06.愚かな娘は、暗中飛躍する
アイラが父の悪事を知ったのは、今から四年前。
舞台はシーグマン伯爵家の客間。
年に一度の会合で目にした、忘れがたい光景。
翌年にデビュタントを控えた、当時一五歳のアイラは、扉の前で息を詰め、密かに耳を澄ませていた。
◇
会合の日、開始の五時間前には、屋敷中のすべての使用人に自室待機が厳命される。
父の側仕えとして三〇年以上仕える男さえ、その例外ではない。
さらに父は、誰ひとり部屋から出ぬよう厳しく命じ、それを守った者には翌日、臨時ボーナスを支給するという徹底ぶりを見せた。表向きには『日頃の感謝と労わり』とされていたが、実際のところ使用人たちがどう思っているかは分からない。
だが、これに逆らえば職どころか命の保証もなくなるのが現実であり、皆が黙って部屋に籠り、金を得る方を選ぶのは自然な成り行きだった。
そんな彼らにとって、アイラは何も知らない、無害で無知な存在に過ぎなかったのだろう。
まさか、『世間知らずで苦労知らずの愚鈍なお嬢さん』が、父の罪を密かに暴こうとするなど、父も使用人たちも夢にも思うまい。
◇◇◇
カチ。
(──二三時五七分……二三時五八分……)
こんなにも長い三分は、後にも先にもこれきりだろう。
カチ、カチ、と時計の針が進むたびに、アイラの胸は焦燥感で締め付けられる。
時間が過ぎ去ってほしい気持ちと、この瞬間が続いてほしい気持ちがせめぎ合っているのだ。
時間が進むことで迎える何かが恐ろしくもあり、待ち遠しくもあった。
カチ──
そして、秒針が二四時を指した瞬間。
アイラの内は一瞬静まり返った。
ついにそのときが来た。
勇気を振り絞り、アイラは新たな覚悟を胸に自室から出る。
会合の時間は、深夜二四時から二七時までの三時間。
途中、一時間ごとに一〇分間の休憩が挟まれ、その間は客間の出入りが自由となる。だが、そのきっかり一〇分の休憩時間を守れない者は容赦なく締め出される決まりだ。
昨年、アイラはちょうど締め出された間抜けな男と鉢合わせしそうになり、肝が冷える思いをした。
(もう二度としたくない体験ね……)
◇
(落ち着いて。大丈夫よ、大丈夫……あんなに練習したんだもの)
いくら言い聞かせても、耳元に心臓があるのではないかと感じるほど鼓動がうるさく響き、アイラの手の震えは止まらない。
(お願い)
冷たい鍵穴に触れた瞬間、指先が氷のように冷たく感じられ、呼吸が詰まり、口が乾いていく。
アイラの心臓はまるで胸を突き破りそうな勢いで鼓動し、その音が耳元で大きく響く。
(お願いだから、止まって)
決意を固めたにもかかわらず、恐怖が足を竦ませる。
頭の中で何度『大丈夫』を繰り返しても、その言葉は虚しく響くだけ。
静寂がアイラが発する小さな物音を一層強調し、緊張感をさらに高める。
それでも、自分の内なる強さを信じ、恐怖を乗り越えようと必死に自分に言い聞かせる。
「しっかりなさい、アイラ……!」
自分を叱咤した声が思いのほかひっくり返っていて、アイラはその滑稽さに思わず息をついた。……おかげで、逆に少しだけ落ち着きを取り戻せた。
アイラは持ってきた二本のピンを鍵穴に差し込んだ。
──腕時計に表示されている時刻は、二四時一〇分。
震えが収まった手元を照らしているのは、満月の光。
ランプがなくても活字を追えるほどの明るい夜に、アイラはそっと感謝の気持ちを抱いた。
満月の光が優しく照らし、アイラの気持ちをほぐす。
その瞬間、アイラは思わず微笑んだ。
(運がいいわ)
これからの困難に立ち向かう勇気が、月光によって与えられたようだった。
◇
予定していた時刻を大幅に裏切り、アイラは父の執務室に入ることができた。
時刻は、二四時二九分。
自室の鍵穴で練習したときは五~六分で開錠できたのに、父の執務室では二〇分もかかってしまった。
扉に背を預け、そのまま座り込みたくなる衝動に駆られるけれど、そんな暇はない。今は、一分一秒が惜しい。
(絶対に見つけなくちゃ)
父の執務室の窓は大きい。この屋敷の中で一番良い景色が見えるのがこの部屋だった。
アイラが重いカーテンを机の幅まで引くと、月の光が一気に差し込む。
明るすぎると感じたのは、二〇分も暗闇の中にいたせいだろう。
両袖タイプの机には、合計で七つの引き出しが備え付けられていた。左右にそれぞれ三つずつ、そして中央に一つ。右側の上段の引き出しだけには鍵がかかっており、他の引き出しとは違った『重要さ』が漂っている。
机の下には棚板が設けられており、そこには分厚い背表紙のハードカバー本が八冊並べられていた。さらに四、五冊ほどは収まりそうな空間が残っているが、その空きスペースには埃がうっすらと積もっていた。どうやら長い間、ここには新しい本が置かれていないようだ。
目を閉じ、大きく息を吸い込んでから長く細く息を吐く。胸が上下するたび、緊張が少しずつ和らいでいく。
(大丈夫、私ならできる)
まず、中央の引き出しを開ける。
中には、父が普段吸っている葉巻とそれを入れるケース、マッチ箱がきっちりと収まっていた。
父が几帳面な一面がある人だとは知っているので驚きはしないが、マッチ箱の多さにはさすがに眉を顰めてしまう。
葉巻ケースの中には小さな鍵が入っていた。
期待と不安が入り混じる。
サイズ的に右袖の上引き出しのものだろうと見当を付け、鍵穴に鍵を差し込むと、何の引っ掛かりもなくカチリと音が鳴った。
(これで……)
アイラの胸に希望が広がった。
きっと右袖の上引き出しには、父の悪事の証拠があるはず……と。そう期待を込めてアイラは鍵付きの引き出しに手をかけた。
「……」
鍵を開け、慎重に引き出しを引くと、そこには何か重大な秘密が隠されている、はずだった。
だが、引き出しを開けた瞬間、アイラの期待は見事に裏切られた。
そこに入っていたのは、証拠の書類などではなく、なんと春画の束だったのだ。
あり得ない体勢で絡み合っている男女の絵は、結婚適齢期にもかかわらず領から一度も出たことのないアイラには刺激が強すぎた。
だけど、春画の束の下にもしかしたら証拠があるかも、と触るのもおぞましい絵を一枚一枚捲り確認していく。
端的に言って、地獄である。……父が隠し持っている春画なんて見たくなかった。
結局、書斎机で唯一鍵の付いている右袖の上引き出しの中身は春画だけだった。
時刻は、二五時一五分。
「はあ……」
鍵を閉め、葉巻ケースの中にそれを仕舞い、右袖の二段目、三段目と順に調べていくも、アイラの期待していたものは見つからない。
二段目には札束がぎっしりと詰まっており、三段目には金のインゴットが隙間なくびっちりと並んでいた。
ここでようやく焦りを覚えたアイラは、慌てて左袖の引き出しに手を伸ばす。
しかし、こちらも期待していたものは入っていなかった。
胸の中を不安が占め、心臓の鼓動が速まる。
左袖の引き出しの中身は、すべて宝石だった。
一段目は赤い宝石。二段目は青い宝石。三段目は紫色の宝石。他の引き出し同様、宝石屋のケースさながらに収納されている。
アイラの手は小さく震え、次にどうすればよいのか考えがまとまらず、頭を抱えた。
もしここになければ、一体『証拠』はどこにあるというのだろう?
父は重要なものはすべて執務室に置く──そう信じていたのは、父と側仕えの何気ない会話を聞きかじったアイラが、勝手に思い込んでいただけのことで、確実な根拠があるわけではない。
しかし、父が「銀行の保管庫など信用できるものか!」と吐き捨てているのを聞いた記憶があり、『父は重要なものを執務室に置く』と思い込んでしまったのだ。
(ここにないのなら、私にはどうすることもできないわ)
時刻は、二五時五〇分。
残された時間は一時間一〇分。
会合時間が延びる可能性はあるが、それをあてにできるほどの確信は持てない。
会合時間延長はないと考えて行動すべきだろう。
「うー……」
アイラは、小さく小さく唸った。
それとほぼ同時に、執務室のドアノブがガチャガチャと乱暴な音を立てた。
(……!!!)
アイラの全身が一瞬で凍りつき、驚きと恐怖が全身を駆ける。
息が止まり、体が硬直する。指先が冷たく震え、思うように動かせない。
アイラは声を必死に抑えながら、机の下に潜り込んだ。
(神様……っ)
ドアノブの音に合わせて激しく鼓動し、呼吸は浅くなり、冷や汗が額を伝う。
……しかし、ドアの外からガチャガチャと音がするだけで、入室してくる気配はない。どうやら、ドアノブを鳴らしているのは父ではないようだ。
冷静に考えれば分かることだ、鍵を持っている父がこんなことをする理由がない、と。
(……もしかして、今年の『締め出された間抜け』さん、かしら?)
ガチャガチャという音はこの間も絶えず鳴っている。
(会合が終わるまでにどこかへ行ってくれるといいのだけど──あら?)
ふと、棚板に置かれているハードカバー本に違和感を覚えた。
自然とその本に手が伸びる。
書斎机の引き出しに仕舞われた物の整然とした様子から、父が本を仕舞う際にも几帳面さを発揮していることは容易に想像できる。
父なら作者別や発行日別、ジャンル別に分けて整理しているはずだ。
それなのに、ここにあるのは『薬草大辞典 第一巻』だけ。それも、八冊も。
指先で触れると、冷たい表紙の感触が神経を刺激した。
(──見つけた)
手に取った『薬草大辞典 第一巻』は、中身がくり抜かれ、本としての役割を失っていた。
代わりに、書類を保管する箱として使われていたのだ。
(まさか、こんな形で証拠を見つけることになるなんて……)
その箱に収められていた書類こそ、アイラが必死に探していた父の悪事の証拠──顧客リストと、複雑に入り組んだ資金洗浄の流れを示す取引記録だった。