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07.愚かな娘は、大法螺を吹く

 八冊分の『薬草大辞典 第一巻』の中身をすべて取り出すと、厚さ三センチほどの束ができた。


(これで……よし)


 変装用に着ているメイド服のスカートを捲って、書類を腹に巻き付けたら準備完了。

 音を出さないようにまとめている内に、おそらく締め出された間抜けな男によるガチャガチャ音はなくなっていたが、念のため三分置いてから部屋を出ることにする。


 腕時計に表示されている時刻は、二六時二六分。


(落ち着いてやれば大丈夫。もし、施錠に二〇分かかったとしても、会合が終わるまで部屋に戻れば問題ないわ)


 アイラは、髪に挿していたピンを静かに二本抜き、鍵穴に差し込んだ。



 ◇



 施錠は、開錠の半分以下の時間で済んだ。入室する前ほどの緊張をしていなかったことが原因なのだろう。

 もう二度とするつもりはないが、どうやらアイラには()()()()()()()の才能があるらしい。


 時刻は、二六時三四分。余裕を持っていい時間だ。

 父の執務室とアイラの私室はそう離れていない。階段は上がらなければいけないが、月明かりのおかげで足元の心配もない。


 腹にしっかりと巻きつけた『証拠』をぎゅうっと抱き締め、暗い廊下を歩く。

 足音を立てないように、慎重に、しかし素早く進む。


(見つかるわけにはいかないわ)


 呼吸を整えながら、心臓の鼓動が耳元で響くのを感じる。

 周囲の静寂が、一層その緊張感を引き立てた。


 アイラには、一切の気の緩みがなかった。

 (からだ)全体が緊張の糸で縛られているかのように、全神経を集中させていた。


 しかし、その警戒心と緊張感は、父の執務室へ向かうときよりも和らいだものだった。


 油断していたのだ。

『証拠』を手にした達成感で気が緩んでいた。


 曲がり角を曲がろうとした瞬間、アイラは腕を強く引かれ、そのまま空き部屋へと乱暴に放り込まれた。


 バタン! と勢いよく扉が閉まり、羽交い締めにされたアイラの耳元で、男の楽しげな息遣いが絡みついた。


「可愛いメイドちゃん、確保~。ボクとあーそーぼー?」


 アイラの心臓が凍りつく。


 間違いない、この男が『締め出されていた間抜け』だ。いや、それどころか、意図的にここで待ち伏せしていた確信犯?

 きっと先ほどドアノブをガチャガチャ回したのも、昨年の会合日鉢合わせしそうになったのもこの男に違いない。


 叫びたくても、声が喉に張り付いて出てこない。


 アイラは恐怖に震えながらも、腹に巻いた『証拠』をしっかりと抱き締めた。心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が背中を伝う。

 しかし、これだけは決して手放さないと決意し、『証拠』を守るために全力を尽くす覚悟を固める。


「へへっ、いいねいいね。ボク、大人しい子って大好き」

「……」

「緊張してる? 大丈夫だよー、ボク優しいし、上手いって言われるし。ていうか、叫んでも無駄だけどね、ここから客間に声が届かないのは検証済みだから」


「……」

 全然大丈夫ではないし、この男が優しいというのは絶対嘘だ。


「脱がせるね……って、んんん? このメイド服、型が古くない? ボタン多すぎ……あー、めんどい。ねえ、服破いてもいい? ボク、ボタン多い服って苦手なんだよねー」


 アイラの返事を待つつもりがない、自称・優しい男がビリッとアイラの着ているメイド服を破き──


「うわああああああああ、なんだこれえええええっ」


 ──と、声にならない声で叫んだ。


 アイラは思い切り突き飛ばされ、抱き締めていた『証拠』を守りながら額を強く打った。


「き、気持ち悪ぃ……!! 何だよ、そ、それ……! か、肩のっ! それぇ!」


 痛みに耐えながらも何とか起き上がって振り返れば、男は明らかに怯えた様子でこちらを見ていた。


(……もしかして、()()が効いてるの?)


 アイラは自分の身を守るため、常に『細工』を施していた。

 それは、「若ければ容姿なんて関係ない!」と豪語する豪商の男が妙な気を起こした場合の『もしも』のための対策だった。

 初潮が来た年からほぼ毎日行っているその細工は、アイラにとっては日常的なものとなっている。


 そして、この技術は、亡き母が「この技術だけは身に付けておきなさい」と言い、個人的に雇った女性の絵描きから教わったものだった。

 鏡越しに肩に絵を描くことは、最初の頃はかなり苦労した。なんせ首は痛いし、思ったように描けないので。


 けれど今では慣れたもの。イボガエルの皮膚や、苦しむ人間の顔を模した陰影など、おぞましい絵を描くことができる。


 絵描きに教えられたその技術のおかげで、そういった不気味で近寄りがたい細工を自分に施し、身を守る手段として使えるようになっているのだ。

 弊害を敢えて上げるとするなら、普通の絵が描けないということだろうか? 特に不便は感じていないが。


(肩の細工が役に立ったのは、今日が初めてね。……天国にいるお母様、ありがとうございます)


 アイラは男の一瞬の隙を逃さず、すかさず『役作り』に入った。


「何だと思います?」


 アイラの肩に描かれたのは、鮮やかな紫色と濁った赤色で表現された爛れた肌だ。それはそれは、見る者の心を引かせるような不気味で生々しい質感である。


 会合の始まる時間まで何かしていないと落ち着かなかったアイラは、今日の細工にいつもより何倍も多くの時間を費やしていた。

 その結果、アイラの肩には本物の傷のような絵が仕上がり、たとえ成人男性であっても、声にならない叫びを上げて縮み上がるほどの出来栄えとなった。


「知らねえよ! な、な、何なんだよっ!」


 アイラの静かな声に対し、男の声は情けなく裏返っていた。

 その滑稽さに、こんな緊迫した状況でもアイラは思わず笑ってしまう。


「『ピパンペ』をご存知でしょうか?」


 アイラが口にしたのは、その場で即興で作った造語だ。『フィナンシェ』と同じ発音である。


(……フィナンシェが食べたいからって適当すぎたかしら?)


 男はキョトンとした顔でこちらを見ている。

 その反応を見て、アイラは内心の焦りを隠しながら話を続ける。


「ピパンペです。毒虫を食べる食虫花の」

「あー……ぴぱんぱ、ね、うん、それは、うん……あれね、うん」


(あら? 知ったかぶりをしてる?)


「旦那様が秘密裏に育てている植物なのですが……」

「あー、うん。で? それが何?」


(思った通り、この人、お馬鹿さんだわ)


「私は旦那様にピパンペを世話するよう申しつかっているのですが、先日噛まれまして、()()()()になってしまったのです」


 破れた襟元を自分でぐいっと広げ、肩に描かれた不気味な細工を見せつければ、男は目を見開き、幽霊でも見たかのように後ずさりする。


「うえぇ……っ、ちょ、見せないでいいから。はあ、もういいよ、君、どっか行って。今日のことは黙っていてあげるから」

「ですが……」

「いいから! 早く消えろよっ! 気持ち悪ぃんだよっ!」


(これで一応は撃退成功かしら……?)


 しかし、男を完全に追い払うためには、もう一押しが必要だ。


 再び頭の中で急ピッチで作戦を練る。


 そして、思いついた。


「……あの」

 怖々な(てい)で男に声をかける。


「何だよっ! さっさと出てけって言ってんだろ!?」


 苛ついた男に、アイラは「申し訳ありません」と頭を下げ、続けて言う。


「ピパンペは感染(うつ)るのです」

「は……? う、う、感染る……?」

「はい。でも、初期段階ならば確実に毒素を取り除ける方法があります」

「ど、どうやって?」

「まず、月の明かりをたっぷり浴びることです。二時間も浴びれば、きっと効果があるでしょう。次に、大量の砂糖を溶かしたお湯に一時間浸かります。髪も同じお湯で念入りに洗ってください。そして、その後は外で体を乾燥させます。このとき、タオルで拭いたり扇子で扇いだり等の自然でない行動で乾かしてはいけません」


(ここまで言えばさすがに嘘だとバレてしまうかしら……?)

 と、思ったが、男は真剣に話を聞いているので、アイラはどきどきしながら言葉を続けることにする。


「体と髪が乾いたらここでようやく服を着ることができます。それから、熱いドクダミ茶をティーカップで五杯飲んでください。これで工程は終了ですが、途中で誰かと話してしまうと効果はゼロ。一人言は許されますが、効果は半減します。以上です──これらを守ることができたのならば、あなたに感染った毒素は完璧に取り除けます」


(…………さすがに無理があるわよね?)


 いくらこの男が馬鹿でも、さすがに馬鹿にしすぎたかもしれない。


 と、思いきや。……アイラの想像の一回りも二回りも男は馬鹿だったらしい。

 顔を真っ青にして数度うなずくと、恐ろしい勢いで部屋を飛び出していってしまった。


 アイラはその背中を見送ると、やっと息が吐きだせた。


「よ、よかった……」


 アイラはへなへなと座り込むも、腕時計を見た途端、慌てて立ち上がり部屋を飛び出した。

 それからはただ夢中で廊下を駆け、階段を猛スピードで駆け上がった。

 音を立てないように、とか、慎重に、なんてことは、今のアイラの頭にはない。



 ──そして、部屋の扉を閉め、鍵をかけたとき、時計の針はちょうど二七時を指していた。


 アイラは、荒い呼吸を整え、震える足で立ち尽くす。

 心臓が激しく鼓動し、喉は乾ききっている。


「ふっ、ふふ……う、っ……」


 足は震えているが、それでもこの達成感と充実感は何にも代え難い。

 自分がこんなことを成し遂げられるなんて思いもよらなかった。

 まるで新たな自分を発見したかのよう。


 いや、今、このときを以て、アイラは『新たな自分』に生まれ変わったのだ。


「……恋ってすごいのね」

 アイラは、彼への『贈り物』をぎゅっと抱きしめ、そっと呟く。


 窓越しに見える満月は、なぜかぼんやりと歪んでいた。

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