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08.王子の騎士は、まだ気付いていない

 エリックが王子から賜わっている待機兼執務室に戻ると、士官学校時代からの腐れ縁であるギルバートとオリヴィアが談笑していた。エリックに気づいた二人が一斉に「おかえり」と声をかけてくる。


「ただいま」


 この二人は平民出身ながら王子の近衛騎士団入りという異例の抜擢を受け、腕力も剣術のセンスも抜群だ。

 しかし、少々だらしないところがあり、エリックが常にフォローしてきた。

 学生時代からは随分と改善されたものの、まだまだ目が離せない存在だ。


「ギル、オリヴィア、報告書はどうしたんだ?」

 言いたいことは山ほどあるが、どうせ響かない二人なので、必要なことだけを伝える。

「締め切りは明日の正午だぞ。喋ってる暇があるんだから終わったんだろうな?」


 なのに、返事は「やっべえ」と「やだあ、忘れてた」。


 エリックは心の中でため息をつきつつ、二人の状況を予想していた。それでも苛立ちを覚えるのは、まだどこかで二人に期待している証拠だろう。どうでもいいと思っていたら、こんなにイライラしない。


 ギルバートとオリヴィアは、常に『やらなければいけない』ことを後回しにし、ギリギリになって慌てるタイプの人間だ。

 二人が騎士という職に就くまで、机仕事がないと思い込んでいたことを考えれば少々酷な話ではあるが、士官学校を卒業しておいて『こんなに書類をやらなきゃいけないなんて聞いてない』は通じない。


 エリックは「手伝って」と言いたげな二人の視線を華麗に無視し、上着を自席の椅子に掛け、そのまま着席した。そして、二人が提出しなければならない書類とは別の書類を黙々と処理し始める。


「エリック、その書類終わったらでいいから、俺の書類も手伝ってくれねー?」

「……」

「頼む! な? この通り!」


 顔の前で手を合わせて頼むギルバートの姿に、いつものエリックならば小言を言いつつも手伝うか、もしくは書類を巻き取っていた。

 しかし、今日のエリックは違う。「自分でやれ」と冷たく一言返すだけだった。


 その態度にギルバートは驚き、一瞬言葉を失う。


「……ええ?」

「いいな?」

「……マジで?」


 ギルバートはエリックの返事が変わることはないと悟り、「ちえっ」と子供のように拗ねながら渋々と席に着いた。

 そして、整頓されていない机の中から「見っけ!」という声と共にくちゃくちゃな提出書類を引っ張り出し、それと睨めっこを始める。


 エリックの目には、苦笑とともにギルバートへの親しみが滲んでいた。


(最初からこうすれば良かったんだな)


 エリックは密かに決意を固める。

 今までは頼まれると請け負ってきたが、これからは今のように必要最低限の助けしか与えないと。

 もちろん、エリックは悪魔ではないので、ギルバートが本当に分からない箇所については教えてやるつもりだ。


 ──エリックのこの対応は、アイラの影響を多大に受けている。


『どれくらい時間がかかってもいいから、一人でできるようにならなくてはだめよ』


 領民の子供たちに刺繍やキャラメルの包装の仕方、文字の綴りや簡単な計算を教えているとき、いつも途中で諦めそうになる子供たちが現れた。

 しかし、アイラはそんな子供たち一人ひとりに根気強く向き合い、決して見捨てることなく支え続けた。


『一番頼れるのは、自分でなければいけないわ』


 普段、子供たちに対して、おっとりした口調のアイラが珍しく固い表情と硬い口調で言った言葉に、針と糸を放った女の子が不貞腐れながらもそれを拾い、作業を再開した。


 エリックはあのとき、アイラの新しい一面を見つけて驚いた。


 だって、そうだろう? アイラは、()()悪名高いシーグマンの娘なのだ。


 王子から『婚約者のふりをして娘を篭絡し、情報を得よ』と命じられたとき、エリックはアイラに対して大きな誤解と偏見を抱いていた。

 エリックの中で描かれていたアイラ・シーグマン像は、美貌を驕り、勝手気ままに振る舞う独善的な娘だったのだ。


 しかし、対面を果たしたエリックは、予想を外したことを知った。


 全身に色香をふんだんに(まぶ)した深紅の薔薇のような、男を惑わす女だと思っていたのに──


 エリックの前に現れたのは、人慣れしていない小動物のような女の子だった。


 成人女性に対して『女の子』という表現は正しくないし良くないのだが、アイラに至っては仕方がないと感じてしまうほどだった。


 アイラの垂れ気味の瞳は澄んだ薄水色で、そこには隠しきれない幼さが宿っていた。

 ふわふわと柔らかく下ろされた髪は淡い金髪で。

 細い手足や華奢な肩は、見た者の庇護欲を掻き立て、守ってあげたいという気持ちを引き出すかのような。

 まるでお伽噺に出てくる妖精のような見た目をしていた女の子。


 そんなアイラは、今でこそ控えめながらも柔らかな笑顔を見せてくれるが、初めて出会った頃は、目に見えて警戒心を抱えていた。


 ああ、この子はとても社交界には出せない──これが彼女への第一印象だった。


 なんせ、腹芸が苦手なのは一目瞭然。

 加えて、流されそうで騙しやすそうな見た目と雰囲気を纏った、押しに弱そうで頼み倒せば何でも許してくれそうな世間知らずのお姫様。

 こんな子が夜会に参加しようものなら、悪い男に連れ込まれペロッと食われてしまうに違いない。

 エリックはペロッと食うつもりはないが、コロッと騙してシーグマンの秘密を自分に渡すように仕組むのはそう難しいことではないと思っていた。


 しかし、関わるうちに彼女への印象は変わっていった。


 アイラ・シーグマンは「父親に溺愛されている」と平然と言ってのける女の子だった。「そんな父が私を打つなんてあり得ない」とも。

 まるで自分が傷つけられることなど想像もできないかのように、嘘を吐くのだ。


 そして、アイラが子供たちに見せる優しさや、領民のためにひそかに働く姿に触れるたび、エリックの中で彼女への偏見は、少しずつ和らいでいった。


 アイラは、領民の子供たちに刺繍や計算を教えることで、少しでも生き抜く力を与えようとしていた。

 貴族の娘でありながら、彼女はその特権に甘んじることなく、自らできることを模索し、地道な努力を続けているのだ。


(本当に純粋で、無垢な心を持っている)


 彼女は決して意志が弱いわけではなかったし、誰かに守ってもらおうとするつもりもないのだ。

 守られるべきか弱い見た目をしているだけで、その瞳には揺るがないものがあった。


 エリックは初めて会ったときの自分を恥じた。


 アイラは、かつての自分が決めつけていたような『悪女』などではなく、誰よりも真っ直ぐで、誇り高い女性だった。


 彼女が領民のために懸命に尽くしている姿は、エリックの心に強く強く響いた。


 そして──


(あのとき、アイラが俺に縋って泣いたとき……)


 自分が頼られる存在であることが、あのときどれほど嬉しかったか。


 そして、その感情に気づいたとき、自分がアイラに恋をしていると認めざるを得なかった。


 恐らくだが、アイラは自分の父親が悪いことをしているとは薄々気付いているのだろう。

 だが、領民のために名物品を作ったり、子供たちに一人で生きていけるよう知識を与えたりと、償いはしているのでは?


 確かに規模は小さいが、それは彼女一人の力だからだ。

 エリックが手を貸せば、規模の大きさは変えられる。

 シーグマンのことはこれから考えなければいけないが、何とでもなる気がする。

 いや、何とかする。その自信はある。


 昔の人間はうまいことを言ったものだ──『狩る者が狩られる』と。


 だが、恋に落ちてしまったのだから仕方がない。

 それに、アイラがエリックに対して同じ気持ちを抱いていることが分かった今、することは決まっている。


 王子には、これから報告するつもりだ。


 ──アイラを自分の妻にしたい、と。




「ねえ、エリック」

 エリックは顔を上げぬまま、「何だ?」とオリヴィアに応じた。


 青い箱に書類を入れ、赤い箱から一枚取って目を通すが、オリヴィアが続けないので、もう一度「何だ?」と促す。


「あたしの報告書は、手伝ってくれるでしょ?」

「手伝わない」

 溜め息をこらえたが、声にはわずかに棘が滲んでしまった。


 エリックの言葉にオリヴィアは、「意地悪ぅ」と媚びを塗した声を上げると、「ギル~」と甘えながらギルバートの肩に顔を乗せ、嘘泣きを始めた。そんな時間はないだろうに。懲りない女である。


(オリヴィアの『馬鹿の一つ覚え』にはうんざりだ)


 士官学校に入ったばかりの頃のエリックは、この嘘泣きに振り回されて大変だった。


 士官学校は、女の数が極端に少ない。

 今は違うが、自分たちが在籍していた当時の士官学校の男女比は、九対一だった。……いや、一割もなかった。


 そうなるとどうなるか?


 そう。その一割以下の中に入っている女が、釣り名人になる──仕掛けを水中に入れるとすぐに魚が食いつき、次々と魚が釣れる現象が起こる。

 すなわち、『入れ食い状態』である。


 エリックはオリヴィアを恋愛対象として見たことは一度もなかった。


 だが、士官学校の同期である一五二期生内で一番人気があったオリヴィアを無下に扱うと、周囲の反応が面倒臭くなることを知っていたため、仕方なく彼女の面倒を見ていただけだった。

 あれはエリックにとって、義務感と友情の間でバランスを取るための避けられない選択だった。


「エリックの意地悪ぅ」


 オリヴィアの声が、幼さを残したままエリックに向けられる。

 その言葉にはふざけた調子の中に、ほんの少しの恨みが混じっていた。


「……はあ」


 一年遅れで士官学校に入ったオリヴィアは来春で二四歳。


 さすがに。

 そろそろ。

 大人になってもいいのではないだろうか?


 友人として、オリヴィアのためにも厳しい言葉をかけることが、自分にできる最善なのではないか?

 彼女の未来を思えばこそ、時には厳しい現実を突きつけることも必要だと、思うのだ。


「自分でやれ」


 エリックは、それだけを告げると静かに部屋を後にした。

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