な人だ。
仏頂面だし、口下手なのかほとんど話さないけれど。
暑い時には日陰の下をさりげなく歩かせてくれたり、寒い時には手を握って外套のポケットへ入れてくれたり、蟻の行列を踏まないよう遠回りして歩いたり。
そんな些細な優しさを沢山もらった。
だから私は何も心配していない。
彼となら、普通に幸せな結婚生活を送れるのだろうと、そう信じていた。だけど……
「待ってたなり」
私を出迎える彼は、満面の笑みでそう言う。
「遠路はるばるお疲れ様なり。荷物を置いたら一緒にお茶を飲もうなり」
さあさあ! と部屋に案内される間に、バグりそうな頭を必死に整理する。
仏頂面……どこ行った? 口下手……どこ行った?
いや、それよりも……
侍女達に外套を剥がれ、新しいドレスに着替えさせられても、頭はちっともまとまらない。
あっという間に支度が整ってしまった私は、婚約者の待つ応接室へと連行される。
「さあ、召し上がれ。今日は寒かったね」
……あれ、気のせいだったのかなあ。
でも声のトーンはいつもより高いし、熱々のティーカップを勧めてくれるその顔は、にこにこと愛想が良い。
何だろう。ちょっとしたバグかも。
いつもの緑茶……ではない濁った水面を見ながら、やっぱりそうだと確信する。独特の香りに、もしや……と口を付ければ、懐かしい塩味と旨味が広がった。
「……おいし」
少しバグっているらしい婚約者は、湯気の向こうで嬉しそうに微笑んでくれた。
結婚式を挙げ、婚約者から夫へ変わってもバグは直らなかったが、一定の規則や設定があることが分かってきた。
夫の語尾におかしいものが付くのは、感情が高ぶった時らしい……と気付いたのは、初夜のベッドの上。思わず笑ってしまいそうになったけど、幸い身体の方が必死だった為、何とか持ちこたえられた。
梅昆布茶が出されるのは一週間に一回、休日のティータイムだけで、普段は普通の緑茶だ。美味しいけど、塩分が気になっていたからそのくらいで良かったわ。
何事もなく普通に日々は過ぎ、五年が過ぎた頃には、すっかりおかしな結婚生活にも慣れていた。元々些細なバグだものね。
「ママ~! 蟻がいっぱいなり!」
三歳になった夫そっくりの息子レニは、夫そっくりの口調で、庭の石畳を指差している。どれどれとしゃがめば、可愛い視線の先には、蟻の長い行列があった。
「あら、ほんと。みんなでご飯を運んでいるのね。がんばれ~」
「がんばるなり~」
そろそろ夫が外出先から帰って来る頃ね。お茶の準備をしなきゃと立ち上がる。
私の作った甘いマドレーヌに、しょっぱい梅昆布茶は、彼の一番好きな組み合わせだ。今みたいに暑い時期は、裏の川で瓶ごと冷やして飲んでいる。
氷魔法を使えるキャラだったらよかったのにと、レニと繋いだ手を宙でくるくると動かしてみる。……モブにそんなもんある訳ないか。
メイド達と一緒にテーブルを整えていると、馬車の音が聞こえた。
あら、予定より早かったわねと嬉しくなる。
レニを抱いていそいそと向かった玄関には、少し気まずそうな顔で笑う夫と……八歳前後くらい? の少年が立っていた。
…………誰?
「知り合いの子なんだ。ちょっと友達になって……その……しばらく家で一緒に暮らそうと思うなり」
その語尾から、相当緊張していることが伝わる。おまけに何か『訳あり』なことも。
私は「パパー」とはしゃぐレニを夫へ預けると、腰を屈め、長い前髪に隠れた少年の目を覗き込んだ。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね。私はロッティ、この子はレニ。あなたのお名前は何と言うの?」
「……ディル」
「まあ、素敵なお名前ね。じゃあディル、一緒におやつを食べましょう。貴方、子供達と一緒に手を洗ってきてくださいな」
「あ……うん。おいで、ディル」
夫は少しホッとした顔で、レニとディルと共に手洗い場へ向かう。
粗末な服に包まれた小さな背中は痩せていて、風が吹けば倒れてしまいそうだ。
とりあえず美味しいおやつを沢山食べさせて、それから夫が訳を話してくれるのを待ちましょう。
クッキーと果物も増やすようにメイドへ指示し、食堂へ向かうとした時────
私の頭に、ゲームのとあるシーンが高速で再生された。
ディル……ディルメア……
ああぁぁあああっ!!
『ディルメア』
それはこのゲームの最強にして最恐のボスキャラの名だ。そしてその名と同時に、私が何者であるかもようやく分かってしまった。
国王と側妃の間に生まれた第三王子ディルメアは、『第三の眼』を持つ忌まわしい者として、赤子の頃に森に捨てられた。側妃も彼を生む時に亡くなった為、表向きは死産として片付けられたのだ。
運良く命は助かったものの、その人生は散々だった。
私達一家が登場するのは、ゲームのラスト、主人公に倒された彼の走馬灯の中。
劣悪な環境の孤児院暮らし……から脱走して奴隷商に捕まる……から悪どい商家に売り飛ばされる……から親切ぶった貴族の家に引き取られる。
そう! ココ! 私はその貴族の家の夫人だ。三十秒くらいのシーンの、シルエットしかなかったモブ中のモブ。やっぱりねと可笑しくなる。
その後も色々と苦労した彼は、我が家で暮らした四年間が、人生の中で一番『マシだった』と語った。
主人は留守がち、夫人はほとんど口を利かない冷たい家だったけれど、衣食住と仕事はもらえたし、何より虐待されなかったからと……
えっ、あんな小さい子を無視する時点で虐待じゃ? 夫人何やってるのよ。
それにちょっと待ってよ。夫、全然留守がちじゃないし。毎日帰って来てるし。うーん……これから忙しくなって留守がちになるとか?
とにかく人生に絶望した彼は、十七歳の時、愛した女性に裏切られたことが引き金になり、暗黒魔法を暴走させてしまうのだ。やがて世界を闇に呑み込む凶悪なボスに……
粟立つ腕を擦っていると、夫が二人を連れて食堂へやって来た。
私の右隣の子供用の椅子に、トトッと座るレニ。ディルにも私の左隣の椅子をどうぞと勧めるが戸惑っている。
そうか、ずっと主従関係だったから……
「好きなおやつを知りたいから、私の隣にしてしまったの。ここでもいい?」
そう訊くと、こくんと頷き座ってくれた。
最初は遠慮していたけど、一口食べれば夢中でお菓子を頬張ってくれる。大人びた眼差しに対して、膨らんだほっぺはまだあどけなくて。マナーも何もないのに、王家の血を引いているからか、どこか品も良かった。
ゴホゴホとむせてしまい、慌ててグラスを手渡す。
ジュースのつもりが、間違えて梅昆布茶だったと気付いた時にはもう遅い。だけど彼は、ごくごくと飲み干した後で「おいし」と呟いた。
「美味しい? これはね、旦那様のお祖母様の故郷のお茶なのよ。もう一杯いかが?」
こくこくと頷くディル。お代わりもあっという間に飲み干すと、ほんのり笑みを浮かべてくれた。
夫と視線を交わし、よかったという風に微笑み合う。
「しょっぱいから、次はジュースにするなり」
と夫が言えばレニも、
「オレンジジュースも美味しいなりよ」
と自分のコップをディルに差し出そうとする。
思わずふふっと笑うと、ディルの顔にもさっきより確かな笑みが広がる。
ラスボスだか何だか知らないけど、私の中にこの子への愛が芽生えた瞬間だった。
ティータイムが終わり、ディルを部屋へ案内した後で、夫は訳を説明してくれた。
ラスボスの走馬灯通り、商家の店先で怒鳴られ暴力を振るわれかけていた所を、助けて連れ帰ってしまったと。
「こんな言葉は使いたくないが……あの子を買ったという倍の値段で買い取ってしまった。恐らくふっかけられたが、あの子の前であの子の価値を値切りたくなんかなくて。だから……すまない。大金を払った上に相談もなしに」
仕方ない。蟻も踏めない優しい人なのだから。
むしろそんな人で良かったと思う。
「いいんですよ。お金のことなんか。レニもずっとお兄ちゃんが欲しいって言っていましたし」
「それじゃあ……!」
「ええ。家で引き取りましょう。奴隷ではなく、家族として。あの子はきっとそういう “ 運命 ” なんです」
「……ロッティ!!」
ガバッと抱き締められる。
「ありがとう……ありがとうなり」
ラスボスが恐くない訳じゃない。魔力が暴走して、家族に危害を加えたらどうしようという不安もある。
だけどここは、少しだけおかしな世界だから。絶対笑わないあの子が笑ってくれたように、良いバグもあると思うの。
そう自分に言い聞かせながら、夫の広い背をポンポンと叩いた。
正式に養子に迎えたディルは、次第に心を開き、子供らしい部分を見せてくれるようになった。
レニも「お兄ちゃん」とよく懐き、勉強の邪魔をしてしまうこともあるが、邪険にせずよく遊んでくれる。
一年も経つと、なんと前髪を切らせてくれるようになった。偶然額を見たレニに、「カッコいい!」と言われたことで、抵抗感が薄れたらしい。
忌まわしいと捨てられ、虐められた原因でもある『第三の眼』。初めてよく見たそれは、血というよりは苺みたいな色でとても可愛かった。
眉毛の上でさっぱり切り揃えると、息を呑む程綺麗な顔が現れる。
さすが主人公をも凌ぐ人気のラスボス……
でも、今はただの可愛い息子だわ。
ディルはスッキリした顔を鏡に映し、「……いいね」と笑ってくれた。
一方夫はというと……
留守がちになるどころか、臨月の私を案じてほとんど屋敷から動かない。レニがお腹にいる時もそうだったけど、最近は新しい事業を立ち上げたばかりだというから心配になる。
「ちゃんと引き継いでるし、家でも仕事出来るから大丈夫なりよ~」
と言いながら、満面の笑みでお腹に触れる姿を見ればもう何も言えない。
数週間後、生まれたばかりのふにゃふにゃの娘を見ながら、「ありがとうなり~」と号泣する夫。可笑しいのに、こちらまでもらい泣きしてしまう。
すんと鼻を啜りながら、夫は聞き飽きた言葉を置いていく。
「ロッティが僕の妻になってくれてよかったなり……あんな無愛想な男と結婚してくれて」
私も涙を拭いてもらいながら、言い飽きた言葉を返す。
「訛りが恥ずかしかったんでしょ? 感情を出さないように頑張ってたのよね?」
「うん。結婚して、嬉しくて、隠しきれなかったけど。君は笑わないで受け入れてくれたなりね」
「ちょっと驚いたけど、可愛かったから。お母様の故郷の大切な言葉でしょう? 恥ずかしがることなんて何もないわ」
「……うん。もし君に嫌われていたら、僕は家に帰るのが怖くなっていただろうな」
初めて聞いた言葉に、目を剥く。
留守がちになった理由、もしかしてそれか!?
なんとなくだけど……
バグっていない正しい世界でも、夫はロッティを愛していたし、ロッティも夫を想っていたんじゃないかな? 些細なことで、すれ違ってしまっただけで。
ほんの少しのバグがあれば、温かな家庭を築けたんじゃないか、ディルを愛せる心の余裕もあったんじゃないかと、そう思ってしまう。
「はあ、やっぱり僕は、君のことが大好きなりよ。今日が最高だと思うのに、明日の方がもっと好きになってるなんて。おかしいだろう? ……なり」
「おかしくていいのよ。私もそうだもの」
潤んだ視線を交わし、チュッと唇を重ねる。
……ほんとはね、今でも時々笑いそうになってしまうことは内緒よ?
三年後、十五歳になったディルは、今日も我が家の『お掃除』を手伝ってくれている。
「母上、終わりましたなり」
「ありがとう、ディル。助かるなり~」
この世界の和式トイレは、汲み取り式の為臭いが気になっていたが、それをぼやいていたところ、突如ディルの魔力が覚醒したのだ。
まさか『第三の眼』が暗黒魔法……ならぬお掃除魔法を発動し、汚物を闇へ跡形もなく消し去ってくれるなんてね。弟のテスト用紙や、妹のおねしょシーツまで消してあげちゃった時は、さすがに三人まとめて怒ったけれど。
わしわしと頭を撫でれば、ディルはツンとそっぽを向きながらも、嬉しそうな色を浮かべている。
何だか婚約していた頃のあの人に似てきたわ。血は繋がっていないのに不思議ね。
「さあ。もう行かないと、宿に辿り着く前に日が暮れてしまうわ」
「……はい」
玄関には沢山の荷物と、外套を着た夫が立っている。
七歳になったレニと、三歳になったララも。
「兄上!」
「お兄たま!」
駆け寄る二人を、ディルは両腕にしっかりと抱き抱える。
「寂しくなるなりね」
ぐすっと鼻を啜りながら呟く夫に、私は活を入れる。
「貴方はいいでしょう? 学園までお見送り出来るんですから。……ディルのこと、くれぐれもお願いしますね」
「ああ……もちろんなり」
辺境の山にある、国内一厳しい全寮制の魔術学園へ入る決意をしたディル。入学するのは簡単だが、卒業出来るのはほんの一握りだとか。
ララを抱っこし、レニと手を繋ぎながら、ディルは私達の前へ立つ。
「父上、母上。僕は必ず卒業して、一級魔術師になります。みんなが忌み嫌う第三の眼も、暗黒魔法も、上手くコントロールすれば人々の役に立てることを証明してみせます」
胸が詰まり、私はララごとディルを抱き締める。
「……もし辛いことがあったら、すぐに手紙で知らせるのよ? 馬で飛んでくから」
「馬で……母上ならやりかねませんね」
ディルはふっと笑いながら、大人びた口調で続ける。
「大丈夫。僕は決して暴走したりしません。この眼までひっくるめて、僕を…………好きだと言ってくれた家族がここにいるのですから……なり」
そこは『愛してくれた』って言って欲しかったなあと思っていると、第三の眼が前髪の隙間からウインクしてくれた。
ふふっ、こっちは素直ね。
私の背中から、夫が家族をひとまとめに抱き締める。レニララが苦しいと文句を言うまで、しばらくずっとそうしていた。
二人の乗った馬車をいつまでも見送った後、冷えきった兄妹の手を握り家に入る。
しょっぱい鼻水をぐすんと啜り、誰にともなく呟いた。
「梅昆布茶、今日は贅沢にもう一杯飲んじゃおうかな。うんと熱くてしょっぱいの」
月日は流れて……
様々な困難を乗り越えたディルは、無事に魔術学園を卒業し一級魔術師になった。
暗黒魔法の制御、凝縮法を確立し、今ではお掃除用などの便利な魔道具に活用する有名な発明家だ。第三の眼がある為に差別と偏見に苦しむ人々を、ラスボスになりそこねた彼が救ってくれることになる。
夫は相変わらず毎日家に帰って来るし、「大好きなりよ~」と普通に抱き締めてくれる。「私もなりよ~」と抱き締め返せば、そこからは笑っちゃうくらい「愛してるなり♡」の嵐だ。
レニもララもすくすく育っているし……
あ、ララといえばね、お姫様ごっこで下駄の鼻緒を結んでくれた王子様に、ずっと恋していたんですって。
これは些細じゃなくて、なかなか大きなバグかも!
だって……
十二歳差の二人が結婚するのは、もう少しだけ先のおかしいお話♡
ありがとうございました。
ディルは痩せていたので小さく見えましたが、屋敷に来た時は十一歳でした。